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LGBTQ事情#20 親の愛情を独り占めしたかった。

 私の性の悩みのはじまりは、親の愛情を独り占めしたいという欲求からだったように思う。

 3歳のころ弟が生まれた。私にだけ向いていたみんなの目が、一斉に弟へ移った。「男の子が生まれてよかったね」という誰かの何気ない言葉が今も耳に残る。あんなにかわいがってくれていたのに、私が女であることを残念に思っていたのか。それをきっかけに自分の女の部分を嫌い、男っぽさに憧れを抱くようになった。

 そして、また3年後。次は、妹が生まれた。私と同じ女なのに、みんな妹に夢中。どうして? 妹と弟は名前で呼ばれ、私だけ「お姉ちゃん」と呼ばれる。名前で呼んでもらえるのは叱られるときくらい。母は弟を、父は妹を特別かわいがっているように見え、私はあまりもの・・・幼かった私にはそう感じられた。弟みたいに男っぽくいれば母に愛されるのか。妹みたいに女っぽくいれば父に愛されるのか。だけど欲張りな私は父と母の両方の愛情を独り占めしたい。男っぽくいるべきか、女っぽくいるべきか。どっちつかずのまま悩み続け、大人になった。

 きっと私だって愛されていたはず。その証に、子どものころ写真は私のものが圧倒的に多い。そのどれも完璧な笑顔をしている。だけどそれはつくりもの。カメラに笑いかけると褒めてもらえる。少しでも長く注目を集めたくて、一生懸命、顔が痛くなるほどカメラに向かって笑ってきた。ふと怖くなる。写真に写っていない時はどんな顔をしていたんだろう。きょうだいへの嫉妬にまみれた醜い顔? 親の愛情を探す哀れな顔? 自分ではわからない。だけど、今年の正月も実家に帰れず、一人で過ごす。それが、私がどんな顔で生きてきたかの結果だろう。

 私の曖昧な性は、女性性を否定し男性性への憧れからくる劣等感から始まった。カメラの前でだけ一生懸命笑顔をしてきた幼い私が、親の愛情を独り占めしたいという葛藤の末につくりあげた、曖昧な性。ややこしく書いたけれど、つまり私は、ただ愛されたかった。それだけ。自分の心の闇の正体にほんの少し触れられた気がする。

 これは私個人のLGBTQの話。みんなそれぞれいろんな性を持っているはず。みんな違う。だけど、違う性をもっていることは、みんな同じ。だから、みんなに価値がある。そう言いながらも私は自分を否定するのをやめられず、価値があると思えるには程遠い。私が自分を認められるようになるのが先か、社会の性差別がなくなるのが先か。どっちが先でもいい。それが近い未来であるように、自分を肯定する練習をする、ひとりぼっちのお正月。原稿が書けたらご褒美に、自販機のおしるこを買いに出よう。

2022年1月4日火曜日 山陰中央新報 掲載分
写真 いしとびさおり

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