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LGBTQ#17 子どもを産みたくない。

私は子どもを産みたいと思わない。ずっとそう思っていた。だけど結婚をする時、夫には言えなかった。

小さな子どもとすれ違うたびに、夫の優しい視線が子どもに送られる。夫のその表情を見るたびに、なんとか子どもを産む気持ちになれないかと考えてもみた。子どもが生まれたら、結婚の反対を機に絶縁してしまった家族と和解できるかもしれない。母親になって忙しくなれば、自分の性について悩む時間もなくなるかもしれない。だけど、自分の問題解決のために子どもを利用するのはすごく違う気がした。

子どもを持つ人たちは、どんなふうに考えて産むまでに至ったんだろう。「いつか好きな人の子どもを産みたいって自然に思うものだよ」という友達の言葉がドラマのセリフにしか聞こえない。山ほど恋はしてきたけれど、私は一度もそんなふうに思えたことはない。

夫に思い切って話をしてみると案外あっさり「じゃあ、二人で仲良く暮らそうね」と言われた。その日からパタリと子どもの話はなくなったけれど、代わりに私の中で、「本当はどうなのか」という思いが巡りだす。

どうして私は子どもを産みたくないんだろう。曖昧な性によって自分の立ち位置がわからずふわふわしている。そんな自分を否定しつつも、LGBTQという一見社会派っぽい流行りの言葉で飾りたて格好をつけて、なんとか胸を張って生きている。それなの子どもを産んだら、絶対的に女ということから逃げられず、私はもう曖昧な性を主張できなくなる気がしてしまって。Xジェンダーという飾りがなくなったら私には何が残る?空っぽの自分しか残らない気がしてしまう。

本当は、「子どもを産みたくない」んじゃない。自分みたいな人間が産まれてくるのが怖いだけなんじゃないか。怖いだけで、実は「子どもを産みたい」という気持ちがあるのだろうか。「子どものいない女は問題がある」と言われるのが怖いから?だから、自分の性を濁して曖昧にして逃げ回っている。それを正当化してXジェンダーだなんてかっこつけているだけじゃないか。あまりに悩みすぎて何が問題なのか、もうよくわからなくなっている。

男でもない、女でもない、と心が揺れ動くように、子どもを産む産まないという気持ちもきっとこの先も揺れ動く。結局これが私が持って生まれた性なんだと思う。

「子どもを産まない人生をかっこよく生きていく!」と、筋書きをたてて書き始めた記事だった。だけど、書いては消してを繰り返しウジウジしているしているのが本当の私。救いと言うにはおかしいけれど、夫とはすでに離婚をし、夫のために産まなければという勝手なプレッシャーからは解放されている。次回は離婚の核心について書こうと思う。自分の曖昧な性によって他人の人生を振り回し、それを赤裸々に書くなんて本当にひどい奴だと思いながらも、書くか書かないかについては一切悩まない自分は、繊細なふりして結局図太い。

山陰中央新報 2021年10月5日 掲載分
写真 いしとびさおり

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