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普通という言葉の傲慢さ
その水になじめない魚だけが、その水について考えつづける
映画『正欲』を観たとき、ふとこの言葉が頭に浮かんだ。ぷかぷかと浮かぶそれは地面に降りてくることはなく、宙ぶらりんのまま早3か月が過ぎようとしている。
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分析美学の授業中、こんな議論が起きた。
「小児性愛に道徳的規範はどこまで踏み込んでいいのか」
小児性愛の悪さについてここで議論するつもりはない。ただ授業のディスカッションに参加しながら、私は違和感を抱かずにはいられなかったのだ。
そこにいる誰一人も「自分が小児性愛者として生まれてきたかもしれない」可能性を一切考えていないことに。
君たちは生まれながらにして持っているものが、たまたま“普通”だった。それだけだろう?
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既存の枠組みには無かった性的嗜好/性的指向を指す言葉が次々に生まれていって、果たして私たちは生きやすくなったのだろうか。
いや、違う。
むしろ色んなものさしを次々に持ち出してきて、「どれなら君を測れるかな」って吟味されるようになっただけだ。
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多様性という言葉だけがひとり歩きしている。言葉だけが、概念だけが、我先に走りだしてしまって、私たちみんな本質を理解しないままに追いかけっこしている。
多様性は、分かり得ないことを分かり合うこと、ではないだろうか。
分かろうとしなくていいから。そっとしておいてくれよ。そんな声が今日も、どこからか聞こえてくる。