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【美術館レポート】「吉田博 今と昔の風景」MOA美術館
吉田博。
レポートを書こうとして早20日。そろそろ片付けなければならない。
そうだな。もうさっと書こう。
版画家。風景を描いていた。日本のみならず、海外の光景も。アメリカ西海岸のヨセミテ国立公園、イタリアのヴェニス、スイスのマッターホルン、等。
登山家でもあったらしく、山の作品も多い。
作品は、とても見やすいしその意味では万人受けするだろう。
単純に美的ではある。
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「水の反映」と「靄」
今回面白かったのは、「水の反映」と「靄」の表現。
この二つがこの版画家のこだわりであり生命線、と感じた。
版画という表現方法の性質上、ものは輪郭が強くなるので、表現としてはデフォルメチックになりやすい。北斎や広重といった江戸時代の版画家はまさにそれを活かしてある種漫画的と言えるような表現を磨いてきたと、詳しくないながらも言えそうな気もする。
それに対して、今回見た吉田博の版画は「水の反映」と「靄」の表現に、ある種のリアリティが仮託されているように思われた。
リアリティーー写実的という意味よりも、何かハッとさせられるような真実味、という意味で。
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水の反映はあくまでもそれ自体としてはメインではないものの、描かれる対象を含めた全体の空気感に大きく影響を与えている。
水の反映がない作品もあるのだが、それらと比べると絵としての魅力は段違い、のように感じられる。
靄の表現もまた同様に、全体に精彩な印象を与えるという点では、今回の吉田博の作品群において「水の反映」と同じような位置付けにあるように思われた。
それ自体メインを張るわけではないのだが、ある意味メインよりも重要な核心要素として、「水の反映/靄」がある――と思われる作品は今回多かった。
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対象だけではなく、対象を含めた全体の「空気感/印象」を描きたい、というような。
時というのは実は色なのかもしれない?
今回一番印象的だった作品は、中央に帆船が描かれた作品で、これは時の移ろいや天候の相違によって同じ構図でいくつものヴァリエーションがある。同じ版木を使って色を変えて刷ることができる、版画を活かした手法と言えるのかもしれない。
これがよい。
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景色は変わらず、そこに付与された色合いだけが変わる。それによって、朝、午後、夕、夜、とさまざまな景色が表される。純粋に、時の移ろいだけが、しかも概ねは色の変化によって、表されている。
色による時の表現……時というのは実は色なのかもしれない?
同じ絵柄のヴァリエーションが並べて提示されることで、鑑賞者としては「時の移ろい」を主眼に観ることになる。絵画を鑑賞する際には、そこに描かれる対象そのものを主眼として観がちなのに対して、これはちょっと面白かった。
考えてみれば、たとえば葛飾応為の浮世絵なども、行灯や家屋から漏れ出る光の表現に浮世絵離れした真実味があるように思われる。
「水の反映/靄/家屋の明かり」すべてが光の表現と言える。
光が表現された作品には独特の魅力があるようにも思われる。
補遺
光そのものが鑑賞対象になるような日常の機会というと、何があるだろう。
やはり水の反映。
あるいは、高窓から入る一筋の光や、澄んだ水底に映じる水の影とか。
水面に反射する光が壁に当たって形作るゆらめきとか。
そうか、ガラス作品の魅力も光にあるのかもしれない。
あとは夜景。
夜景が美しく感じられるのは、闇のなかで光そのものが鑑賞対象となっているから、かもしれない。
では、光そのものはなぜ鑑賞に値するのか。
なぜ雰囲気・空気感の醸成に寄与するのか。
……なぜだろう。
単純に、生における視覚の比重が強いから、ものが見えるということに現実性を感じる、ということだろうか。
そして光は、「ものを見る」のにあたって本質的な役割を持っているから、かもしれない(だから、目の見えない人にとっては、目の見える人にとっての「光」に相当するような「音」や「匂い」や「感触」というものがあるのかもしれない)。
しかし他方で、光はそれそのものが鑑賞の対象となる機会は少ない。
だからこそ、光を象徴的に表した作品というのは、通常忘れている光のリアリティを抽象的に表現し得ているという意味で、美的に感じられるのかもしれない。
夏の木漏れ日が好きだ。
真夏の強い日差しが木々の合間から差し込んで、ピンホール現象で地に太陽の円を映し、それがゆらゆら揺らめくのを見るのが好きだ。これは自分にとって最も身近な、光そのものを鑑賞する機会、かもしれない。
そうだな、その関連で言うと、雲も好きだ。
これは正確に言うと、雲に反映する光の具合が好きだと言えるかもしれない。
MOA美術館でのハイライトはまさに、併設のカフェで初島を臨む海の遠景をぼんやり眺めるひとときだった。
水面の反映と、そして輝く雲。
午後三時の陽光が反映するその雲をどう表現すべきか、半時ほど考えていたのだった。
「ほがらかな宿命」
と名づけた後に、宿命という語の持つ強いられた感じが気に入らず考え直し、結局、
「能天気な栄光」
と命名して落ち着いた。
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