曖昧な境目

ほとんどの戦争は国境に関する問題だと言えると思う。国家の主権は領土という限られた範囲に及ぼされると考えるからだ。

これは人間個人が持つ人格という考え方と似ている。ひとの身体や住居が勝手に侵される事は、その境目を超えて人格に無断に踏み込まれる事を意味し、重大な人権侵害にあたる。

ではなぜ人権が侵害されてはいけないのか。人権は権利という意味合い以上に人格という貴い在り方があるからだ。全ての人にこの貴い属性があり、それは誰にも侵されてはいけない。

国家の主権は個人の人権的な考え方を拡張したように思える。国家に法人格を与えたと。しかし、多種多様な人々が生きている国家にひとつの明確な人格が認められるだろうか。

国境線のこちらとあちらで完全に分離した世界観は現実的でない。壁を作ろうが柵を作ろうが、国境線上を人々は行き交い、生活している。彼らに取っては国境線はぼんやりとした帯のようなものでしかない。そしてそれで何の支障もない。

国境線の場所を巡る認識の相違で緊張が高まり、小競り合いから戦争が始まる。国境を守るという名目のために莫大な費用で軍備を準備する。一度戦争が始まれば、その何倍もの戦費がかかるだろう。そして多くの命が失われる。

戦争は全く合理的な行動とは言えない。戦争を回避するためなら、多少の名誉を捨てる方が余程、合理的だ。

北の島の領有で何十年も争うのは馬鹿げている。元々はいろんな民族が混じり合って生きて来た場所だ。

西の小さな島。誰も住んでないところなんか放棄してよかろう。

南の島は共同管理で観光地化すれば地域の平和を醸成できる。

明確な線を引くことが近代的だというのは、欧米の思想と共にそろそろ限界だ。曖昧な境界は東洋的かもしれないが、世界を破滅から救う最後のヒントになるかもしれない。