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上手く行ってる時は足元を見て、気が滅入っている時は空を見る

2ヶ月前、母方の祖父の一周忌がありました。
(ずっと下書きに入れて2ヶ月経ってしまったのは🤫です。)

昨年は、祖父の葬儀には出ることができたけど、四十九日法要は
フィリピンにいたので出ることができず、今回のお寺は初めてでした。

法要の前後には、お坊さんの説法がありました。

祖父の死はこのお寺の宗派では、どのようにとらえているのか、この宗派の神様は、どのような人なのか、など祖父の死に関してお寺の考え、捉え方を聞いて、

「なんとも明るくポジティブな捉え方なんだろう。」

と感じるとともに、人の死は意外と重くないと捉えることが残された人たちの心を軽くするのだと切に感じたのです…

わたしにとって生前の祖父は、いつもわたしの写真を撮ってて、それが嫌で嫌で、晩年は認知症で寝たきりになってしまい、人の弱った姿を見るのが苦手なわたしは祖父の元へ足を運ぶ頻度も減ってしまいました。

祖父に最期に会った日。
病院で喘ぎ苦しみながら赤ちゃんのような声を出している祖父。
3ヶ月ぶりの祖父は、もう言葉を発せない、頑張って頑張って生きているそんな状態の祖父でした。
わたしはその状態の祖父を見て、苦しくて苦しくて病室から逃げ出して大号泣していました。

祖父の死後。
生前は面倒臭かった祖父が残していったもの。
15冊にも及ぶわたししか写っていないアルバム。
部屋中に飾られたわたしの写真。
母親や叔父のたくさんの写真。

全て祖父が撮ったものでした。
そこでやっと気づきました。

わたしは祖父にとても愛されていたのだと…わたしはその愛を恥ずかしくて受け止めきれていなかったのだと。

もうこりゃ大後悔です。
でももう祖父には会えない。

どうしよう。

今いる周りの大切な人たちに返していくことだと感じました。

自分は愛されているのだと、愛情を示してくれているのだと。恥ずかしくて拒否するのではなく真摯に受け止めて同じような愛情を送ること。

当たり前だけどわたしにとっては難しいこと。でもやり遂げたいこと。



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