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【掌編小説】59 サイン
「サインください」と、出し抜けに言われてひとときフリーズする。宅配便の受け取りでもあるまいし、何故に名書きを欲しがるのかわからない。見れば彼女はいわゆる色紙というやつを持っているので、こちらを有名人か何かと勘違いしているようだ。
しかし誰と?
これまで「誰それに似ている」と指摘されたこともなければ、自覚もない。
「人違いでは?」
と聞くと、
「――さんですよね?」
と、確かにわたしの名前を述べる。
まさか相貌外見の似通った同姓同名の有名人と勘違いしているわけでもあるまい。となると恐らく、いたずらだろう。まあ名前など書いてやったところで何か損するわけでもないし、と思って差し出されたサインペンに手を伸ばしかけ、ふと思う。
そもそも彼女はどのようにしてわたしの名前と容姿を知ったのだろう。こちらからすると見覚えのない彼女がわたしの素性を知っているというのも、妙な話ではないか。あるいは覚えていないだけで、彼女とは何らかの因縁があるのか。
「失礼ですが、どこかでお会いしました?」
と聞くと、
「いいえ。初めてです」
と答える。
どう考えてもおかしい。
もしかしたら、身体に爆弾でも括り付けているのではないか。しかしそれにしては平然とした印象がある。にこやかでもなく、無表情と言ってもいいその顔から特段の感情は読み取れない。少なくとも、これから自爆を企てようとする者の顔ではなさそうだ。それどころか、これといって企みの気配も感じられない。しかしそこが逆に怪しくも思われる。
まだ十代のような見た目とは裏腹に、よほど訓練された者なのか。
しかし、何のために?
社会的に有名でも重要でも何でもない市井の一個人を陥れるためにわざわざ訓練された者を差し向ける意味などあるだろうか。となるとこれは「ドッキリ」的な何かだろうか。そう考えてみると、彼女のこの微動だにしない姿勢にこちらを陥れようという意図なり思惑なりが透けて見えてきそうな感じがしないでもないが、それにしても妙だ。
嫌に動かない。
サインくださいと声を掛けて色紙とペンを差し出してから、どれだけ時を経ているのか考えてみると、少々不自然にも思われてくる。早くしろとせがむこともなければ、焦れて身をよじらすこともなく、かといって諦めて去るわけでもない。背丈は一六〇センチ強といったところか。顔の造形を見ると多少あどけなく見える。とはいえ高校生くらいの印象で、黒髪が鎖骨付近まで伸びている。肌艶もよく、化粧はしていないように見受けられる。リップクリームは塗っているようで、多少分厚い唇は控え目に潤っている。色紙を差し出している手の親指の爪は綺麗に切りそろえられており、マニキュアなどは塗られていない。髪の毛は丁寧に梳かされているのか整って艶があり、飾り気はないながらも手入れはゆきとどいているような印象を受ける。中流以上の家庭でこれといった問題もなく育ってきた女子高生、といったところだろうか。定期的に瞬きをする瞳を覗き込んでみると、光彩は薄茶色。コンタクトはしていない。鼻腔を覗いてみてもさすがに鼻毛が伸びている様子はなく、こちらも手入れはゆきとどいているように見受けられる。唇を指先でなぞってみると油脂分が付着することから、やはりリップクリームを塗っているようである。そのまま上下に押し開いてゆくと、白さの際立つ歯列が行儀よく並んでいる。八重歯などなく、ものが挟まっている様子もない。鼻を近づけてみても、唾液特有の饐えたような匂いがするほかは特別いやな臭いはしない。毎食後口をゆすぐか、歯を磨くかする習慣があるのかもしれない。半開きとなった上下の歯列に指を入れ、ゆっくり押し開いてみると、奥歯に銀歯なども見当たらない。虫歯はないように見え、口内の健康状態は並以上といったところだろうか。次いで人差し指と中指を差し入れてゆっくりと舌を引っ張り出して見る。ちょうど昼食を終えて二三時間ほど経過した頃合いであろうことを考えると、それほど舌苔が見られない。推察の通り、食後歯を磨く性質なのだろう。加えて歯磨きの際に舌も磨く性質なのだろう。なるほど衛生管理の徹底された人物であるらしい。
元通りに舌を戻し、唇を閉じ、次いで後ろに回り込んで観察を続ける。