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「美と用の煌めき-東本願寺旧蔵とゆかりの品々-」展(-2024.11.28)・大谷大学博物館

閲覧ありがとうございます。日本絵画一愛好家です。

ちょっと本投稿の趣旨から大きく外れてしまい、たいへん申し訳ないのですが、先日、アメリカ合衆国コロラド州立大学名誉教授でいらした毒物学の権威、2009年に旭日中綬章も受章されておられる、杜祖健(TU, Anthony/アンソニー・トゥー)先生が94歳でご逝去されたとの訃報に接しまして、弊方、謹んで心よりお悔み申し上げます。

それにしても、メディアやインターネットにおけるアンソニー・トゥー先生の訃報の扱いが小さすぎるのではないか、と個人的には憤慨しております。

東京化学同人の「現代化学」1994年9月号において「神経毒の分子メカニズム」が特集されており、オウム真理教による松本サリン事件や地下鉄サリン事件のときに、この特集に掲載されるトゥー先生のサリンに関する論文がサリン中毒治療等に参考にされたそうです(もっとも、このトゥー先生の論文はオウム真理教の当事者たちも読んでいたらしいのですが・・・)

その後、トゥー先生は、オウム真理教の中川智正元死刑囚と個人的に交流を続けられたそうで、その結果は、少なくとも中川元死刑囚の下記の2つの論文に結実したそうです。

(1) Tomomasa Nakagawa, and Anthony T. Tu, "Murders with VX: Aum Shinrikyo in Japan and the assassination of Kim Jong-Nam in Malaysia" Forensic Toxicology, Vol. 36, pp. 542–544, (2018) [DOI: https://doi.org/10.1007/s11419-018-0426-9]

(2) 中川智正「オウム死刑囚が見た金正男氏殺害事件-VXを素手で扱った実行犯はなぜ無事だったのか-」現代化学 2018年8月号 第66-71ページ

後者の(2)の論文は弊方、現代化学で拝読いたしましたが、いろんな意味で衝撃的な論文でした。

弊方の仕事には毒物学は直接的な関係はないものの、『身のまわりの毒』(東京化学同人)や『中毒学概論-毒の科学-』(薬業時報社)等の著書には、個人的にいろいろと勉強させて頂きました。

いつまでリンク先の記事が維持されているか明らかではありませんが、トゥー先生がどのような方でいらっしゃったかが分かりやすいと思われる、JB Press の訃報記事に僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

改めまして謹んでアンソニー・トゥー先生のご冥福をお祈り申し上げます。

閑話休題、仕切り直しをさせて頂きます。

本記事は、2024年10月8日から11月28日まで大谷大学博物館(京都市北区大谷大学内)にて絶賛開催中の「美と用の煌めき-東本願寺旧蔵とゆかりの品々-」展について、弊方による雑な飛報とご理解頂けますと幸甚です。

前回の自称「飛報」が、通常運転のだだ長いヲタトークと同じくらいに、めちゃくちゃ長くなってしまいましたので、本記事は飛報らしく短くまとめさせて頂きたいと思います。僭越ながら前回の飛報「「鷹のおでまし-鷹狩の美術-」展・埼玉県立歴史と民俗の博物館」の記事にリンクを張らせて頂きます。

それはともかく、大谷大学博物館ウェブサイトの本展ページに僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

大谷大学博物館は、大谷大学北側の門から入ってすぐの「響流館」という建物の1階に所在します。京都市営地下鉄であれば北大路駅を降りて、南側の有人改札を出てそのまま南側に歩いて地下道を通って6番出口の階段を上がって向かって左側に曲がると、大谷大学北門があります。

大谷大学北門を弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を、僭越ながら見出し画像として掲載させて頂きます。

博物館に入館するために大谷大学構内に入るに際しては、何か手続が必要というのはありませんでした。

新型コロナウィルスCOVID-19のパンデミック時期では、守衛所で守衛の方に「博物館にお伺いしたいのですが」などと申し出ると、たしか首からかける入館証を貸し出して頂き、それを身に着けて「響流館」に入らせて頂いた記憶があるのですが、まだ数年前くらいの話であるのに、はっきり覚えておりません。歳ですね。

以前は、守衛所からまっすぐ歩いて大谷大学博物館の正面ロビー(ホワイエ?)につながる自動ドアの入口から入った記憶があるのですが、今回は、北門に面した自動ドアの入口から入館させて頂きました。

北門に面した自動ドアに、ちゃんとチラシ(フライヤー)が掲示されて「このドアを入って突き当りを左へ」とご案内がなされていました。僭越ながら雑な写真を掲載させて頂きます。

この自動ドアから「響流館」に入館させて頂くと、図書館1階閲覧室の前のホワイエ(ロビー?)みたいな広々としたお部屋があり、そこを通り抜けて、博物館の正面ロビーに出て突き当りとなっており、そこを左に曲がると博物館の入口になります。

本展、もちろん写真撮影禁止ですので、大谷大学博物館の入口前を、僭越ながら弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。

大谷大学博物館は、近年では、春・夏・秋・冬とそれぞれの季節に企画展が開催され、秋に図録も発行される特別展が開催されている感じです。

弊方が比較的よくお伺いさせて頂く大学内ミュージアムとしては、花園大学歴史博物館、大阪商業大学商業史博物館、京都工芸繊維大学美術工芸資料館、そして、こちらの大谷大学博物館を挙げさせて頂きます。

龍谷ミュージアムにもよくお伺いさせて頂くのですが、龍谷ミュージアムは龍谷大学の大学内ミュージアムというよりは、独立したミュージアムの印象が強いので、ちょっとカテゴリー的に違うのかもしれません。

大谷大学博物館で特に印象に残っているのが、新型コロナウィルスCOVID-19のパンデミック真っただ中であった、2021年11月2日から12月18日にかけて開催されていた特別展「東本願寺と京都画壇」でした。この特別展はウェブサイトから事前予約が必要でしたが入館無料でした。

入館券代わりに予約完了メールの雑な写真を掲載させて頂こうかと思いましたが、個人情報ダダ洩れですので止めまして、「東本願寺と京都画壇」のアーカイブが大谷大学博物館のウェブサイトに残されておりましたので、そちらに僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

この特別展「東本願寺と京都画壇」では、偉大なる円山応挙先生の作品や、人呼んで「名古屋生まれの奇僧、絵筆で人々を救う」でお馴染み? の月僊先生、近代京都画壇の巨匠、幸野楳嶺先生、望月玉泉先生、内海吉堂先生、竹内栖鳳先生などの巨匠の先生方の作品が展示されていたのですが、個人的には、京狩野九代永岳先生と、おそらく弊方が初めて存じ上げることになった羽田月洲先生の作品が激萌えでした。

弊方、京狩野に興味を持ちまして、ムダにいろいろ安直に調べているのですが、「東本願寺と京都画壇」では、展示作品数は少ないものの「第1章」が「京狩野と東本願寺」であり、また、同特別展の図録に収録される、大谷大学教授の國賀由美子先生の論文「東本願寺と京都画壇」でも、京狩野について言及がありまして、おっさん激萌えしていた記憶があります。

本展特別展「美と用の煌めき-東本願寺旧蔵とゆかりの品々-」展は、この「東本願寺と京都画壇」展の続編的位置づけのように弊方勝手に考えております。

「東本願寺と京都画壇」展は、どちらかというと「京都画壇」に重きが置かれていたのに対して、本展「美と用の煌めき」展では「東本願寺」に重きが置かれている展覧会のように思いました。

本展でも京狩野の画人の作品が「第1章 歴代のディレクションと東本願寺絵所」にて展示されておりました。第1章には「京狩野」とありませんが「東本願寺絵所」とあります。この「東本願寺絵所」については、敢えて本展図録からではなく、前回? の「東本願寺と京都画壇」の図録に掲載される、大谷大学教授の國賀由美子先生の論文「東本願寺と京都画壇」から下記の通り引用させて頂きます。

さらに永納[引用者補足・京狩野三代]の次男永梢(生没年不詳)は、文化十五年(一八一八)刊の『本朝古今書画便覧』に「狩野山静(筆者注:永納の別号)ノ二男、松之尉ト称ス、東本願寺絵所」とあって、東本願寺絵所になったと伝わる。これらの背景には、京狩野を重用した九条家と、東本願寺との並々ならぬ関係があったことを否めない。

「東本願寺と京都画壇」図録第23ページ第6-8行

本展第1章では、京狩野二代にして、偉大なる辻惟雄先生の『奇想の系譜』でも、曾我蕭白師匠や伊藤若冲先生、長沢芦雪先生等と並んで「奇想」の画人として挙げられている狩野山雪先生の作品とともに、狩野永梢先生の作品も展示されているという、激レアな展示構成ですので、弊方、強くウザく暑苦しく「推し」とさせて頂きたいと思います。

ちなみに狩野山雪先生の作品としては、相撲博物館蔵のかの有名な「武家相撲絵巻」が展示されており、また、前記引用にもありますように、九条家歴代のお姿をバストショットで写した「九条家代々御影」も展示されております。

さらにちなみにですが「京狩野」は「きょう・かのう」と読むのではなく、「きょう・がのう」と濁るのが正式だそうです。言いづらいっちゅ~ねん!

例えば、タレントの狩野英孝さんを、本日どこかの駅で見かけたと仮定して、誰かに「今日狩野英孝さん駅におったで!」と興奮気味に情報提供するときに、「きょうがのうえいこうさんえきにおったで!」とは言わへんと思います。「京狩野」は「きょうかのう」で濁らんでええやん!! 言いにくいっちゅ~ねん!!!

申し訳ありません。再び閑話休題ということで、さらに弊方の個人的な「推し」は「第2章 歴代手づから」です。

この第2章では、東本願寺の歴代法主が描いた書画や陶芸作品、あるいは歴代法主プロデュースの作品等が展示されておりました。かつて板橋区立美術館にて「江戸文化シリーズ」のひとつとして「お殿様の遊芸 楽しみながら描いてみむ」(2006年)という展覧会が開催されていたそうなのですが、類似した主旨になるかもしれません。

最後の「第3章」が「近世・近代の東本願寺什物から」ということで、これもたいへん興味深く激萌えで「推し」とさせて頂きたいと思います。東本願寺では、戦前に2回の大規模な収蔵品の「売立」が開催されたそうなのですが、これら「売立」の経緯に関する資料や、かつて東本願寺が所蔵していたことが明らかな作品等が展示されておりました。

本展チラシ(フライヤー)等では、この「第3章」に関して伊藤若冲先生作品が「推し」になっておりますが、弊方としては敢えて、もう一つの江戸幕府「御用絵師」住吉家の巨匠、住吉内記廣行先生のやたら横に長い八曲一雙の屏風「江戸図屏風」を「推し」とさせて頂きたいと思います。

この「江戸図屏風」、横に長すぎるのか、前期後期で一隻ずつ展示される予定で弊方、今のところ前期の右隻のみ拝見しておりますが、寛政の御所造営において、紫宸殿の最重要作品「賢聖障子」を描かれた住吉廣行先生だけのことはあり、緻密にして品のあるやまと絵作品だと思うのですが(弊方私見)、この「江戸図屏風」の裏にも作品が描かれており、その名も「西湖図屏風」でした。

「江戸図屏風」は、展示ケース内に収容されて展示されているわけではなく、もろ剥き出しの露出状態! いやん♡♡♡ 的な感じで展示されており、これだけでもおっさん激萌えなのですが、両端の第一扇または第八扇においては屏風の裏見放題で、狩野派というかコテコテの中国画風に描かれた「西湖図屏風」の端っこを余裕で拝見することができました。ということで、自称「屏風の裏愛好家」の弊方としては、強くウザく暑苦しく「推し」とさせて頂きたいと思います。

なお、「賢聖障子」は、「けんせいしょうじ」と読むのではなく、「けんじょうのそうじ」と読むそうです。こちらは、「京狩野」と書いて「きょうがのう」と読む方のように近代に創出された学術/専門用語ではなく、歴史的にそう読むらしいですので、言いがかりのような文句はつけないでおこうと思います。

飛報ですので、弊方の雑で一方的で個人的な「推し」とさせて頂きました。

以上、ちょっと冒頭に本記事とは関係のない、巨人の訃報への哀悼の意を表させて頂き、たいへん申し訳ありませんでしたが、閲覧頂きありがとうございました。

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