香港の空気に魅せられて
先日、王家衛の『若き仕立て屋の恋』を観に、はるばる吉祥寺へ足を運んだ。そして、これでいわゆる王家衛の作品はおおかた観終わってしまったことになる。
ある監督の作品をひととおり観てしまうと、達成感と共に寂しさに襲われるのは、結構あるあるなんじゃないかと思う。
そして私は今まさに、その達成感と喪失感に呆然としながら、王家衛映画から好きな曲を流しながら、余韻に浸るなどしている。
一旦今までに観た王家衛作品を振り返ってみようと思う。
『今すぐ抱きしめたい』
『欲望の翼』
『恋する惑星』
『天使の涙』
『ブエノスアイレス』
『摂氏零度』
『花様年華』
『2046』
『マイブルーベリーナイツ』
『若き仕立て屋の恋』
『初恋』(王家衛 制作総指揮)
1番好きな作品は?と聞かれてもすぐには答えられないくらい、どれもこれも大好きな作品たちだ。ただ、何度も観ているのは『マイブルーベリーナイツ』と、『恋する惑星』だと思う。
そもそも、私が初めて王家衛作品を観たのが『マイブルーベリーナイツ』だった。
その頃はまだ王家衛という名前さえ知らずに、深夜に観るのにちょうど良いインディーズ映画を探していて、なんかジャケットおしゃれだし、ジュードロウも好きだし、という理由でTSUTAYAで手に取ったのだ。
特徴的な映像と、直接的な表現はほとんどないのに全てを語るカメラワーク、そしてストリーの運び方。その全てがおしゃれで、ものすごく好みの映画だった。それ以来、私はすっかり王家衛という監督の作り出す世界にはまってしまったのだ。
その後、私はブルーベリーパイを焼いて、夜中にこの映画を観ながら食べるということを何度かした。(同じことをしている人、きっとたくさんいるはず)
次に観たのは『花様年華』。もうひとり好きな監督であるグザヴィエドランが、彼の1番好きな映画にあげていて、BBCの21世紀フィルムランキングでも堂々の2位を記録しているこの作品も、ため息の出る美しさだった。狭く切り取ったカメラワーク、色彩、チャイナドレス、屋台のヌードル……セリフは決して多くないのに、役者の表情、仕草、そしてクリストファードイルのカメラワークで、あの複雑で切ない心情を描き出す技術が素晴らしすぎる。『マイブルーベリーナイツ』はどちらかというと若い2人のラブストーリーという感じだったけれど、『花様年華』のような大人の色気に溢れる映画もまた、王家衛の作風に絶妙にマッチする。なにせ、トニーレオンがかっこいいんだ。
そして昨年、王家衛作品の4Kリバイバル上映を行なっていたので観に行った。劇場で観るのとPC画面で観たときのあまりの違いに圧倒されたのが、『恋する惑星』だった。
「重慶森林」のタイトルロールから鳥肌もので、これが公開当時の王家衛映画なのだとしたら、そりゃあアジア系インディーズ映画人気の火付け役になるのも納得だわ、という感じだった。よく考えれば意味がわからないのに、なぜかめちゃくちゃ引き込まれるストーリー。香港マフィアのノワールものかと思いきや、最後は今にもどこかに飛び立てそうな不思議な爽やかさで終わり、映画館を出る足取りは軽い。
後半のフェイウォンのキュートで頭のおかしいストーカーっぷりに注目されがちだが、前半のマフィアの女性の話も結構好きだ。ラストシーンのトニーレオンに見つめられるとあまりのかっこよさに息をするのを忘れそうになるけれど、「愛すべきパイナップル男」金城武との出会いもこの映画だった。
余談だが、王家衛によってアジア映画に興味を持ち、伝説の名作『牯嶺街少年殺人事件』も観たのだが、そのせいでチャンチェンが出ている作品を観ると、「あらまあ大きくなって〜〜」とご近所のおばさんのような感想を持ってしまう。『ブエノスアイレス』の青年もよかったが、『若き仕立て屋の恋』では無口で一途で、憂いを帯びた男性の役がはまる大人になっていた。(ちなみに、『DUNE』のドクターユエだと知ったときはめちゃくちゃびっくりした。)
王家衛のセンスは、映像だけにとどまらない。映画を彩る音楽もまた欠かせない存在だ。
王家衛の音楽
『恋する惑星』を観た後は、爆音で “California Dreamin’” を流したくなるし、好きな男の家に(不法)侵入して家具を入れ替えても、まあ恋してたらそんなこともあるよね!なんて気持ちにさせてくれるような「夢中人」も最高である。映画館でこれを観た帰り道は、この2曲を聴きいて、つい踊りながら帰ってしまう。
雨の日は、 “Only You”を聞いてちょっと感傷に浸りたくなるし、 “Happy Together”も良い。夜中にはもちろん、 “The Story”。
ちなみに、『花様年華』で繰り返し流れる “Yumeji’s Theme”は、『マイブルーベリーナイツ』でもアレンジバージョンが使用されている。
あえてカバー版を使うのもうまいなあと思う。より一層作品に溶け込んでいるというか。「夢中人」、 “Happy Together”はオリジナルよりも作中で使われているカバーのほうが勢いがあって好きだし、 “Quizas, Quizas, Quizas” は原曲があまりに有名なだけに、逆にスペイン語カバーにすると新鮮で耳に残る。 “Take my breath away” も、なんだか『トップガン』のオリジナルバージョンより切なさが増して、シーンに良く合っている。このサウンドトラックたちは、王家衛の世界に浸りたい気分のときに大変役に立ってくれる。ドライブにもおすすめだ。
王家衛の言葉たち
センスに溢れる映像と音楽とともに、心に残る名台詞の数々も、王家衛映画の特徴だと思う。
詩的すぎて、ともするとクサくなってしまいそうなセリフもあるけれど、このセンスしかない世界観の中にあっては全然そうは感じない。
「その時彼女との距離は0.1ミリ。57時間後、僕は彼女に恋をした。」
「君とは"1分の友達"だ」
“At the end of that night, I decided to take a longest way to cross the street."
王家衛作品に絶対にあるモノローグを聴くと、それだけで心が掴まれて、あっという間に作品の世界に引き込まれてしまうのだ。熱っぽくて、匂い立つような香港へ。
おかげさまで、もっぱらヨーロッパにしか行ったことのなかった私だけれど、香港に行ってみたくて仕方がなくなった。そして半ば衝動的に、ついに香港行きのチケットを買ってしまったのだ。手書きじゃない、ちゃんとJALのやつ。
時代も違うし王家衛の描く香港を求めて行っても同じ空気は味わえないのかもしれないけれど、もしかしたら “California Dreamin’” を爆音で流すお店があるかもしれないし、ジャーを持参して麺を入れてもらう屋台があるかもしれない。そんな香港の空気を、幻想だと分かっていても追いかけてみたくなってしまうのは、王家衛作品そのものが、暑い夏にみる夢のようだからだろうか。
王家衛の描く90年代の香港といえば、イギリスからの返還とは切っても切り離せない。『2046』年を迎える頃、香港はどのようになっているのだろうか。王家衛本人はまだ存命なので、『プアン』のように製作指揮として今後は作品作りに関わっていくのか、もしかしたら監督作品も撮るのかもしれないが、たぶんだけれど、あの王家衛とクリストファードイルが織りなす、熱に浮かされたような空気感はもう味わえないのかもしれない。
おわりに
憧れの恋愛は、と聞かれたら(そんな機会があるのかは知らないが)、王家衛作品のような恋愛、と答えるだろう。ハッピーエンドは、決して多くない。浮気されたり、散々振り回されて喧嘩別れしたり、好きだとわかっていても言葉にできなかったり、相手が死んだり。でも、初めて出会ったのに気を許して眠ってしまう相手だったり、そっと誕生日を祝ってくれたり、長い長い旅のあとに結ばれたり。例えどんな結末であったにせよ、これほどまでにお互いにとって忘れられない存在になる人がいたらいいな、と思うのだ。
あのむせ返るような熱気と、人々の活気と、刹那的な物語。それを求めて、香港を訪れてみたい。そこまで思わせる魅力が、王家衛の映画には確かにあるのだ。