73 湖上の橋
霧煙る湖上に垂れかかった柳の枝葉が、ため息のように密かな微風にそよいでいる。
朱塗りの太鼓橋もまた霧に包まれ、その行き先は杳として知れない。
行き交う人々は寡黙を信条としているのか、あるいは秘するを美徳と心得ているのか、ただ己の道を行くのに専念するばかりで脇目も振らない。皆何かの目的があるかのように通り過ぎてゆく。のんびりと散策している風な人を見ても、それはそれで散策という目的を果たしているように見受けられる。全ての人が、何かしら収まるべきところに収まっているかのように、安定している。深刻な顔をした者、慌てたように先を急ぐ者など一人もいない。子どもの姿も見かけない。大体が三十代から六十代といったところか。身なりのよい者もいれば、それなりの者もおり、時にひどい襤褸を身にまとった者もいるが、皆一様に、ある種の鷹揚さを身につけている。人々は、それ自体が景色の一部であるかのように過ぎてゆく。
恐らくは、そこを歩く自らも、湖上にしつらえられたこの太鼓橋の上で、完全に景色の一部として溶け込まなければならないのだろう。その時、ふと生じた雑念が手の振りか、足の踏み出しか、あるいは目線の置きどころにわずかばかりの作為を与えてしまったのだろう、ほどなくして橋は消え、広々として波のない鏡のような湖面を茫然と眺めている自らを発見した。
にわかに霧が晴れ、鮮明になってゆく景色なかで、橋のたもとを彩っていた二本の柳の木だけがその名残をとどめるばかりだった。
王令により橋の調査を始め、内部に潜入するのに十年、七つ目のアーチまで歩き通すのに五年が経過した。行き交う人に話しかけることもできず、振り返ることもできず、それどころか余計なことを考えたりするだけで途端たもとに戻される。入っていく人も、出てくる人も見たことがなく、だから橋を行く人々がどこから来てどこへ行くのかもわかっていない。
わかっていることと言えば、橋は特別霧の濃い早朝に現れること、そして内部へ潜入するには手前で立ち止まらないこと、なかを歩くには余計な考えを捨てること。これらのことだけである。
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