ぬかるみかもしれない
Barro tal vez という曲がある。
アルゼンチンのシンガーソングライターである
ルイス・アルベルト・スピネッタが15歳の時に作曲した曲だ。
歌詞を理解するのは難しい。だから理解はしない。だが、作り手とともに同じ風景をみたいとは思う。
そこに誰がいたのかを識りたいのだ。
同時にハートに響いたメロディやことばの断片を手がかりに、その曲に表れた美しさや大切だと感じるものの手触りをわたし自身の内側にも見出していく。
その手触りは決して自分が視たいものではなく、かといって作り手の視たいものでもやはりなく、曲を通して授かったもの、と云って伝わるだろうか。
それはことばにはできない質のなにかであり、
ことばである必要のないなにかでもある。
その質感を過不足なく表出するために音楽は営まれる。Barro tal vezはその必要性をうたっている。
なぜならその次元で共有された質感は、静けさを以ってわたしたちのつながりをよりいっそう深めるからだ。
わたしはうたい手であると同時に、書き手でもあるが故に、ことばでもなんとか表現できないかと試みるが、
その質感を知らぬ者をいたずらにわかったような気分にさせてしまうだけではないのか、とやはり危ぶんでしまう。
それでも、それが存在するという事実を知らせるほどには機能してくれるのではないか。
口をつぐむしかない状況が訪れたとき、それでも自分に正直であるために肉体を超え、感じるまま叫んだならばそれがおそらく泥のうたとなる。
ここでいう泥とはなにか。
曲全体の風景をぐるりと何度も見渡してみて、煩わしいことや不名誉なこと、または汚さや醜さの象徴として用いたのではないかとの感覚を覚えた。
肉体が朽ちてなおうたう自分は魂の神聖さとつながるが、あくまでも悲惨さや不幸を含め持つただの人間であり、また大いなる自然の一部でもある。
そこに立つとき訪れる静寂こそ、わたしたち全体の物語を変容する。
そしてこの創造的な結末を迎えるために、未だ眠れる部分と既に目覚めた自己とを融合させながら、今この瞬間の自分をさらけ出してうたうことを、わたしは勇気を持って選ぶ。
読んでくださって嬉しいです。 ありがとー❤️