56 架空のマムシを飼うことになった話
マムシを飼うことになったので飼育方法などあれこれ調べてみると、どうも届出が必要らしい。すでにマムシはプラケースのなかにおり、申請の折に見つかりでもしたら罰せられるのではないかと思ったので、一端知人の家で匿ってもらいつつ書類を用意することに。「特定動物管轄区域外飼養・保管許可申請書」なるものをダウンロード、印刷し、所定項目へ記入する。
翌日それを持って出張所に向かうと、対応した三十代後半くらいの女性職員は当惑したように書類を何度も眺めてから、
「少々お待ちください」
と一言して上役らしい五十絡みの男性職員のもとへ相談に行った。
男性職員はレンズの大きいトンボ眼鏡を額に押しやって書類をつぶさに眺めると、女性職員と二言三言交わした。なにやら申し訳なさそうな顔を見繕った女性職員が戻ってきて言うには、
「申し訳ございませんがここでは扱いかねる案件ですので、直接市役所のほうへお伺いいただけますでしょうか」
とのこと。
少々呆れはしたものの予想していなかったわけではないので、その足で市役所へ向かう。最近建て替えられた立派な庁舎には、老若男女様々な人々がひしめき合っていた。どういう計算をすればここまでの値になるのか、五桁に達する番号札が機械から吐き出され、気が遠くなりかける。
日が傾きかけた頃にようやく呼ばれ、書類を提出すると二十代後半くらいの女性職員は当惑したように書類を何度も眺めてから、「少々お待ちください」と一言して下がっていった。出張所で見た光景である。それから上役らしい四十絡みの男性職員が出て来て、身分証の提示を求められた。
保険証でも大丈夫ですか、と聞くと、
免許証か顔写真つきのマイナンバーカードが必要です、と返す。
持っていません、と言うと、
パスポートやその他顔写真と現住所を確認できる書類はお持ちでないでしょうか、と返すのだが当然そんなものの持ち合わせもない。
では申し訳ございませんが書類は受け付けかねます。
と言われたので、どれだけの時間を掛けてここまでたどり着いたかを力説すると、男性職員は困り顔で奥に引っ込んでいった。
次いで六十絡みの男性職員が判で押したような困り顔で現れ、言った。
「マムシ等の危険生物は飼育方法に規則がございまして、専門の職員がご自宅に伺いまして飼育環境の適正など調査する決まりとなっております。身分証の提示はその時でも結構ですのでご用意お願いいたします」
とのことだった。そこで日取りを決めるわけだが、その「専門の職員」とやらは常駐していないらしく、加えてこの辺りのいくつかの自治体を受け持っているので割合忙しいらしかった。当然のことながら土日祝日はしっかり休むし、平日も夜遅くまで働くわけがない。やむをえず有給休暇を割くにしても、例のものを知人の家で預かってもらっている手前長引かせるわけにはいかない。
しかし直近で最も早い日取りが十三日後だった。
どうにかもっと早く申請できないかと相談すると、男性職員は困り顔で汗を拭きながら、
少々お待ちください、と引き下がってどこかに電話を掛けた。
人波もすっかり引いて閑散とし、「蛍の光」でも流れてきそうな頃合いに独り窓口で待たされること約二十分、男性職員はさも一仕事成し遂げたかのように疲れた顔で汗を拭きながら戻ってきた。どうにかこうにか三日後に予約が取れることになったらしい。内心の苛立ちを抑えつつ感謝の言葉を述べ、早々にその場を辞去する。
外に出ると日はすでに沈み、街灯がともったけやき並木の狭い通りに車が間断なく来ては去り、来ては去るさざなみのような音が疲労感をいや増した。
ふと思い出してマムシを預けてある知人に、三日後に申請が通る見通しだからそれまで引き続き保管を頼む、とメールを打つと、すぐに返信が来る。曰く、
もう食べた
とのことだった。何の冗談だろうかと、電話して聞くところによると、
とぐろを巻いて動かなかったので死んでいると思い食べた、
とのことだった。
「本当に死んでいた?」
「ああ。棒ですくうとだらんとしていた。首はぴくっと動いたから、ちょっとは生きていたかもしれない」
「それで、わざわざ捌いて食べた、と?」
「ネットで調べた。そんなに難しいことじゃない」
「なんでそんなことを」
「死んで腐ったら食べられないし、それは命の無駄というものだろう。食べてやるのが供養だ」
「それで、どうやって食った」
「焼いて食った、わざわざ七輪に炭を熾したが、その甲斐あってなかなかの味だった」
――通話を終えると、ただでさえ疲れていた身体に、いや精神に、さらなる疲れがどっと押し寄せた。
結果的に一日をまるまる潰すことになった書類申請は無意味に終わったのだ。
と、そこではっと気づいて振り返ったものの、役所はブレーカーが落ちたかのように真っ暗で人の気配がない。出て来てから恐らく十分も経たないというのに、いかに逃げ足の速いことか。ともあれ苦労して申請したあの書類を、そして苦労して取り付けた予約を、取り消すためにまた後日この役所まで出向かなければならない。そう考えるとヒマラヤの高峰を仰ぎ見るような、途方もない心持がした。
気がかりな夜を経て翌日、ふたたび役所へ出向く。ふたたび番号札を取り、ふたたび相応の時間を待たされ、ふたたび一から窓口で説明する。
生き物の飼育について先日届け出た者で、もう不要になったので取り下げにしていただきたいのですが。
と、用件を説明すると名前を聞かれる。答えると、
少々お待ちください、
と一言し、二十代後半の女子職員は下がっていく。
それから現れたのは、昨日応対した六十絡みの男性職員だった。
昨日の今日なので多少なり親しみのこもった対応を返すかと思いきや、さも今初めて会ったかのように義務的な声で
「身分証のご提示をお願いいたします」
などと言う。杓子定規にもほどがあると思いながらも、今日こそはと用意してきたパスポートを提示する。
「それで、昨日取ってもらった調査の予約なのですが、もう不要になったので取り消していただきたいのですが」
と、早々に述べると、男性職員はおなじみの困り顔で言った。
「申し訳ございませんが、昨日の書類なのですが、あちらのほう現在五割方受理されておりまして、結論から申し上げますと現段階で単純に取り下げとはいかない状況となっております。相手が危険生物ですので、なにぶん規則も厳しくなっておりまして」
じゃあどうすればいいのだ、と聞くと先を続ける。
「手順といたしましては、いったん申請を済ませていただきます。それから専門の職員立ち合いのもと、当該生物の処分を見届けた後、所定書類にご記入いただいて申請解消ということになります」
聞き間違えかと思ったので念のため丁寧に質問する、
「当たり前ですが申請前なのでまだマムシを飼っていません。で、今後とも飼う予定がなくなったので申請を取り消していただきたという話をしているのですが、現時点で居もしないマムシを、どうやって処分すればいいのでしょう」
すると男性職員は汗を拭きながら言った
「ええ、おっしゃりたいことは重々承知しておりますが、こちらといたしましても規則ですので」
以降、何をどう言おうと「規則ですので」の一点張りで話にならなかった。
「ではもう申請は受理されたままで結構です、結局マムシなんて飼っていないわけですから、実質危険もないわけですし、それで問題ないでしょう」
と、言って立ち去りかけたところ、男性職員は思い出したようにあっと声を上げた。
「ご説明が遅れまして大変申し訳ないのですが、そうなりますと年に一度、飼育環境の適正調査として専門の職員がご自宅までお伺いすることになります。こちらは飼育者様のほうから私共へ毎年申請してもらいまして日取りを決めていただくことになっておりまして、危険生物飼育者の義務となっております。これに違反した者には二万円の罰金となっておりますので、以後お気をつけ願います」
眉根を寄せたまま器用に微笑むと、男性職員は続ける
「そういたしましたら、先日お取りした調査のご予約は、このままでよろしいでしょうか」
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