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南信州の冬の朝はもれなくマイナス気温で、映画『アナと雪の女王』程度に氷のパキパキいう音を聞くことができる。
朝6時前、氷に覆われて真っ白になった愛車軽トラのフロントガラスに水をかけ(お湯である必要はない。要は0度より高ければよいのだから)こすったりかいたりとなだめすかし、何とか視界を確保したら出発。

冬眠というぐらいだから冬は少し遅く起きたい、なんなら8時以降、太陽がしっかり昇ってから布団から出たいけれど、人が休んでいる時が私が働く時、というのは東京にいるときと変わらず私に課されることのようで、私は修行が好きではないのにな、と抗議する。冬はもっと休むと決めたのに、五行は私の手を所望してくる。

この1年でからだ、特に手が、さまざまな体験を肉に変えながら変わっていった。考える自身から独立してしまったみたいに、
たとえ思考は今になくても手が仕事をしてしまうようで、
私は自分の手に大層頼るようになった。手がおぼえているだろう、手に積み重ねられた経験があるから何とかなるだろう、解せるだろうと、それは自信ではあるけれど、身が先行して思考がついて行っていない感もある。

それは伸びすぎた樹木(行動や筋肉)と痩せてきた大地(消化力)の関係に似ている。また手のうちでも特に右に頼りがちで、右半身の過労と左半身の楽天的な健やかさがちぐはぐしている。

田、畑、家、施術、温泉旅館の整備補助。この生活に大きく揺れた。みなまったくふるまいが違うけれど「解し」を大元に持っている。それぞれの活動を全身全霊ですればするほど、私のことほぐし家/刺激を入れる人としての芯は強くなっていくはずなのだけれど、如何せん時間と体力の配分技が不足していた。そうすると、私オリジナルな芯(=心)は「解し」からどんどんぶれて、他人のもつ「田んぼの心」「家の心」「施術家としての心」へと引っ張られていく。つまり家はこうあるべき、田畑活動はこういうのが理想的、といった、他人の信念へと。自分がマスの基準から外れていることに嫌悪感を抱いたりする。少なくともふるまいが5種類以上あるから、それぞれでいちいち心をブラしていたら自己嫌悪のかたまりになってしまう。

「自分が何屋だかわからない」ということに悩んでいる人がいたら一緒に解らないな〜と言っていたい。
どんな振る舞いにあってもあなたはあなたの解を生きている。解は陰。あけっぴろげにするものではないがあなたの生命力を讃えてくれるもの。他人に明け渡さないで、自分の陰を大切に。

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