誰かのための料理だとしたら
散歩をしていたら、空き地に土筆が生えていた。
傍にはスギナも生えていたため、
土地の持ち主はこの土筆を食べる気なんて無いんだなぁ。
なんて思いながら、土筆をつんで帰った。
土筆の袴を取り、下茹でしてアクを抜く。
そうして、醤油ベースの味付けで佃煮にする。
その夜は、本当に久し振りに食卓に土筆の佃煮が並んだ。
どうやら、今私が住む地域では、土筆を食べる習慣が無さそうだ。
それとも、お店で買わずにそこらの道端で食べ物を調達するなんて、考えもつかないのかもしれない。
土筆はお店に売られていない。
食べられるなんて知らない人のほうが、多いのかもしれない。
子どもの頃、春になると母と手を繋いで近所の土手に行った。
土手には土筆がたくさん生えていて、母に
「頭が開いてない土筆をつんでね。」
と教えてもらった。
だから私は、頭が開いている土筆は食べられないのかと思いこんでいたのだが、ネットで調べたところ、
○頭が開いている土筆は苦味が抜けて食べやすい
○頭が閉じている土筆は苦味があり独特の風味がある
と書いてあった。
土筆の頭が閉じているのは通好みで、私は通な土筆を食べていたのだということが、大人になって初めてわかった。
本当に、何十年振りかに食べた土筆には、明確には覚えていないけれど、ほんのりと母と手を繋いでつみにいった、思い出の味がするようだった。
スギナは、繁茂するやっかいな雑草だけど、土筆のうちにつんで食べたら立派な食材だ。
因みにスギナも乾燥させればお茶になる。
子どもの頃、近所の空き地でシロツメクサの花かんむりを作ったり、土筆をつんだりしていたけれど。
今の子どもたちはどこで何をして遊べるんだろう。
そうして土筆を佃煮にした話などをすると、
自分のために料理するなんてエライね。
なんて言われる。
家族のためだから作るけど、自分ひとりなら面倒くさいから簡単に済ます。
という言葉もよく耳にする。
私は普段、食事の時間を決めてないし、お腹が空いたら
(*´ω`*)何食べようかな♪
と、自分が今食べたいものを準備する。
そこにはもう、食べたいものを作れる楽しみや、食べたいものを食べられる喜びしかなくて。
それでも実家に行けば、自分自身と家族のために食事を作る。
誰かのために作ってあげられる喜びもあるけれど、その裏側には、自分のために作ってあげられる喜びもないと、とてもバランスが悪いなぁと思う。
自分の手でつんだ土筆が並んだ食卓。
子どもの頃、とても嬉しくて楽しみだった。
料理をしたのは母だったけれど、土筆の袴を取るのは私の役目で、自分も立派に参加した楽しさがそこにあった。
あの頃のように土筆の袴を取りながら、そんなことを思い出していた。