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見えない、聞こえない、つかめない「道」

7月の田口先生の老子講義は老子道徳経の12章から14章の3つの章句を解説していただきました。

このうち、14章では宇宙の根源である「道」は、

これを視(み)れども見みえず、名なづけて夷(い)と曰いう。之これを聴(き)けども聞きこえず、名なづけて希(き)と曰いう。之これを搏(とら)えんとすれども得(え)ず、名なづけて微(び)と曰いう。

と始まって、見ようとしても見えない、聞こうとしても聞こえない、つかもうとしてもつかめない、よく判らないものなのだ、と始まって、道とは何だかぼんやりしたもの(=惚恍・こっこう)と説明されています。

これは一体何を言っているのでしょうか。

これを考えるときに思い浮かぶのが、道徳経では、1章の冒頭が、

道の道とす可(べ)きは、常道(じょうどう)にあらず。名の名とす可(べ)きは、常名(じょうみょう)に非ず。

と始まっていて、意味は、道っていうのはこういうものなんだよ、と言葉で名付けようとした途端に、もう、それは違う。といきなり不可解な説明から始まっていることを思わずにはいられません。

私たちの生き方として、色々な社会的な規範とか周囲の期待に沿った行動をすることによって、社会的な成功を目指すというような枠組みを想定すると、宇宙を生み出し、太古の昔から宇宙を動かしてきた根源的なエネルギーである「道」はその究極の規範と考えられるので、ぜひその仕組みがどうなっているのかを知りたいところなのですが、それが、言葉で表現はできないし、見たり聞いたりつかんだり、直接はできないのだ、といきなり言われているということです。

道とは大きな真実の存在であって、「感じる」ことしかできないということのようです。

老荘思想に大きな影響を受けたのが仏教の禅だと言われています。禅は鎌倉時代に日本に伝わって、武士道をはじめ日本の文化に大きな影響を与えました。禅での悟りは個人が自分で感じることしかできないものであって、悟りとはこういうものといった説明はなされません。しかし、ということは道は私たちにもともと内在するものであって、あるいは私たちはもともとその一部であるので、自分の中に降りていって、それを発見することが人間には可能なのだろうかとも思います。その発見のプロセスが座禅なのかもしれません。

禅は武士道の死生観以外にも、俳句であるとか、茶の湯であるとか、絵画など、日本の芸術の発展にも大きな影響を与えたと言われています。「道とはこういうもの」、「悟りとはこんなこと」といった規範がいわば無くて、でも真実の存在であって、そして自分の中に降りていって感じることしかできない宇宙を動かす力である道は、人間のクリエイティビティを掘り起こす力があるのだろうかと感じます。

老荘思想や禅は人間には実は見えない、聞こえない、つかめないものを洞察によって感じ取るすごい能力があるのだと教えているような気もします。それは本を読むと得られる知識とは違くて、元々人間がその一部である宇宙のエネルギーを感じ取るには、静かに自分の中を見てみることだと言われているとすると、現代社会で言われている教育格差とか関係なくて誰にでもすごい可能性が開かれているのだろうかとも思えます。

日常生活で考えてみますと、例えば病気療養中の私ですが、普通の社会規範で考えますと、仕事をすることなどによって社会参加もできませんし、病気の不安もあって、まあ何というか、八方塞がりな状況としか言いようがありません。

しかしながらそうしたまあ普通の規範っていうものは横に置いといて、毎日を感じて暮らす「その日暮らし」をしてみますと、自然の中に四季の移り変わりが見えたり、人の思いやりに気づいたり、あるいは自分の中を良く見てみますと、この機会にnoteを書いてみようかだとか、ずっとやってみたかったことをやってみようかだとか、クリエイティブに考えることができるようになったりするものだと感じます。こうした考え方ができるのも10年以上前から老荘思想などを教えていただいていたからかなあと何となく自分でも感じていたところでした。

あなたはどうですか。自分の置かれた状況の一般的な社会規範での常識による解釈はあるでしょうが、あなたの心は本当はそれをどう感じて何と言っていますか。

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