医療行為は道に反することがあるのか?
前回から考え始めた、老荘思想の「道」は宇宙を動かす大きなエネルギーのことですが、道について田口先生の老子講義の中で、一緒に学ぶ朋が興味深い質問をしていました。
彼女は製薬会社の経営者をされている方のようでしたが、偶然なのか、受講生には他にも製薬会社の経営者はいらっしゃるようでした。
彼女からの質問とは、「医療は道に反するか」と言ったものでしたが、私は今自分が白血病の治療中であることもあって、興味深い質問だと感じました。
私はお茶が好きなので、茶の湯の精神的な支柱となっている禅には興味を持っており、病院に入院してからも有馬頼底猊下の本を、お茶の先生が送って下さったこともあって、読んでいました。そこで見つけた「その日暮らし」という言葉や、病人なら病人らしくその日一日を過ごせば良いといった考え方にはずいぶん救われましたが、
その一方で、著者の考えとして、抗がん剤などの強い薬を用いた医療は行うべきではないし、自分でものを食べられなくなった人に栄養の点滴などで命を長らえるような治療は行うべきではない、と言うことも書かれていました。
私は白血病の治療の過程で抗がん剤を使った化学療法を受けましたし、骨髄移植を経験し、その際に1ヶ月以上の間、自分でものを食べたり飲んだりすることができなかったので、その間は水分と栄養はその一切を点滴に頼っていました。感心したのは、その間は体重は一切減ることもなく、かえって水分の点滴が排泄量を上回るとむくんで体重が増えてしまうことがあるくらいでした。その後、退院に向けて点滴を減らしてゆく過程では、水を十分飲むことくらいはできるようになっていましたが、まだそこまで食べられなかったので体重はやはり落ちましたが。
点滴だけで1ヶ月以上も体重も維持できるってすごいですね、とある日看護師さんにお話ししたら、看護師さんからは、この病棟だけじゃなくて、例えば拒食症の治療をする病棟では点滴だけで何ヶ月も患者自身は飲まず食わずで治療にあたる場合もあるのだと教えてくれました。医療の力って本当に凄いなあと思いました。そう言えば病院内では私もした高濃度の栄養の点滴をぶら下げて歩いている人を割と見かけます。
このように、栄養の点滴については「自分で食べられないなら、すべきでない」という意見を持つ人もいることからだと思われますが、私に対しても移植後、医師からは水分と栄養の点滴で食事などできない分を補給したいかどうかの確認があり、私からはお願いしたいとお返事しました。
一方で、今健康な生活を送っており、そして老衰により死ぬと言ったイメージを持って、いわば健常な暮らしができている人が、食事ができなくなったら栄養などを人工的に補給すべきでないと考えることは、そうかなと私も理解ができます。またそのように自分や大切な家族の死をイメージしておくことは、大切なことではないかとも思います。
江戸時代の人は「上り坂の儒家、下り坂の老荘」と言って、人生が上手くいっている時には儒家の考え方で、つまり現状守っている規範の大枠は変えないけれども所作や振る舞いは謙虚に見直して人生を少しづつ改善し、一方で人生の逆境においては老荘思想を採用して、順境の時とはまた少し違った少々神秘的とも言える「道」に立ち返って自己充実を図り、革新することを薦めています。
順境の時には上手く機能していた自分としても信じていた規範を、守ろうとしてもなぜか苦しく、自分は何だか周囲と噛み合っていないんじゃないだろうか、という状況の時にはもう一つ深いレベルに潜ってみる先として、道があるという風に私としては感じています。
宇宙の広大な広がりを御し、太古の昔から生命を生み出し続け、その生命が尽きた後には万物か帰ってゆく先である「故郷の肝っ玉母さん」のような「道」。その道と一緒に生きているという感覚は、確かに私の病気療養生活においても心の支えとなっていると感じています。