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中動態とリフレクソロジー。

今日えごたのもりにリフレクソロジーを受けにお越しになった先生が、

ふと、

「中動態ってきいたことある?」とお尋ねになるのでした。

受動態でも、能動態でもない、言葉の動態のこと。

日本語だとちょっとイメージがわきにくいんですが、

例えばイタリア語だと

Mi chiamano Aya.  (『私は絢です。』=日本語の感覚だと『彼らは私を絢と呼びます』)

とかの、再帰動詞がちょっと近い使い方らしい。

ウィキペディアによれば、

自分に対する動作(従う・すわる・着る・体を洗う)
動作の結果が自分の利害に関連する場合
知覚・感覚・感情を表す動作(見る・知る・怒る)
相互に行なう動作(会話する・戦う)
だそうで。やっぱり、受動態と区別がつきにくい。

わたしに浮かんだ説明は「他のせいにする」「他力本願」。そして、「ネガティブスペース(余白)」でした。

リフレクソロジーというのは、その人の不調をいったん身体や人格から引き離して、他のところに投影する自然手技療法だと思っています。

十音なら足を全身に「見立てる」。

消化器の調子が悪いことを、一度、胴体から離して、「土踏まずが固い」というところに反射させてみる。

セラピューティック・リフレクソロジーでは、さらに東洋医学的に、大地に反射させて、土壌が固くなって、根が張れない…という風に。

いったんさらにその人から引き離す。

中動態は、能動と受動の言葉の性質の狭間で、追い詰められて苦しむ人の救いとして注目されるようですが(まだあまりよく知っていません)、わたしは自分が使っている技法ととても似ていると感じました。

あと、絵画で、描いている人物のまわりのスペースをネガティブスペースというそうです。言ってみれば、ネガティブスペースによって切り取られている対象物がある。

西洋画が対象物の周りを色で「埋める」ことに一所懸命なのにくらべて、白いまま、「余白」のままである東洋の文化って、「ない」ということに無限の意味を与えます。

例えば音楽の「休止」に対して、西洋の音楽辞典が「音のないところ」と説明するのと違い、日本の音楽辞典は、休止に「間」という積極的な意味を与えて、3ページぐらい説明するのです。

先生は、「ぼくは俳句が、回りのことを語っているだけなのに読み手の心情が立ちのぼることが不思議だと思っていた」と言っていました。

わたしは、周りの自然を語ることで自分を知る東洋医学的な世界は、もしかしたら自分の臓器に責任を負わせる西洋医学的な世界に較べて、人を楽にする傾向もあるかもしれないと思います。

つまり、反射学や東洋医学や俳句は、すごく余白的に、他力本願に、中動態的に、自分というものの輪郭を知らせてくれる。腑に落としてくれる。

それは年度末にコマツさんと占星術について話していたときにも実は感じていたことで、「わたしがこういう性格だから」ではなくて、「だってわたしの星がこういう並びだから」と語っていくことの、効能ですね。

Reflexology を受けているときに、中動態という言葉がふと浮かんだというから、先生、やっぱり変で面白い。

ウィキによるとサンスクリット文法では中動態を「反射態 Reflexve」っていうそうで。

反射 Reflex が周りにひろげてくれる楽な世界へ。どうぞ。


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