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「一人になってはいけない」--カンボジアで女性の貧困に向き合い続けるチャンタからのメッセージ

1. プロフィール
Chantha Nguon

Co-Founder and Executive Director
 of Stung Treng Women’s Development Centre
(SWDC)
カンボジアの内戦時、難民としての生活を送った後、国境なき医師団の看護師として働く。内戦直後の祖国を見捨てることができず、復興支援に関わった後、カンボジアで最も貧しいとされる地域の1つであるストゥントレン州で、HIV/AIDSを含むプライマリーヘルスケアに従事するために、女性たちを看取るホスピスを開く。2001年、「ひとりでも多くの女性を貧困から救いたい」という想いで、SWDCを立ち上げる。読み書きのできない女性に職人として技術を身に着けてもらうことで、尊厳をもたらし、貧困からも回復したいという想いで、SWDCの事業の一つとしてMekong Blueを立ち上げる。Mekong Blueは、カンボジアを代表するシルク製品のフェアトレード事業として世界から認められている。その他、カンボジアやベトナムの工場の監査などを行う仕事にも携わっている。


2. コロナ禍で閉鎖したメコンブルーの工房

渡邉)
Chanthaさんが関わるSWDCやMekong Blueについて、またそれ以外に関わるプロジェクトなどについて教えて頂けますか?
Nguon)
ストゥントレン・デベロップメント・センター (以降、SWDC)として始めたメコンブルーの事業は、高級品市場をターゲットにしています。経済的に豊かな国やお客様が対象です。高級手工芸品なので、COVID-19による経済的ダメージは大きい。そのため、去年からメコンブルーの事業は一旦止めて、プノンペンのお店も閉めています。
SWDCは、支援機関からCOVID-19救済としての資金提供をしてもらって運営を続けてます。海外からの支援を得ることによって、仕事が無くなり収入がない女性たちに、一人あたり月に50ドルを生活費として支給することができています。しかし、ずっと生活費を支給するのは困難であるため、COVID-19拡大のときからずっと収入源の確保などについて考えてきました。結果として、これまでメコンブルーを通じて現金収入を得ていた女性たちに、農業スキルを得てもらい、有機農業をしようと考えました。女性たちは前より多くの知識を持ち農業に戻り、野菜を育て、SNS等を活用して野菜を売り、ホームデリバリーを行うなどして成功しています。
渡邉)
現在SWDCには、何名の女性が滞在しているのでしょうか?
Nguon)
感染拡大があってから、SWDCに女性が集まったりすることはなく、農業トレーニングをして、それぞれの自宅で農業を行うという形をとっています。さらにトレーニングを続けたいとは思っていますが、中断せざる負えない状況なので、改善されるのを待つのみです。
これまでに約30名の女性がトレーニングを受けて、農業を通じての収入を得られるようになっています。
渡邉)
SWDCの他にも、工場監査などの仕事もされていましたよね?
Nguon)
はい、カンボジア国内の縫製工場の労働環境アセスメントなどを行っています。しかし、カンボジア国内のほとんどの工場が閉鎖しているため、こちらの仕事もCOVID-19の影響を大きく受けています。
この仕事を通じて、工場で働く女性たちが正当に給与を支払われているか、彼女たちが意見を発することができることなども含めて労働環境をチェックしていますが、SWDCで目指す理念と重なっており、非常に重要な仕事としてやりがいを感じています。
COVID-19以前はカンボジア国内にある約100の工場全ての監査を行っていました。

3. COVID-19で大きな影響を受ける女性や子どもたち

渡邉)
コロナ禍でのカンボジアの女性たちの様子はどうでしょうか?日本でも特に非正規雇用だった女性が離職したりして、大きな影響を受けています。SWDCに関係のある女性たちだけでなく、他の女性たちの様子など、チャンタはどんなふうに見ていますか?

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Nguon)
非常に厳しい状況に置かれています。
多くの若い女性が縫製工場で働いていますが、工場が閉鎖するなどして彼女たちは仕事を失い、現金収入がなくなっています。政府が食料支給など行う支援をしてはいますが、支援が届くまで1-2週間は食べるものが不足するような状況が起こっています。
また、女性の起業家たちも大変です。創業する女性たちも増えてきていましたが、COVID-19直前に創業した女性たちのほとんどは事業を辞めざるを得ない状況にあります。もちろん、COVID-19による変化に対応して、オンラインで物を売ったりする人もいて、ロックダウンによるオンライン・ショッピングの需要拡大に乗っている人もいますが、少数です。
渡邉)
女性起業家に対して、政府や援助機関からの支援はありますか?
Nguon)
特に起業家に対する支援はありません。
現金収入がない人に対して、政府が一時期月40ドルの支援金を支給したりもしました。しかし、フルタイムで働けば月200ドル程度収入がある人々にとって40ドルという金額は食べていくだけでも厳しいのが現状です。
また、食料の値段もあがっていたりするので、貧困下にある人々にとってはより苦しい状況が続いています。
渡邉)
日本でも非正規雇用だった女性たちが雇い止めにあい、現金収入がなくてこ苦しい状況におかれている人は増えています。COVID-19禍で、シングルマザーの状況がどうなっているかの調査が進んでいますが、現金収入が減り、親は2日に1食に食事を減らすなどしているということも出てきています。
そうした日本の状況も考えると、カンボジアでは更に苦しい状況なのかもしれないなと想像します。
Nguon)
女性はどんな状況でも最も影響を受けてしまいますよね。しかし、彼らは同時に、一番柔軟な人々でもあると思います。こどもを第一に考え、それを中心に考えなくてはならないので、いろいろな状況により早く順応したりできると思います。

4. 希望や未来への展望は常に持って

渡邉)
ポスト・コロナの時代がいつくるのかわからない状況ではありますが...COVID-19後の社会は、どうなると思いますか?メコンブルー事業の再開や今後の方向性、他の延期になっているプロジェクトなど、どうしていこうと考えていますか?
Nguon)
メコンブルーの事業は、20年以上やってきました。今は、これまでの実績については一度置いておくべきと考えていますが、望み(HOPE)というか、未来への展望は常にもっています。
COVID-19禍において、娘のクララがアメリカでメコンブルーのオンラインストアを開き、そこでスカーフとマスクの販売をしました。厳しい状況下でしたが、100万円以上の売上をあげています。この売上は、女性のための救済資金になっているのでとても助かりました。こうした動きの中に、次の展開や未来が見えてきているなと感じています。

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5. 母親として考えてきたこと

渡邉)
クララさんは、大学からアメリカに行き、現在は金融業界で勤務しつつ、週末はメコンブルーを手伝ってくれているのですよね。
そんな娘さんは、きっと母親であるあなたの背中を見て情熱やモチベーションを得たんだろうなぁと思います。チャンタさん自身は、「貧しい女性を支えたい」というのですが、クララさんのモチベーションはどんなものなんでしょうか?
Nguon)
彼女も、村に住む女性たちから学んだことや感じたことが多いと思います。SWDCの活動をするために、ストゥントレン州に住んでいましたが、そのムラの中で彼女だけが学校に通う子どもでした。その環境の中で、自分がどれだけ幸運なのかということを実感し、母親である私がやっていることを理解し、貧しい人々と繋がるようになっていきました。
アメリカの大学に行く前に、娘は自分が村で経験したことも含めて記事を書いたり、自分の人生について語るようになっていました。彼女にとって、カンボジアは大切なHomeなんだと思います。彼女はアメリカではなく、カンボジアが彼女のホームであると感じています。
渡邉)
起業家として、様々なプロジェクトに関わりながら、母親としても2人のお子さんを育ててこられて、時間のマネージメントや優先順位付け、大事にしていた人生のポリシーなどはありますか?
Nguon)
私が人生において大切にしているのは、「自分がやっていることに、全て責任を持つ」ということです。
特に私自身は、母親として子どもや家庭におけるお金ということに責任を強く感じて、子どもたちに接してきました。お金を稼ぐという意味では、自分の事業以外に頼まれた仕事を掛け持ちすることもあり、本当に忙しくて3週間家に帰れない時もありました。
そんな母親の姿を見て、娘も自立心を持って、母親である私を支え、息子たちの面倒を見たりもするようになっていました。私がお願いしなくても、娘に私がしていたように弟たちに宿題をしたかどうか確認したり、家に来ていた会社のスタッフと一緒に、家の出納の管理をしたりしてくれました。彼女が11歳の時です。
渡邉)
お忙しい中での、自分の時間の優先順位付けはどのようにされていましたか?
Nguon)
子どもの教育は、一番に大切にしていました。
飢えや貧困を経験してきた自分のような生活はしてほしくないと願っていましたし、そのために教育は非常に重要なことはわかっていました。そのために、私が子どもたちに提供できることは常に心がけていましたし、それを実現するためには、お金が必要だということも強く認識していました。ただ、どんなに忙しくても子どもたちの学校の集まりには必ず行きました。
彼らに私の愛というのお
気づくと、彼らを私がサポートするのではなく、彼らが私の仕事を理解しサポートしてくれるような環境ができていましたね。彼らに責任感を持ってもらうことが、私にとっての子どもの教育だったかなと思っています。

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6. 自分の母親から学んだ「起業家精神」

渡邉)
チャンタさん自身はどんな家庭で育ったのですか?そこから起業するに至った背景につながっていることはありますか?
Nguon)
私は私の母から彼女がどう問題に対処してきたかというのを覚えていました。難しさを乗り越えるにはシェアしたり、助け合ったりすることが大切であると学んだので、それを娘にも教えました。学校だけでなく、家庭での教育は私にとってとても重要でした。

私の母はとても貧しい村の出身でした。彼女は美しく、若かったので、お金持ちの家の方と結婚しました。しかし、彼女は奴隷のように扱われていたと言います。
嫁いだ先の義理の母、お嫁さんである私の母を愛してくれず、夫である私の父とは一緒に御飯も食べられなかったと聞いています。家族の食事が終わった後に、私の母は残り物を食べるしかなかったんです。
私の父は車会社で、整備士として働いていたので、給料は良かったのですが、彼の給料は全て母親が管理していたようです。私の母は、生きるために必要な食料しか与えられていなくて、彼女は働いていなかったので、より少ない量しか与えられていませんでした。
10年後、彼女が私の父側のおばあちゃんからお金を借りて、その当時あった乗り物を買い、利益を生もうと考えました。人々が移動するときにのせる乗り物を買うためにお義母さんからお金を借り、お義母さんもそれを使ってお金を稼いだと知り、彼女を信用し、サポートするようになりました。その時私の母は、彼女がどれだけお金を貯めていたかを初めて知りました。その後、3つその乗り物を買い、そのときいくら借りられるかを知ったので、そのお金を全部使い、利益を出すことができ、お義母さんから完全に信頼を獲得し、今まで私の母からとっていたお金を全て返してくれたそうです。その後プノンペンを去り、バッタンバンに移り住みそこで私が生まれました。その後、彼女が私の父の修理屋を始めました。第二次世界大戦後、彼は日本やフランスのために働くことができなくなり、職を失ったので私の母が父に代わって子供の養育費の支払いや、私の父や子供の洋服を買ったりしていました。なので、彼女が戦争の間は私たちの家族を助けてくれました。それが、私が彼女から学んだことです。
渡邉)
あなたの母も起業家だったんですね。
Nguon)
彼女はほんのわずかな利子をつけて人々のにお金を貸したりするのを家でやっていたので、私はずっとそれを見て育ちました。たくさんの人が私の家に来てお金を借りていきました。それでも母は主婦で、その人生は辛いので、私には仕事について欲しいと言っていました。それが私のバックグラウンドです。 
渡邉)
最初は起業家ではなく看護師になったんですよね。なぜ看護師になるって決めたんですか?
Nguon)
難民キャンプの状況があったからですかね。看護師になることによって、ヘルスセンターで働くことができましたし、月に100バーツもらうことができ、またヘルスセンターでは水をいくらでも使うこともできました。家では、料理や洗濯、シャワー等のための水を一日20Lしかもらえなかったのでセンターでの水は大きかったです。

7.  "月"と言われるアジアの女性

Nguon)
若い女性起業家とご一緒させてもらう機会があるとき、彼女たちによく言うのは、自力でやれるようにする必要があるということです。彼女たちは起業家である限り、強く、そして金銭的に独立しているべきであると思います。こどもや姑の問題もありますし、旦那さんの話も聞かなければなりません。アジアの女性たちは、いわば”月”であるとよく言われます。一人では、あまり輝けません。なので、私も最初の10年はそういうふうに過ごしてきました。しかし、今では私の方が夫より稼ぐので、私は”太陽”なんです。
私たちがSWDCを立ち上げた後に言ったのは、SWDCに連れてきた女性たちみんなを尊重しなければならないということです。
尊重や尊敬し合うということを、自力で獲得しなければならないと思います。それが私のパートナーに関しての考え方です。そのためにも、女性起業家は強く、何があっても自分の足で立ち続けるしかないのです。
渡邉)
旦那さんも、SWDCを一緒に経営しているのですよね?
Nguon)
はい。彼は私が獲得した資金に関して一番頼れる人で、彼の予算管理はとてもしっかりしていて、寄贈者たちは、口を揃えて監査は必要ないと言っています。彼はストゥントレンに住んでいるので、私はそこに行く必要はなくいつも信頼しています。彼も私のことは尊敬してくれています。
渡邉)
SWDCを設立するにあたって、旦那さんにビジョンを共有するのは難しかったですか?
Nguon)
彼も元々は看護師で、もともと難民キャンプで一緒に働いていました。カンボジアに戻ってきたときに、彼にストゥントレンにある国境なき医師団を紹介したのは私でした。彼はシャイだったので、私が実際に建物に入って推薦書を提出して二人とも仕事を得ることができました。そのような経緯から、彼は私が有能であると言うことは知ってくれていて、私のことを尊重してくれていたと思います。
それでも、最初は家庭の中では、夫の言っていることを聞くだけでした。仕事の面では、"太陽"として尊重してもらっていても、家庭の中では"月”の存在で、お互いに”太陽”と”月”の両方になることができなかったのです。
そこから徐々に、仕事の面でも家庭の面でもお互いを尊重し合えるように変わりました。

9. 最後のメッセージ 〜一人になってはいけない

渡邊)
このインタビューの中で、いくつもの力強いメッセージをすでに頂いていますが、最後に私たちはコロナ禍をどのように乗り越えれば良いか、乗り越えていくための心づもりだったり、大事にしている考えを含め教えて下さい。また、特に女性起業家に対してのコメントもあれば、お願いします。
Nguon)
困難に直面した時に、毎回私はそれから逃げたいと思います。困難の大きさに関わらず逃げ出したくなりますが、その後にその困難に戻り、向き合い、問題を解決してきました。
私はヒーローでもなんでもなく、みんなと同じです。困難や恐怖から、一度は逃げても、戻ってきてやらなくちゃいけないのだと、いつも自分を言い聞かせています。困難から逃げたとしても、その困難に向き合い、解決していくこと。それしかないように思っています。自分で解決策を探すことは、とても重要ですが、周りの人に助けを求めるのも必要です。
私は、問題を抱えている人をいつでも助けられます。家庭におけること、ビジネスにかかわること、沢山の経験をしてきたので、その経験からアドバイスすることもできます。一人になってはいけません。女性は皆助け合わなければなりません。世界をそのように構築していく必要があると私は思います。
渡邉)
とても強いメッセージをありがとうございます。AWSENでのオンラインインタビューを私たちが始めた前、私には何ができるかと悩みました。特にコロナ禍では、起業家さんたちの元を訪れることができないので、何もできないなと思っていました。そんな時に、女性起業家たちから他の女性起業家のことについて知りたいというコメントをもらいました。彼らがどんなに辛い思いをして、ビジネスを一旦やめなきゃ行けない状況にいたとしても、彼らのストーリーは特別で、彼らは素晴らしいのでこのオンラインインタビューを続けていきたいなと思っています。
Nguon)
さやかは、すごくよくやっていると思いますよ。こうして話す場を与えることは、とても大切なことです。
渡邉)
元気付けられるインタビューをありがとうございました。
また直接お会いできる日を楽しみにしていますね!良い1日を!

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記事執筆:渡口翔平、曽根原千夏
インタビュー・編集:渡邉さやか
写真:SWDC、Mekong Blue 提供のものに加えて、FacebookでシェアOKになっているものから引用させて頂いています。

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