⑳父の不調
母の49日を迎える頃、
ヨハネの、母に付いてくれていた1人のナースと、2人の介護の方がお線香をあげに来てくれた。
父は泣いていた。
これからは、一人で友達と、
旅行や、遊びに行くだろうと、
最新式の、CASIOのカメラが良い、携帯電話を買ってあげた。
母の納骨も、終わり、父は一人ぼっちになったので、出来るだけ毎日子供達も連れて様子を見に行く。
父にそれとなく聞いてみる。
「あんた、癌になったらどうしたい?戦う?」
「俺は、癌になったら、ママ(母)の最期みたいに、ワケワカランくなって死にたい!」と言う。
「告知は?」と聞くと、
「聞きたくない!」
と言われた。
それから、職場の友達を家に呼んで泊めたり等として暮らしていた。
玄関の電球が切れたので、父の友達と父の二人で変えようとしたら、【爆発】したらしい。
直ぐに破片を片付けて、夫に電球を変えて貰う。
父は、料理は得意だったが、他の家事が出来ない。
毎日、洗濯物を取りに行き、茶碗を洗い、きゆたんが掃除機をかけてくれていた。
そして、私は、仕事も始めた。
それから、子供会の役員もした。
ずっと、母の事を考えていたら、おかしくなりそうだったからだ。
私は、父の事が嫌いだった。
子供の頃、母を叩いていたからだ。
私がまだ独身の頃、父が母の育てた植物をひっくり返して、母と喧嘩をした事があった。
その時には
「じじい殺してやる!」
と大きな目覚まし時計を持って、
父に向かって行った。
酔った父は「お前いい度胸やないか!」と殴り合いになった。
母が泣きながら止めていた。
私は鼻血を出しただけで、怪我は無かった。父は手加減をしたのだろう。
父は目覚まし時計でぶん殴ったので、アチコチ怪我をしていたらしい。
母が父の手当てをしていると、
「近所の人から通報されてても、
俺の怪我は、階段から落ちた事にしてくれ!」と私を庇っていたらしい。
そして、私が結婚してからは何故か
父は大人しくなり、夫婦喧嘩といっても、母が一方的にギャーギャー
言うだけで、父は怒らなくなった。
弟も良く帰って来てくれ、孫の姿を見せてくれた。
私とは仲良くないものの、夫を非常に可愛がり、美味しい物を二人で食べに行ったり、
私は夫に、ビールの制限をしていたが、
父は夫のご飯を作り、ビールを
好きなだけ飲ませた。
休みの日の前等は、二人で10リットルは飲んでいた。
何を話す訳でもなく、父の焼いた
肉を食べながら、ビールを飲み
TVを見て笑っていた。
父が60歳になった頃、弟一家が
父宅に来た。
父は、弟に「俺、もう定年していいか?」
と聞いた。
なんでも、肋骨が痛くて、朝四時前から一回も休む事なく仕事して、
少し疲れたらしい。
この頃から、背中を痛がって、私やきゆたんがマッサージさせられていた。
私は、父は職場で嫌われてると
思い込んでいた。
私に、「デブ」とか言っていたので、
職場の女の子にも
そんな失礼な事を言っているに
違いないと思い込んでいた。
父は、定年の時には
ナイキのスニーカーや、時計、色んな物を貰ってきていた。
私は、ある日父に
「そんなに背中痛いなら整形外科に行こうよ!」
と誘い、車に乗せ
そのまま都市高速に乗って
(新小倉病院)小児科の受付をし、
子供たちの主治医に相談した。
待ち時間がかかり、短気な父は
怒っていたが、咳が止まらないのが
私は不安で、最も信頼している、
子供達の主治医に診てもらった。
普通の大きい病院に行けば、
検査の予約だけ取らされ、
そのまま帰されるのが不安だったからだ。
主治医は、父の診察をして、
早速とCT検査とレントゲンと血液検査のオーダーを入れた。
検査を一通り受けて、内科のドクターへと紹介された。
結果を聞きに行く日にちを予約して、帰った。この時に他の検査の予約もとった。
小児科の主治医の顔色が気になっていた私は、自分の家に帰り、
(新小倉の)小児科の主治医に
電話をかけた。
「先生の意見を聞かせて下さい。」と言った。
小児科主治医は「検査の結果が出てみないとハッキリとは、言えないが、物凄くラッキーだと、結核。」
「ラッキーじゃないとしたら?」
とくいざがる私に、
「末期の肺癌です。」
と言った。
頭がクラクラなるのを感じ、
「父に癌になったら告知しないでくれ!と言われています。」
「私からも言いますが、内科のドクターに、「告知しないで」と伝えて下さい!」と取り乱さずに言えた。
この小児科主治医には、
ずっと母の事を相談しており、子供達もずっと診てもらっていたので、信頼があった。
そして、何よりこの病院では、その先生は、権力があった。
普通は初診で、ここまでの検査は出来ない。
日にちは、記録してないので、わかないが、母が亡くなってまだ一年たっていなかった。
結果を聞きに行く時に、ナースに付き添われ、父は色んな検査をした。
その間に私だけが、
内科の主治医の話を聞いた。
「末期の肺癌です。
両方の肺に癌があって、手術出来る大きさではありません。
ここまでくるには、かなりの痛みがあったはずです。」
と伝えられた。
「普通の日常生活が出来るのは、後どの位ですか?」と聞くと、
「2週間でしょう。出来れば直ぐ入院して頂きたい。」
と告げられた。
「弟に相談するので、待ってください。そして、この事は父には言わないでください。」
と伝えた。
父が検査から帰って来るのを待っている間に弟にメールした。
家に帰ってから、詳しい事を
弟と、電話で話した。
父の意思があるので、それ迄
精一杯親孝行しよう。
と弟と自分に誓った。
この頃、父の幼馴染が、定年退職して帰ってきたので、親しい友達と、温泉旅行に行ったりしていた。
母の1周忌には、
その一番の父の親友だった人が、
(私は子供の頃、生きたタコを腕につけられたり、イタズラされていたので、よく知ってる父の悪友だ。)
定年退職後、帰って来て、
料理屋?
みたいなのをやっていて、
父は
「その人の所からお料理を取りたい!」と言うので、
「久しぶりに、良かったね!」
「是非、そうしよう!いくらかかっても良いから!」と言うと
嬉しそうに、喜んだ。
そして、母の1周忌に集まってくる人数分、豪華な料理が運ばれてきた。
普段ならお坊さんに
(お食事代)
と法事とは別にお渡しするのだけど、この日だけは、お坊さんにも、
豪華な料理を食べて帰って貰う事にしたらしい。
お坊さんを車まで、私と弟が送って行く時に、、、
(父もそう長くは無いということをお話しておいた。)
子供の頃から、父と従兄弟の様に遊んで来たお坊さんは、物凄く悲しい顔をされた。
6月26日、母の命日に、外出していて、家に帰ると、玄関に、
母の大好きなカサブランカの花束、
持ちきれない程の沢山の花束が届いていた。
母の事を応援してくれていた友達からのプレゼントだった。
余りにも嬉しいサプライズに、
私は涙が止まらなかった。
母の仏壇、玄関、母の部屋、
そして、私の家の玄関、
あらゆる所に、
大切な友達の気持ちがこもった
カサブランカを飾った。
新鮮なカサブランカを選んでくれたのか、何時までも長持ちした。
母の命日と、母の好きなカサブランカを覚えてくれていた友達からのプレゼントは、ただ感謝しか無かった。
私は一生、この友達への感謝の気持ちを忘れた事は、
ないと思える位、素敵なサプライズだった。
友達には本当に感謝している。
ありがとうございます。