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映画『ライトハウス』におけるメタファーとオマージュの考察

『VVITCH』の監督であるロバートエガースの最新作『The Lighthouse』。制作からしばらく経っているのに日本で公開されないなあと思っていたら、先日遂に公開がスタートした。きっと、アリアスターを始めとする新進気鋭の映画監督達の名作の多くがA24から生み出されているから、A24の地位と名声が上がったからだろう。今では「A24の映画なら観たい!」と多くの映画好きが思っているに違いない。

『VVITCH』もいい作品だったし(主演のアニャ・テイラー=ジョイは『クイーンズギャンビット』ですっかり人気女優になったね!)、今作は怪演おじさんウィレムデフォーを迎えた作品とあって楽しみにしていたのだが、まあ期待を裏切らない気持ち悪い映画であった。

本記事ではこの『The Lighthouse』におけるメタファーとオマージュについて考察していこうと思うのだが、先に結論を言おう。

『The Lighthouse』は、イングマール・ベルイマンの『仮面/ペルソナ』のオマージュ作品である。

というわけで、本記事はこの2作を容赦なくネタバレしていくので、ご了承いただけた方のみ先に進んで欲しい。

灯台のメタファー

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はじめに、『The Lighthouse』におけるメタファーについて分析しておく。と言っても、この部分に関しては他の人の二番煎じになってしまう部分もあるので灯台のメタファーについてのみ簡単に触れる程度にしようと思う。

まず、灯台=男性器を隠喩していることはFilm Analysisの世界ではよくある話だ。
この『The Lighthouse』もその例に漏れず、灯台を男性器のメタファーとしていることは、監督のインタンビューや脚本からもわかる。全体としてこの物語は灯台において繰り広げられる男性2人のtoxic masculinityに基づくアルファメイルの戦いという形を取っており、「閉じた世界の中で男性性を獲得し優位に立つために争う2人」という構図になっている。男性性を獲得するということはつまり、灯台の中心である「灯り」を所有することだ。

ではこの「灯り」の持つ役割が何かというと、これは女性性のメタファーなのではないかと思う。ウェイクのセリフに “She needs oil” というものがあるし、英語圏では車をSheと呼んだり、船に女性の名前をつけたりもする。つまり男性が所有し、支配するもの=女性性であり、逆に言えばそれを所有している人こそが「男性」であるのだ。もちろんこれはtoxic masculinityに基づく価値観であるのだけれど。

さて、ウェイクは初めからウィンズローに対して威圧的で、パワハラクソ上司ぶりがすごい。灯室の管理権を一切譲らず、ウィンズローのことも自分の支配下に置こうとし、この「男性性」にしがみついているように思う。
一方で、「男性性」において劣勢であり「所有される性」になりつつあるウィンズローも、男性らしさを再獲得しよう=灯室の管理権を奪おうと躍起になる。2人で酔ってチークダンスを始めていい雰囲気になってキスしそうになって…殴り合いを始める様は、暴力(=男性性の象徴)によって失いそうになった男性性を取り戻すような行動にも見える。

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さて、この映画の主題のひとつは「アイデンティティについて」だとエガースは語る。
この映画は「男性」であることにアイデンティティを見出していた男たちの軸が、孤独で閉鎖的な環境によって崩れていく、という見方もできるのではないかと思う。ウィンズローが頻繁に自慰行為にふけるのも、過去に犯した罪からの逃避とみることもできる一方で、女性を性の対象とし、性に対して活発であるべきという「(有害な)男らしさ」を保つための行為であるとも言えるのではないだろうか。

さて、灯台についての論考が思ったより長くなってしまったので、ウィンズローのモチーフはプロメテウスであるとかそういう話は割愛する。それは他に詳しく分析している人がたくさんいるのでお任せして、本題に入ろう。ここまでの考察は、あくまでこの映画を観たまま受け取った場合の話である。

『仮面/ペルソナ』のオマージュとして

先述の通り、この映画はアイデンティティをテーマのひとつとしていて、閉鎖的な空間に置かれた同性2人を描く。片方はおしゃべりで片方は寡黙で、2人きりで過ごしすうちに次第に自己と他者の区別が曖昧になっていく…というあらすじから、思い浮かぶ映画がある。そしてそれは、ウィンズローの自慰行為中の映像に関するエガースのコメントで確信に変わった(あくまで私の中で)。

ウィンズローの自慰行為中、殺した本物のウィンズロー、人魚、灯台、様々なモチーフが入れ替わる。このモンタージュを、エガースは、本当は灯台と勃起した男性器の映像を交互に観せたかったという。しかし、R18指定になることに難色をしめしたA24の意向であの映像になったのだとか。アイデンティティを作品のテーマとし、モンタージュに勃起した男性器の映像(モザイクなし!)を挿入する作品といえば、あれしかない。

イングマール・ベルイマンの『仮面/ペルソナ』である。

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『The Lighthouse』のパンフレットにアリ・アスターとエガースの対談があったが、この今をときめくA24変態監督たちはイングマール・ベルイマンのファンでもあるらしい。アリ・アスターも長編デビュー作『ヘレデタリー/継承』でベルイマンの『叫びとささやき』をオマージュしたそうだ。

ただ、『仮面/ペルソナ』はそれだけで記事が一本かけてしまうくらいの考察映画なので、ここでは大まかにネタバレ込み(!)のあらすじに触れる程度にしたい。いつか『仮面/ペルソナ』についての考察記事も書きたいな。

『仮面/ペルソナ』では、失語症を患った女優のエリザベートが、静養のために看護婦アルマと2人で海辺の別荘で暮らす。エリザベートは声を発せないから、代わりにアルマが常に話し続ける。ある日、エリザベートがアルマと自分の手を何気なく比べると、「手を比べるのは不吉よ」とアルマが言うのである。

強風の吹き荒ぶ劣悪な環境の灯台と、海辺の別荘という違いはあれど、ここまでで設定がかなり『The Lighthouse』に近いことが分かる。

そしてアルマは性的にかなり奔放であったとか、彼女の「秘密」をエリザベートに語っていく。しかしだんだん2人のやりとりが妙に噛み合わなくなっていき、ある事件をきっかけに、2人の仲が決定的に決裂してしまう。そしてエリザベートの「秘密」をアルマが言い当てるのだが、それは到底アルマが知るはずのないものだった。

ここで、アルマとエリザベートの顔が融合したショットになる。つまりどういうことかと言うと、この映画はアルマとエリザベートの人格の融合、もしくは、アルマはエリザベートの抑圧された内面、または理想の自分であり、そのふたつの人格がぶつかりあい、そしてひとつに融合するまでを描いているという解釈ができる。(画像左半分がアルマ、右半分がエリザベートの顔である)

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ここで、『The Lighthouse』に戻ろう。
『The Lighthouse』でも、ウィンズローとウェイクのどちらの行動であるのか分からない部分が後半に出てくる。さらにはトーマスという名前(本名)も同じであるため、この作品においてもウィンズローとウェイクの同一化、またはウェイクはウィンズローが生み出した想像上の人物であり、ウェイクの相反する2つの人格を描いている可能性が出てくる。実際、脚本には2人は名前ではなくOldとYoungと記載されているのだ。

『The Lighthouse』の解釈は様々あるが、『仮面/ペルソナ』のオマージュであるとするならば、この作品も、ふたつの人格の融合、外面と抑圧された内面、理想の自分と逃れられない現実、そのアイデンティティの葛藤、そして罪の意識からの逃避を描いた作品である、と言えるはずだ。

例えば、ウェイクはこうありたいと思うウィンズローの理想の姿(「男らしく」ありたい、虐げられたくない等)、もしくは自分のしたことがどこかでバレているのではないかという恐怖心、ウィンズローを惑わせる人魚やカモメはウィンズローの罪悪感、ウィンズロー自身は変わりたいと思っている外面、2人が争うのは彼自身の内面の葛藤を表しているという解釈もできるのではないだろうか。ただし、『仮面/ペルソナ』では2つの人格が融合=お互いを受け入れたのに対し、『The lighthouse』では受け入れることができず、どちらも消えてしまったけれど。

ここで、ウェイクのセリフを思い出したい。

I’m probably a fig’ment of your
‘magination. This rock is a
fig’ment of yer ‘magination, too. Yer probably wand’rin’ through a grove of tag alders, up in north Canady, like a frostbitten maniac a- talkin’ to yerself, knee-deep in
the snow, the blizzard overtakin’ ye.

(俺はお前の妄想かもしれない。この島もお前の妄想だ。お前はもしかしたら、凍えて頭がおかしくなって独り言を言いながら、膝まで雪に埋もれて、吹雪の中で今も北カナダの森を彷徨っているのかもしれない)

このセリフが、もしかしたらこの映画の真実なのかもしれない。

余談

さて、ここからは余談だが、このテーマを聞いて思い浮かべる他の作品がある。
そう、あのBBCも選んだ21世紀の名作、デヴィッドリンチの『マルホランド・ドライブ』である。

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長くなるのでこれもまた別の記事にしたいのだが、実は『マルホランド・ドライブ』もこの『仮面/ペルソナ』を下敷きにしていると言われている。(『マルホランド・ドライブ』はこの『仮面/ペルソナ』のシーンを思い切りオマージュしている)

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『The Lighthouse』と『仮面/ペルソナ』、そして『マルホランド・ドライブ』は近しいテーマを描いていると考えれば、なんとなく『The Lighthouse』の輪郭が見えてくるのではないだろうか。

おわりに

『The Lighthouse』は観る人によって様々な解釈ができる映画だと思うので、これは私なりの解釈である。

私事だが、過去に灯台をテーマにした舞台に2度関わったことがある。ひとつは私の発案でやらせてもらったのだが、灯台といえば暗い海で船乗りを導く希望の光であるはずだ。
そこを舞台に、希望とは真逆の作品を作り上げたエガースは色んな意味ですごい。今後も監督の最新作に期待したい。

さて、最後は私が以前、どうしてもテーマにしたいと言い張った言葉で締めたいと思う。

「この記事が、皆さんにとって灯台の灯りのような存在となりますように。」

ちなみに、『The Lighthouse』の脚本はここから読める。興味のある方はぜひ。

https://www.scriptslug.com/assets/uploads/scripts/the-lighthouse-2019.pdf



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