無人世界と柳並木と水たまりの人々【自動記述20241120】
午後9時8分
顔を失った人々が水たまりのなかで溺れている。
曇天の空を映した水面には太陽が閉じ込められて虚ろな彼方からこちらを弱く照らしている。
枝垂れ柳の並木道に風だけが渡ってゆく。
かなり早く。
素早く。
雲が、いや煙が細くたなびいて横切ってゆくのを眺めている。
眺めているのだから眼があり、そして意識がある――というような仕方で自らを同定してみると途端に肌に感じる寒さ。
それが世界らしい。
誰一人としていないような気がする、人体というものがこの世にはもはやないのではないか。
桶から柄杓で水を掬って適当に地面に撒くと、出来上がった水たまりのなかに時折人が映り込む。
顔の無い人が映り込む。
むしろそちらがわの世界が、だから虚像の世界が本当の世界なのかもしれず、この場合閉じ込められ隔離されているのは自分のほうなのかもしれないと、世界を逆転して考えてみたところで、結局そんな考えは無意味なのだという実感が冷たく吹く風とともに去来する。
何もかもが無意味。
何もかもが無意味、と直接口に出してみると、それはまるで他人が口にした呟きのようにいったん自らの外部へ出てから耳へと入ってくる。
このような迂遠な仕方で自分は他人というものを、いわば創出しないといけないのかもしれない。
そう思うと時の遙かさを想うような途方のなさが両脚に疲れとして現れてくる。
だいぶ長い距離を歩いてきた気がするのだった。
しかしどこから歩いてきたのかはまったくわからないのだった。
あるのはただ、だいぶ長い距離を歩いてきたのだという実感だけで、記憶のほうが欠落している。
私は今この瞬間生まれたのだ、それもだいぶ長い距離を歩いてきたという実感をともなった状態で。
そう言ってみてもいいが、そう言ってみたところで別に状況が変わるわけではない。
何もかもが無意味だった。
これからどこへ向かうかという問題を、今さらながら考えざるをえなかった。
枝垂れ柳は風に揺れている。
あるいは風に揺れているふりをしてめいめい勝手に揺れている。
規則性を失って、ただただでたらめに揺れている。
枝垂れ柳の並木道が四方八方に広がっており、これはさながら万華鏡の様相を呈している。
桶から柄杓で水を掬い、ただただ地面に撒いてやる。
そうすると虫食い状の水かがみに人が現れる。
そしてその先には、人の住むべき街の情景も現れる。
地表に現れた一服の絵画。
歩く。
そしてまた立ち止まり、水を撒く。
そしてまた歩く。
歩いても歩いても、さらに歩いても、なおさら歩いても、枝垂れ柳の並木道は四方八方に広がったまま、まるで原点が自分の歩みとともにくっついてきているような有様である。
世界と自分とがわかちがたい仕方で結びついてしまっているのかもしれない。
そしてここには、進むなどという事象はないのかもしれない。
ということはあるいは戻るという事象などもないのかもしれず、そうすると時間というのが成立しないのかもしれない。
そう考えてみて、ただ考えることができるだけでありそれ以上のなにもできないという現状がただ理解される。
ただの理解が柄杓を握らせ、水を掬わせ、地に撒かせる。
そうして地面は少しずつ、全体的に濡れてゆく。
これがいわゆる雨というものなのかもしれない。
これが雨というものの元なのかもしれない。
そんなことを考えながら、やがて考えは止み、歩き、止まり、水を撒く。
そうして水かがみを覗いては、永遠に対話の叶わない向こう側の人々をただ眺めている。
午後9時23分