「君が君で君だ」から好きなんだ。
阿部広太郎さんにお招きいただいて、「君が君で君だ」の試写会に行ってきた。ネタバレになってしまうので詳しいことは書かない。でも、ひとつだけ断言できる、絶対に見たほうがいい。
「ねぇ、いまの彼女のどこが好きなの?」
「なんで私のこと好きになったの?」
誰しもこんなことを口ばしったことがあるのではないだろうか。そして、それに対する答えはこんな感じ。
「優しいところかな。可愛いし」
「え、全部だよ。ぜーんぶ」
果たして本当にそうなのだろうか。
優しいところや可愛いところがなくなったら嫌いになれるのだろうか。
全部が好きっていっておいて、相手の全部を見れているのか。
好きって、愛って、なんなんだ。
それに対するひとつの答えを「君が君で君だ」では見た気がした。
この愛は純情か、それとも異常か。
この映画のコピーである。
劇中、「尾崎豊」「ブラピ」「坂本龍馬」と名のる青年3人は、一般的ではない形で愛を積み重ねていく。私にはその様子が80年代のアイドル文化に重なってみえた。○○親衛隊。
好きな人は神格化され、触っちゃいけない。好きだから、その人を守りたい受け入れたい。そういう愛の成れの果て。私はキリスト教でも仏教でもないが、神に触れることが烏滸がましいということくらいわかる。彼らにとってのヒロイン「ソン」もそういう対象なのだろう。
一般的ではないものというのは、いつだって違和感にさいなまれる。「君が君で君だ」に描かれている愛の形もそう。マンガやドラマを見て気軽に憧れるような愛の形は存在していない。
じゃあそれが異常なのか。私には、その判断をくだすことができなかった。
敬愛している人のことだけを考え、すべてを捨てて見守り続けてきた10年間。命を燃やし、それだけに注力してきた人生。並大抵の人が真似できることではない。それは、一種の美しさだ。(自分がその対象になったら引いてしまうだろうけど)
また「君が君で君だ」で描かれている偏愛が爽やかで美しく感じてしまう理由として、”尾崎豊”の存在も忘れてはいけない。劇中に登場する彼の楽曲の数々は、3人の変態紳士がいかに邪心なくひたむきに彼女を愛しているのかということを裏づけている。矢沢永吉ではダメだったし、内田裕也でもダメだった。この作品には”尾崎豊”しかいなかったのだ。その理由も、作品を見ていただければきっとわかってもらえると思う。
「君が君で君だ」のメインキャストである”尾崎豊”に、前述した質問をしてみたい。
「ねぇ、ソンのどこが好きなの?」
「なんで私(ソン)のこと好きになったの?」
きっと彼は、こう答えるのじゃないだろうか。
「君が君で君だから好きなんだよ」