【感想】『燃ゆる女の肖像』にみる美しさ
もうこのサムネを見ただけで色々思い出して、ああ良い映画だったなあ、としみじみしてしまう『燃ゆる女の肖像』。年末に素晴らしい映画を観ることができてよかったです。今回はこれといった解説がなく恐縮ですが、カンヌで脚本賞とクィア・パルム賞を受賞し、あのグザヴィエ・ドランが絶賛したのも納得の、美しくて繊細なこの映画の素晴らしさを徒然なるままに語っていこうと思います。
絵画のような映像美
本作は、画家であるマリアンヌが、エロイーズの肖像画を書くために彼女と過ごした2週間足らずの日々を回想する、という形で物語が進んでいく。
映画のモチーフが肖像画だからか、作中のショットがとにかく綺麗で、どこを切り取っても絵画のようだったのがこの映画の何よりも印象的だったところ。
フランス領の離島の美しいビーチの風景とか、テーブルにマリアンヌとエロイーズとソフィが横並びになって食事の支度をしているところとか、初めてエロイーズと外に出た瞬間の鮮烈な陽の光とか。劇場を出たあとでも観客の記憶に強烈に残るシーンの数々は、画家であるマリアンヌの目に映った、彼女の記憶に刻みこまれたエロイーズとの忘れられない日々を表現しているのかもしれない。画家の目を通して見た風景(それも好きな人が映った風景)なら、ショットが絵画的なのも納得である。
作中で、最初の肖像画を見たエロイーズが言うセリフがある。
「あなたの目に私はこんな風に映っているの?」
つまりこの作品は、マリアンヌの目に映りそして記憶されている、より心象風景に近いようなエロイーズとの日々を、彼女の思い出を覗き込むようにして(事実、この映画はマリアンヌの回想という形で進んでいく)観客に観せているのではないだろうか。たった数日間の思い出があんなに刹那的でキラキラしたものとしてマリアンヌの中で大切に記憶されているのだとしたら、2人の関係がなおさら切なくて、美しい。
見る/見られる 関係の逆転
初め、マリアンヌは肖像画を書くためにエロイーズを観察する「見る」側として、エロイーズは「見られる」側として描かれる。18世紀当時、女性は基本的に男性に「見られる」性であり(結婚前に肖像画を相手に送るということがすでにそう)、その点においてマリアンヌは男性的、と言えそうな序盤。当然「見る」側のほうが関係において支配的なのだが、その立場が逆転する瞬間がある。
マリアンヌがエロイーズの様々な癖を言い当ててみせたときに、エロイーズもまたマリアンヌの癖を見抜いていたシーンだ。深淵を覗くとき、深淵もまた…みたいな話であるが、これまで「見る側」だと思っていたマリアンヌが実は「見られる側」でもあったこと、エロイーズも「見られる」だけでなく相手を「見て」いたこと。この瞬間に、見る/見られるの一方通行な関係が逆転し、2人は対等な関係になるのだ。
さらに、エロイーズに表れる「見られる」ことへの変化がある。エロイーズは、マリアンヌが来る前に来た画家には顔を一切見せなかったという。それは、自分が単なる肖像画のオブジェクトとして見られる対する拒絶だ。それがマリアンヌに対しては自分の肖像画を描いて欲しいと頼み、これまで斜めから注がれていたマリアンヌの視線を正面から受け止める。そしてエロイーズの中で客体として見られることへの抵抗が、自分自身を見てもらうことに対する喜びへと変わっていく。そこには、マリアンヌは客体として自分を見ないと同時に、自分もまたマリアンヌを真っ直ぐに見つめ返すという思いがあったからだろう。さらには、マリアンヌの視線を通して自分自身を知っていく。
ここに、ラカンの鏡像段階論のメディア的手法をみることもできるかもしれない。ラカンの鏡像段階論は『攻殻機動隊』なんかでもみることのできる論なのだが、一般的には「幼児の発達段階において、幼児は初め寸断された身体イメージしか持たず、鏡に映った自身の姿を他者とみなすが、次第にそれが自己像だと気が付き自身をそれに同一化させることで、自己の統一性を獲得する」という段階を示す論である。
『燃ゆる女の肖像』に即して言えば、鏡に映った自己像が「肖像画」であり、他社の目を通して描かれる自己像とその書き手を通して、自身が何者であるかを理解していくというプロセスを見ることができるのではないだろうか。(ちょっと強引かな…)
女3人で過ごす日々
この作品で忘れてはならないのが、使用人であるソフィーの存在だ。彼女自身について多くは語られないが、母親が不在の3日間、協力しあって暮らす3人の姿も、またこの映画の見どころのひとつであり、当時の女性が置かれていた状況を示唆するものであると思う。主人である母親がいない間、3人はまるで姉妹のようで、そこに上下関係のようなものは感じられない。歳の近い女性同士、当時の女性を取り巻く、結婚とか妊娠とか堕胎とか、そういう生きづらさやしがらみみたいなものに一緒に立ち向かっていたのかもしれない。ソフィーの存在によって、この映画が単なるラブストーリーではなく、時代やフェミニズムをも描き出す奥深い作品になるのだ。私はこの、ソフィーが刺繍をし、エロイーズが食事の支度をしているショットが、3人のシスターフッド感を感じられてとても好きだ。
そしてこの3日間でマリアンヌとエロイーズがお互いに惹かれあっていることに気が付き、関係が変化する。タイトルの "燃ゆる女" はこのとき3人で参加した女性たちが集まるお祭りでの出来事だ。
「いつから好きだと自覚したと思う?」というエロイーズの質問に、マリアンヌは「お祭りのとき?」と答えるが、それは自身がエロイーズへの想いを認めたときだったからではないか。エロイーズは「それより前からよ」と返すが、きっとエロイーズの答えはマリアンヌがヴィヴァルディの「夏」を簡単に演奏してみせたときだったんじゃないかな。そしてこの思い出の曲は圧巻のラストシーンへと繋がります。
振り返ることが意味する永遠の別れ
3人で過ごしている間に、エロイーズが本を読み聞かせるシーンがある。この物語の鍵となる、ギリシャ神話オルフェウスの物語だ。亡くなった愛する妻を連れ戻すために冥界へとやってきたオルフェウスは、地上へ戻る道で後ろを振り返らなければ無事に妻を連れ戻すことができたのに、不安に駆られて振り返って、妻を永遠に失ってしまうのだ。
マリアンヌはエロイーズの肖像画を書き終えて屋敷を後にするとき、後ろを振り返らずに駆け足で階段を降りていく。玄関のドアを開けようとした瞬間、エロイーズが声をかけるのだ。
「振り返らないの?」
これは、最後に顔が見たいという思いからではなく、エロイーズなりの覚悟だったのではないか。
オルフェウスの物語のように、振り返らなければいつかまた出会えるかもしれないという一抹の希望を捨ててマリアンヌを振り返らせることで、永遠の別れを自ら選択したのだ。マリアンヌが振り返ってエロイーズと視線が交差する瞬間、それは、2人の永遠の別れを意味する瞬間だ。
女性同士の恋愛はおろか自由すら認められない時代で、ましてやエロイーズにはこれから肖像画を送って結婚する相手もいる。マリアンヌもエロイーズも、あの瞬間に振り返ることの持つ意味を、陳腐な別れの言葉を口にするよりもずっと、痛いほどよくわかっていたのだろう。
だから、マリアンヌがその後オルフェウスが振り返った瞬間を作品として描いたのは、それが "エロイーズとの永遠の別れの瞬間" を意味するからではないだろうか。
2度の再会
マリアンヌが屋敷を去ったあと、エロイーズと2度の再会を果たす。1度目は、展覧会でエロイーズの肖像画と。マリアンヌの自画像が描かれた本のページにそっと指を挟む画が秘密の暗号めいていて、なんておしゃれで切ないの…。
もしもマリアンヌがこの絵を見たら、エロイーズは結婚後もずっとマリアンヌのことを想い続けていて、忘れられない存在であることがマリアンヌだけには伝わる。だからあの絵を描いた肖像画家に「28ページという数字は絶対に書き込んで」と言ったんだろうな、マリアンヌがいつかこの肖像画を見つけてくれることを信じて。
2度目の再会は、コンサートで。そのコンサートで演奏されていたのは、かつてマリアンヌが好きな曲だと言ってエロイーズに簡単に弾いてみせたヴィヴァルディの「夏」。ふたりにとっての思い出の曲が、ラストシーンで重厚感のあるオーケストラで演奏される。
この映画で、音楽は2曲しか流れない。お祭りのとき女性たちが歌う歌と、このヴィヴァルディだ。監督曰く、「彼女たちの人生において、音楽は求めながらも遠い存在でしたし、その感覚を観客にも共有してほしかった」そうだ。だからこそ最後に演奏されるオーケストラが観客の耳に強く残る。
観客席でお互いの存在に気が付いたマリアンヌとエロイーズは、それぞれ違った反応を見せる。マリアンヌは、やっとの思いで再会することのできたエロイーズの姿を、忘れないように、目に焼き付けるように見つめる。きっともう2度と会えないから、いつでも彼女を記憶の中から思い出せるようにしたかったのだろう。画家であるマリアンヌらしい仕草だ。
一方でエロイーズは、決してマリアンヌのほうを振り向かない。マリアンヌの視線に気が付いていながらも、目線は決して舞台上のオーケストラから離さない。振り返らなければ、またどこかで再会できるかもしれないと願ったのか、マリアンヌとの未来は無いのだから「夏」にのせて過去の思い出だけを見続けることにしたのか、マリアンヌがまた自分に視線を向けていることだけで十分だったのか、その全てかもしれない。
そうして2人はこの恋を、それぞれの永遠の中に閉じ込めたのだ。
エロイーズの目からオーケストラを聴きながら涙が溢れ、そして最後には笑顔になるラストの長回しは圧巻だった。
このラストシークエンスでは、これまでの2人の見る/見られる関係、思い出の曲、別れてからもお互いを想い続けていたことなど、セリフがないのにその全てが表現され、そして昇華されていたように思う。
劇中の音、光、風景の全てに意味があり、本当に繊細に丁寧に作りこまれた作品であることがどのシーンを見てもわかる、素晴らしい作品でした。