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北九州生活0日目:ないなら、作ろう。

2021年5月29日(土)

1ヶ月くらい、北九州に住むことにしました。

というとなんとなく聞こえはいいですが、実態は夫ぴが単身赴任している家に小さなスーツケース1つで転がり込んでいます。

30年くらい生きてきて、お引越しは実家から出たとき1回だけ。冒険的な旅行などもしたことがなく。飛行機に乗らないと家に帰れない距離に、いきなりきてしまうことなんて、あんまり起こらない人生でした。

なにがそうさせたのか。

5月の半ばごろに、この3年間仕事ばかり頑張ってきたくせに、成長がない自分を痛切に感じてしまった出来事がありました。

そんな自分のことを「好き」と思えない、むしろ「大嫌い」になってしまって、生きることを絶望してしまいそうになるくらいのことでした。

***

自分のことを好きでいられる自分であること。

これは、幸せに生きていくために私にとって必要だと気づいたステータスです。

うまくできなかったことが、すこしうまくできるようになる。

昨日より今日のほうがすてきね。明日ももっとすてきになろう。

そんなふうに思うことをなんとなく「成長」という言葉で表現しながら、自分自身の姿を俯瞰して、私が私を好きと思えるかどうかを問いかけてきた。

私が見たり聞いたりしてきた、いろんなすてきなもの、すごいなあと思う人との対話の記憶や文章、絵や、考え方、根底に流れる論理や哲学‥。そういったものを私のなかに並べていって、大切にしたいなと思う気持ち。

それはいつしか私が私であることを決めるもの。行動するときや言葉を発するときなど、一瞬のうちに行われる意思決定の根底に流れているものになっていった。

それらをいっぺんにまとめてかかっても負けてしまうくらい、わたしの「嫌い」な部分を自分自身に突きつけられた出来事でした。

自分で自分が許せなかった。

いったいなにをやってきたんだろう。

このままではいけない。

なにが、なぜ?ってうまく言えないのだけど、直感的にこうなってしまった原因はすぐにわかりました。

人を育て成長させるにはあまりにも不毛な仕事場に身を置いていること。

仕事じたいは宿命的に変えられない部分もあるんだけれど、だからといって何も変えないでいるなんて、耐えられる自信がないし、その先には私がもっとも怖がっているドクサ(臆見、当たり前を当たり前たらしめるもの、考えることを放棄している状態のようなもの)が口を開けて待っているようにしか思えなかった。

変えない理由よりも、変える理由が気持ちを支配しました。

気持ちに従ってみることにしました。たかが1か月、されど1か月。

私はどんなふうに変わるのか。変われるのか。

仕事一筋のペースは、ちょっとスローダウンして。その時間を、どんな成長をしたらいいだろう?私はどんな人になりたいだろう?もう一度考えて準備する時間にしよう。noteに日記もつけてみよう。

時間がないなら、作ろう。


#小さな哲学

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