見出し画像

普通という言葉の傲慢さ

その水になじめない魚だけが、その水について考えつづける

頭木弘樹『口の立つやつが勝つってことでいいのか』


映画『正欲』を観たとき、ふとこの言葉が頭に浮かんだ。ぷかぷかと浮かぶそれは地面に降りてくることはなく、宙ぶらりんのまま早3か月が過ぎようとしている。


***



分析美学の授業中、こんな議論が起きた。

「小児性愛に道徳的規範はどこまで踏み込んでいいのか」

小児性愛の悪さについてここで議論するつもりはない。ただ授業のディスカッションに参加しながら、私は違和感を抱かずにはいられなかったのだ。

そこにいる誰一人も「自分が小児性愛者として生まれてきたかもしれない」可能性を一切考えていないことに。




君たちは生まれながらにして持っているものが、たまたま“普通”だった。それだけだろう?



***



既存の枠組みには無かった性的嗜好/性的指向を指す言葉が次々に生まれていって、果たして私たちは生きやすくなったのだろうか。

いや、違う。

むしろ色んなものさしを次々に持ち出してきて、「どれなら君を測れるかな」って吟味されるようになっただけだ。


***



多様性という言葉だけがひとり歩きしている。言葉だけが、概念だけが、我先に走りだしてしまって、私たちみんな本質を理解しないままに追いかけっこしている。


多様性は、分かり得ないことを分かり合うこと、ではないだろうか。


分かろうとしなくていいから。そっとしておいてくれよ。そんな声が今日も、どこからか聞こえてくる。






いいなと思ったら応援しよう!