貧困シニアが後悔している、5つの事
○年金がもらえる仕事についていたら…。
ずっと作家と言う自由業で、ずぼらから年金積み立て金を支払っていなかったので、今、年金がもらえません。
年金なしの老後はとてもきついです。
みなさんには、年金がもらえる仕事についたほうがいい、と声を大にしてお勧めしたい。
フリーランスだと満額もらって7万円だそうです。
絶対に生活できません。
会社勤めをしていると、会社が上乗せしてくれているのです。
厚生年金と老齢年金の2本立ててもらえるので、人によって違うでしょうが、12万以上はもらえると思います。
30代40代の時は、自分が70になる時がくるなんて考えもしなかった。
69歳の時まで、70歳になることを考えませんでした。
ま、馬鹿ですね(笑
でも時はあっという間に過ぎます。
年金制度が変わり、デパートに勤めていた15年間の分をもらえるようになったんですが、月に3万5千円ほどです。
2ヶ月に一度、7万円くらいが振り込まれます。
これも私にとってものすごーくありがたい金額なんです。
滞納している家賃を払ったり、公共料金を払ったりできます。
旅行はできないけれど、銭湯に行ってゆっくりとジェット水流のお湯やラベンダー風呂につかり、寿司店の900円のランチ握りを食べる。
熱い緑茶も茶碗蒸しもついています。
これ以上の贅沢があるでしょうか?
いやもうないと断言していい。
こう言う生活ができるのはまだ私の体が元気で働いていられるからです。
一生働き続けますからね。
でないと生きて行けない。
「あれえ? いつもちゃんと出勤してくる○○さんが今日は来ない」
職場の人がたずねてきたら、自室に倒れてこと切れていた。
それが私の理想です。
前日まで働いていたいですね。
○ノーと言わなければ。
ノーと言ったばかりになくした仕事が数々。
私は作家。どうしても承諾できなかった条件付の仕事をノーと言わずに引き受けていれば、今頃は大金持ちに?
そうしたらあなたを幸せにできたのかも知れないのに。
ごめんね。
でも生まれ変わっても、やっぱりノーと言っちゃうもん。
○あの時、家にいれば。
その日、私は友人に誘われて飲みに行き、家をあけていたのです。
深夜帰ってくると、アパートの壁にはボールペンで小さく(バカ)と書かれた文字が。
いつも酔っ払って私のアパートを訪れる恋人が、その夜来たに違いない。
死ぬほど好きだった彼。
恋焦がれていた彼。
どんな手段を使っても、彼と情交を重ねたい。自分の思うがままに愛して快楽をむさぼりたい。
そんな妄想までいだいて、毎夜夢想しました。
繰り返し繰り返し…。
(想像野中の世界ですからね、お許しください)
もしあの時、私が部屋にいれば…彼と別れずにはすんだかも。
彼のためにテーブルに飾った薔薇の花。
4日たっても5日たっても彼は来ない。
薔薇の花はしおれて頭をたれて行く。
私も薔薇と同じに、嘆きしおれていたっけ。
テーブルの薔薇を毎日見ながら、自分の姿と重ねていた。
その後、20年後に彼と会う機会があった。
私は派手なチャイナ服。
彼もちっとも変わっていない。
パーティーのお酒で酔ったのか、帰りのクロークで偶然会った彼は機嫌よく、いつもは無口なのに饒舌で、話をしたあと、
「二次会にみんなは行くらしい。僕はあなたと二人でどこかで飲みたいんだけど、どう?」
と誘ってくれた。
あの時私は、
「どうぞみなさんと楽しんで来てください」
そう微笑んで帰ってきてしまったのだ。
私は50代後半になっていた。
アパーと近くの駅に降り、一人歩いた暗い夜道。
心はさみしさと悲しさと、なぜyesと言えなかったの?
後悔で一杯だった。
コンビニの灯り。
「そうだ、明日のパンを買って帰ろう」
ドアに歩んで行くと、コンビニの入り口にたむろしていた数人の20代の若者のうちの一人が、
「あ、きれいな人だ」
と呟き、
「こんばんは、今お帰りですか」
私に話しかけてきた。
「はい」
微笑んで中に入る。
出て行った時にも彼はいて、
「おつかれさま! おねえさんお休みなさい。お気をつけて」
とまた明るい声で挨拶してくれた。
その時私は、11月のこととて、ベージュ色のカシミアのコートに、7センチヒールのクリーム色のハイヒールをはき、バッグを手に提げロングの髪を肩におろしていた。
色だけは白いといわれるので、夜の暗い夜道で、50代終わりだった私はおねえさんに見えたのか?
まだ現役で勤めているデパートガールだった。
コンビニを出入りしたので、しっかりと明かりの中には身をおいたのだが。
今もその時着ていた服をおぼえているし、その時の気持ちも胸にせまる。
人を死ぬほど好きになるということ。
そして、愛を失ったり失望されるのを恐れること。
哀しさに打ちひしがれながら歩いた夜の道。
それ以降、彼とは二度と会っていません。
○人の忠告を聞いていれば
大人の情事を書く官能作家としてデビューした私は、ミステリーを書きなさい。そう言ってくれた人が何人もいました。
そんなHな小説ばかり書いていないで、純文学を書け、ミステリーを書け。
と言われていたのです。
当時私は月刊誌に6本くらい連載するうれっこでしたし、
「官能小説のどこが悪い。原稿料取れる官能小説が書けるんなら書いてみな」
くらいに思っていたのです。
官能小説雑誌には、毎月10本以上の投稿小説が送られてくる、と雑誌の編集長さんは言っていました。
でも採用されるのは200本に一本あるかないかくらいの狭き門。
中には自分の名前入りの原稿用紙を作って毎月送ってくる人もいるとか。
私も投稿から作家になったのですが、送った原稿が即ことごとく採用され、それを見た他の雑誌社からも依頼が来る幸運なデビューだったのです。
その時、忠告にしたがってミステリーを書いていれば。
今も作家として活躍していたかも。
でも当時の私は、もっと別の事に熱心だったのです。
好きな人とデートすることが、会う事が、逢瀬を持つことが仕事より大事。
私の思考の99.9パーセントを占めていました。
彼からの電話や連絡に一喜一憂して日々をスリリングに過ごす。
私の一番好きな本は「和泉式部日記」です。
今も眠る前に読むことが多いんです。
和泉式部は大好きだった と結ばれ邸宅に召使として招き入れられ、寵愛を一身に受けた勝者ですけれど、私はついに恋の勝者にはなれず、ずっと独り身のままです。
立派な負け組(笑
恋では勝ち組になりたかったなあ…。
○もっと愛すればよかった。叱ることは一つもなかったのに。
今思えば、幼いあなたを叱ることなど一つもなかったのです。
未熟すぎる親でした。
ママ抱っこと泣きながら訴えて、隣の部屋から呼びかけていた子供。
台所は危ないから入っちゃダメ、と強く言い聞かせていました。
揚げ物をしていたので知らんふりをしていたら、目に涙をためたまま、間の仕切りの上にうつ伏せになって、泣きながら手をさし伸ばしたまま眠っていました。
あの時いったん手と料理をとめて、なぜ抱っこしてやらなかったのか?
いまだに後悔していること。
駄目な母親だった、ゴメンネ。
「貯金ゼロ・ひとり貧困シニアでも楽しんで生きる! ふんとう生活記」
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