ひかり
蝉の声が響く季節。物陰からひょいと顔を覗かせたその子は、くりくりとした目で私のことを見た。
おとなしく、ひとりで過ごすことに慣れていた彼女は、すでに人と過ごす世界を知っていたのかもしれない。
私はその子が、どうしようもなく可愛く、そして寂しそうだと思った。
その子に話しかけると、その子は私の目を見て笑った。
私は傲慢だったのかもしれない。見透かされた、と思ったのは私がそれを自覚していたからなのか。
彼女と目を合わせると、焦げ茶色の瞳を輝かせ、100%の笑顔をこちらに向けてくれる。
その子を見ていると、とても愛されて、大切にされていることが容易に想像できる。
服を濡らして駆け寄ってきたり、ボブほどの短い髪をひらひらとなびかせきゃっきゃとはしゃぐ彼女は、まだ多くを知らない小さな子どもで。
その子の笑顔は、世間知らずの私が積み重ねた、小さな絶望の重さを少しだけ軽くした。
貴方の大切な時間に関われたこと、とても嬉しく思います。
一筋のひかりに救われました。
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保育園での出来事は、自分が子ども好きであるかもしれないという幻想を打ち砕くものでした。
私は幼稚園の時に感じた子どもが好きという気持ちをずっと信じて疑わなかったけれど、親戚の子が生まれたときの違和感、そして今回の保育補助を通して、久しぶりの子どもの世界に自分は馴染めないことを実感してしまった。
私は弱いから、最近は自分の居心地のいい人、攻撃されているように感じない人(これは物理的とか精神的とか、明らかに攻撃してくる人ではなく、勝手に自分がそう感じてしまうような強さを持った人のこと)ばかりと仲良くしていて、そういう人はだいたい配慮を持ってこちらに接してくれる。私は対話も大切にしたいと感じていて、
そういう人に慣れてしまったばっかりに、子どものあの無邪気で、無遠慮な言葉や行動に思った以上に驚いてしまった。あの幼い子どもの多くが持っているパワーにも力をもらえる以上に疲れてしまった。子どもの発言に深い意味はないと思いつつも、言われた言葉にショックを受けてしまった。
一緒に遊んでくれた子どもたちには申し訳ないのだけど、私はいつの間にか子どもが苦手な人間になってしまったのかもしれない。
いや、まだまだ自分自身が子どもで、主人公でありたいのかもしれない。
ただ、小さな傷の中でも、救われた瞬間があったのも事実で。
懐いてくれた数人の子たちの中でも、印象に残っているひとりの子について書きました。
世の保育士さん、幼稚園の先生には頭が下がります。