0.02mmより密に感じた、あの夜が忘れられなくて
「ん~、美味しくない」
ボソッと呟いた言葉は、立ちのぼる煙と共に夜の闇に溶けていった。手元では細い棒がジリジリと火を灯しながら燃えている。その朱さを見つめながら肺のなかにある空気をグッと押し戻すと、なんともいえぬフレーバーが口のなかに広がった。
「やっぱり美味しくない」
そう思いながら、再び唇へ手を運ぶ。吸って、吐いて、煙を見つめて。吸って、吐いて、灰を落として。なんの代わり映えもしない、ありきたりなローテーションを繰り返す。
息をゆっくりいれてみたり、素早く吸いこんでみたり、どんなアプローチを試してみても味は変わらず美味しくなかった。それでも私がタバコを吸い続けているのは、忘れられない夜があったからである。
***
今年の夏、私は人に飢えていた。今までであればそれなりに埋まっていたスケジュール帳も、開く必要すらないほど真っ白に。外出自粛要請が解除されたとはいえ、コロナに対する考え方は人ぞれぞれであるがゆえに、友人ですら気安く「会おう」なんて言えない。
「オンラインで会えばいいじゃん」なんて声も聞こえてきそうだが、それでは全く満足できなかった。ラグのない世界で会話がしたかったし、揺れ動く表情を直接目にしたかったし、ノリに身を任せて他人の体にも触れたかった。
コロナ禍のひとり暮らしは、「人恋しい」という感情を私にわかりやすく認識させたのだ。
その結果、私はマッチングアプリをぶん回した。表示される写真を、右へ左へ。ソートした子のなかから、何人かと約束を取りつける。
コロナがもたらした変化のひとつは、デートのショートカットだ。今までなら「じゃあ最初だし飲みいこう」となっていたものが、「外に出るのもあれだし、映画を観ながら宅のみしようぜ」となった。
年頃の男女 家 酒 いい雰囲気になる映画
これだけキーワードが揃えば、なにが起きるかなんてわかるだろう。そうなることを念頭において、私は何人かの男の子と遊んだ。そのなかのひとりが、私に”喫煙者になる”ということを選ばせたのである。
*
8月のある日、私は電車に乗って彼の家へ向かった。待ち合わせは、16時。途中のコンビニでお酒とおつまみを買いこみ、約5分の道のりを歩いていく。ドアを開けた先に待っていたのは、交換していた写真と変わらないイケメンの男の子だった。
色白の肌にマッシュパーマ、スッとした細いラインの体。わかりやすくいうなら、K-POPアイドルのようなルックスだ。
そんな彼を前にして、生意気ながらも「ありだな」なんて心の隅でイエスを決めた。
ふたりしてソファーへ腰かけ、テレビに映し出された amazon primeをスクロールする。あれにしよう、これにしようなんて話しながら、なぜだか決まったのは『キングダム』。
「ここから、どうやってそういう雰囲気になるんだ?」とも思ったが、照明の暗い部屋にお酒の入った男女がふたり揃えば、観る映画なんて関係なかった。
自然と手が重なって、自然とベッドに手を引かれて、自然と繋がる。
一通りの段取りが終わると、人に触れられた満足感と終わってしまった虚無感が、一気に自分のなかを駆け巡った。
0.02mmの壁を隔てて密になったところで、彼のことなんて何もわからない。好かれたいなんて思わないが、目的が満たされて会わなくなる関係には、さすがに寂しさを覚える。
「やることやったし、帰されるんだろうな」そう考えながら散らかった服をかき集めていると、彼が口を開いた。
「タバコ吸いにいってもいい?」
冷房でひんやりした服に袖を通し、もわっとした空気が広がる現実へ。自分より10㎝ほど高い彼の背中を小走りで追いかける。タッタッタッ。表面だけ冷やされた体が、徐々に夏へ戻っていく。
マンションと隣接した駐車場に出ると、ちょうど夕方と夜の狭間だった。
彼はオレンジいろの箱を取り出し、中指で蹴とばした。ポスポスポス…。少し間を空いて「カチッ」と音が鳴り、細いのろしがじんわりとあがる。ノンスモーカーの私は、その姿をぼーっと眺めていた。「これが終わったら、形だけで繋がった私たちは他人に戻るんだ」なんて考えながら。
「1本吸う?」
何気なく、さも当たり前のように、彼はタバコを差し出した。
「じゃあ、もらおうかな」
慣れない手つきで指の間に挟み、唇に当てる。ジリジリとなっているのに、いっこうにつかないライターの火。不思議そうな表情を浮かべていると、「息吸って」と彼が笑った。
さっきまでうんともすんともしなかった棒先が、一気にボウッと灯る。流れてきた味のついた空気を口に含み、おもむろに吐き出す。28歳にして、私は初めてちゃんとタバコを吸った。
もちろん、それまでも1本もらって吸ったことくらいある。しかし、火がついているタバコを一口とか、なんとなくふかしてみるとか、そんなもんだった。この日、初めて「あ、タバコ吸ってる」と私は思ったのだ。
駐車場に並ぶ男女ふたり、煙を2本あげながら他愛もない話をした。仕事のこと、恋愛のこと、自分自身のこと。お互いの思っていることや考えていることを交換していく時間は、0.02mmの壁を隔てて繋がっているときよりも、ずっとずっと彼を近くに感じさせた。
体の輪郭はより鮮明になり、顔立ちもよりクッキリと浮かび上がってくる。あんなに触れていたのに、あんなに見つめていたのに。1mくらい離れて会話しているときのほうが、彼の本質がわかる気がした。
「タバコ、美味しいな~」
自分が死ぬまで口にすると思っていなかった言葉が、ふいに零れ落ちる。でも、しょうがない。美味しかったんだから。
肌に張りつくジワッした温度、少しずつ夜へ向かう空、相手をちゃんと知ろうとする会話。その全てが美味しかった。”タバコを吸う”という行為を通して、私は彼に近づけた気がしたのだ。0.02mmよりも、ずっとずっと近くに。
喫煙タイムが終わると、四肢の隅々まではびこっていた人恋しさは跡形もなく消え去り、充足感に満ちていた。
彼と別れ、家へ向かう帰り道。私は四角いピンクの箱とライターを買った。
***
「ん~、美味しくない」
今日もひとり、私はベランダでのろしをあげる。年明けを前に二箱目という超スローペースは、回りから見たらやめても同じに映るかもしれない。「美味しくない」と思うなら、なんで吸ってるんだよと思われるかもしれない。
それでも、喫煙者であり続けるのは、あの夜が忘れられないからなのだ。
0.02mm以上に誰かへ近づけたと思った、あの夜が。
これから何年経っても、タバコを吸う度にきっと私は思い出すんだ。コロナ禍で孤独を感じたこと、人恋しくてマッチングアプリをぶん回したこと。そして、身体的に繋がるよりも一緒にタバコを吸う時間のほうが密に相手を感じたことを。
「やっぱり美味しいかも」
幸せな喫煙タイムを思い出しながら吸いこんだ煙は、ちょっとだけ味わい深く感じた。