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光市文化センター(山口県)「宝迫虹汀・大楽桃白 生誕140年展」(2024-2025)

閲覧ありがとうございます。日本絵画一愛好家です。

晩冬の過日、山口県光市の光市文化センターにて、2024年11月23日から2025年1月26日まで、すなわち本日まで開催されておりました「宝迫虹汀・大楽桃白 生誕140年展」展を拝覧して参りました。

なんとか開催中の飛報として投稿させて頂くつもりでしたが、たいへんありがたいことに仕事が忙しかったため、できませんでした。

ということで、光市文化センターウェブサイトに僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

弊方、本展「宝迫虹汀・大楽桃白 生誕140年展」をどのようにして存じ上げたのか、実はよく覚えておりません。そもそも光市文化センターのことも昨年になって初めて存じ上げたように記憶しております。

インターネットの検索により何でも調べられるように勘違いしてしまいますが、実際には、キーワードとなり得る情報を知らなければ調べようがないかと思います。最近流行りのAIを活用したところで、predicative であるというか、根拠が明確でない advisory というか、生成データの適否を人間にゆだねるという雑な感じがしておりますので、弊方個人的には使えないと感じております。弊方的には、suggestive なAIが出て来てくれればと思うのですが・・・

それはさておき、弊方、年行って物忘れが目立つようになってはっきり覚えていないのですが、昨年2024年のいつごろか忘れたのですが、何かを安直にインターネットの検索で調べていて、検出された記事のうち気になった記事をネットサーフィンした結果、宝迫虹汀先生に行き着き、光市文化センターに行きついたような感じがしております。弊方、何を調べていたんでしょうかね?!?!?!

光市文化センターウェブサイトには、宝迫虹汀先生を紹介するページがありますので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

上記のページによれば、宝迫虹汀先生は、光市のご出身で、地元で教師としてお勤めになられた後に、画家を志して東京に出られて、野村文挙先生の画塾に入られて展覧会で入選される等して活躍され、その後、高島北海先生のご指導も受けられたものの、食中毒で28歳の若さで亡くなられたということです。

野村文挙先生の門下であったということは、山元春挙先生とは「兄弟弟子」の関係にあったのかもしれません。ただし、春挙先生は、文挙先生の「東京」上京には同行されず、森寛斎先生に師事されたということなので、春挙先生と宝迫虹汀先生との間には面識はなかったのではないかなぁ、と思いました。

高島北海先生は、山口県を代表する日本画家で全国的にもその名が知られた巨匠でいらっしゃいます。画家としてだけでなく地質学者としても著名でいらっしゃるそうです。少なくとも1986年と2011年に、山口県下関市の下関市立美術館で高島北海先生の展覧会が開催されていたそうで、弊方、前者の図録を古書で、後者の図録を下関市立美術館で入手させて頂いております。ただし、これら図録には、宝迫虹汀先生に関しての記載は確認できませんでした。

下関市立美術館では、高島北海先生の個展ではないものの、高島北海先生が大きなウェイトを占める特別展「自然の秘密をさぐる」が2021年に開催されていた模様です。アーカイブが残っておりましたので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

大楽桃白先生は、光市に所在する早長(はやおさ)八幡宮と杵崎神社の神官を務められた方だそうです。岩国市でお生れになり、早長八幡宮と杵崎神社の神官でいらした大楽平馬・タミご夫妻のご養子となり、その後神官を継承されるとともに画業にも精進されたとのことです。画業だけでなく、俳句・和歌・郷土史などにも造詣が深かった多才な方だったようです。画人としては、特定の師に学ばれることなく独学でいらしたようです。

光市文化センターウェブサイトには大楽桃白先生を紹介するページはないのですが、光市の広報誌「広報ひかり」の平成28年(2016)11月10日号に大楽桃白先生を紹介する記事が掲載されておりましたので(第14ページ)、僭越ながら光市ウェブサイトの「広報ひかり」アーカイブのページにリンクを張らせて頂きます。

奇しくも宝迫虹汀先生も大楽桃白先生も1884年(明治18年)のお生れで同い年でいらしたということです。先ほどの通り、宝迫虹汀先生は28歳の若さでお亡くなりになっておりますが、大楽桃白先生は69歳までご存命だったそうです。

このようなよくわからない経緯ではありますが、弊方、光市文化センターと宝迫虹汀先生について存じ上げることになったので、光市文化センターウェブサイトをチェックさせて頂いていたところ、何と本展「宝迫虹汀・大楽桃白 生誕140年展」の開催が告知されましたので、弊方独自の「誰? 知らん!! 萌える!!!」のナゾの「ヲタク三段論法」(全く論法ではありませんね。申し訳ございません。)が発動しまして、ぜひお伺いしたいと思いました。

ところが、光市文化センターウェブサイト等を確認する限りでは、本展「宝迫虹汀・大楽桃白 生誕140年展」は、比較的小規模のコレクション展的な位置づけのようでした。

そうすると、セコい弊方としては、山口県までお伺いするのに交通費も時間もかかるので、他の何かハシゴできそうな展覧会/企画展とかありまへんやろか?! と思って調べておりましたら、何と、広島市中区に所在する、広島県立歴史博物館分館である頼山陽史跡資料館にて、「自然の息吹を描く 田中頼璋の山水」展が2024年12月6日から2025年1月13日まで開催されていたではあ~りませんか!!! (respect for チャーリー浜師匠)

そうはいっても、広島市中区と山口県光市はかなり遠いです。

弊方、最初は、光市文化センターにお伺いしてから頼山陽史跡資料館にお伺いして、広島駅から新幹線で関西に帰るつもりで予定を検討したのですが、光市文化センターへの経路がボトルネックとなりました。

光市文化センターの鉄道の最寄り駅はJR山陽線の光駅で、JR光駅から防長バスで「光市役所前」のバス停で下車すると歩いてすぐのようなのですが、残念ながらバスの本数が少なかったのです(関西の田舎に住む弊方の近所に比べれば、バスの本数は間違いなく多いのですが・・・)。

最も効率的なのは、JR光駅を起点にするのではなく、山陽新幹線の駅もあるJR徳山駅を起点として、ここから防長バスで「光市役所前」に向かう経路であることがわかりました。

ちなみにJR光駅から光市文化センターまでは徒歩で30~40分くらいらしいので、歩くのスキスキのキモいおっさんの弊方としては、光市文化センターにお伺いするだけで頼山陽史跡資料館にハシゴしないのであれば、徒歩を選択したと思います。

このように光市文化センターまでのバスの本数が限定されてしまうため、まずはJR広島駅まで出て、広島電鉄で「神谷町東」駅で下車して、頼山陽史跡資料館にて「田中頼璋の山水」展を拝覧して、その後、広島電鉄でJR広島駅まで戻り、山陽新幹線こだまでJR徳山駅まで出て、JR徳山駅から防長バスで光市文化センターにお伺いすることにいたしました。

ということで、頼山陽史跡資料館の入口付近を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。

頼山陽史跡資料館の「田中頼璋の山水」展はすでに終了しておりますが、いや、本展「宝迫虹汀・大楽桃白 生誕140年展」も終了してしまいましたが、たいへん素晴らしい激萌え展覧会でしたので、改めて記事化させて頂ければと考えております。

頼山陽史跡資料館には何度かお伺いしたことがありますので、交通経路や滞在時間のあたりがついたのですが、光市文化センターは初めてお伺いするため、本展「宝迫虹汀・大楽桃白 生誕140年展」の規模もあたりがつかないので、光市文化センターの滞在時間を2時間くらいとみて、スケジュールを組みました。

JR徳山駅から防長バスで光市役所前まで、途中32駅、乗車時間40分以上、料金580円ということでしたので、長いバス旅になるかなぁ、と思ったのですが、そうでもありませんでした。乗車時間40分超えで定刻通り到着したのですが、思っていた以上に早く到着した印象がありました。

光市役所前バス停は、国道188号の光市役所に面する交差点(「正門前」交差点)付近にあり、この交差点から山側にちょっと歩くと、光市文化センターがありました。

ということで、光市文化センター前の駐車場の生垣のところに、本展「宝迫虹汀・大楽桃白 生誕140年展」の立て看板がありましたので、雑な写真を掲載させて頂きます。

この駐車場手前にちょっと低くなっている側道があり、この側道の先に光市文化センターがありました。ということで、光市文化センターの雑な写真を掲載させて頂きます。

もうひとつ、光市文化センター出入口前の雑な写真も掲載させて頂きます。

光市文化センターは、高度成長期に創設されたと思われる、昭和の雰囲気が漂う古き良きステキなミュージアムという感じでした。

出入口から中に入ると、左手に事務室(受付)がありましたが、入館は無料でした。弊方がお伺いしたときには、出入口すぐのロビーでは、2024年12月28日に逝去された、光市在住の人間国宝の金工作家、山本晃先生の哀悼展が開催されておりました。

1階のロビー奥には企画展示室があり、こちらでは「黄昏に漁港の賑わい写真展」という写真展が開催されておりました。

ロビー横の階段から2階に上がると、階段から見て正面が吹き抜けとなっており、右手には常設展示として、歴史民俗展示室と自然史展示室があり、左手には、弊方お目当ての美術展示室がありました。

本展というか、光市文化センターの展示室内については、写真撮影は禁止されていたわけではないのですが、「撮影する場合 事務室に相談してください」とあり、写真撮影が許可されるわけではないようでした。そのため、本展「宝迫虹汀・大楽桃白 生誕140年展」の写真はございません。

本展「宝迫虹汀・大楽桃白 生誕140年展」の図録は当然作成されていなかったのですが、事務室にて、大楽桃白先生に関しては「寄贈記念 「大楽桃白とその周辺」展 寄贈資料目録」パンフレットが無料配布されており、宝迫虹汀先生については、「夭折の日本画家 宝迫虹汀展」パンフレットが300円で販売されておりました。

もちろん弊方ゲットさせて頂きましたので、僭越ながら、パンフレットの雑な写真を掲載させて頂きます。

弊方、館内を一通り拝覧して、もちろん美術展示室における本展「宝迫虹汀・大楽桃白 生誕140年展」の作品群も拝覧させて頂いたのですが、その後、パンフレットを先にゲットさせて頂いてから、再び2階の美術展示室に戻って、展示作品がパンフレットに掲載されているか確認させて頂きました。

本展「宝迫虹汀・大楽桃白 生誕140年展」には、作品または資料が合計37点出陳されており、もちろん展示作品リストも配布されておりましたが、光市文化センターウェブサイトではリストのデータがアップされておりませんでしたので、ご参考までにテキストデータに翻刻したものを掲載させて頂きます。

下記の翻刻リストのうち最後に“*”(アスタリスク)を付している作品が、「寄贈記念 「大楽桃白とその周辺」展 寄贈資料目録」パンフレットまたは「夭折の日本画家 宝迫虹汀展」パンフレットに掲載されている作品です。

《展示作品》
1   「夏蜜柑庭園図」大楽桃白 [絹本彩色額装]*
2   「山帰来図」 大楽桃白 [絹本彩色額装]*
3   「アマリリス」 大楽桃白 [絹本彩色額装]*
4   「皓月照波」 大楽桃白 [絹本彩色額装]*
5   「墨竹図」 大楽桃白 [紙本墨画軸装]
6   「八ツ手図」 大楽桃白 [絹本彩色軸装]*
7   「旭日・鶴・稲架」 大楽桃白 [絹本彩色軸装]
8   「人物戯画」 宝迫虹汀 [紙本墨画軸装]
9   「酔李白図」 宝迫虹汀 [紙本墨画淡彩軸装]
10 「梅渓訪友図」 宝迫虹汀 [紙本墨画彩色軸装]*
11 「秋草に虫図」 宝迫虹汀 [紙本墨画彩色軸装]
12 「織女図」 宝迫虹汀 [紙本彩色軸装]*
13 「山水図」 宝迫虹汀 [紙本墨画襖](4面のうち中央2面)
14 「花鳥図」 宝迫虹汀 [紙本彩色襖](4面のうち中央2面)
15 「糸瓜」 宝迫虹汀 [紙本墨画軸装](個人蔵)
16 「金鵄図」 宝迫虹汀 [紙本墨画淡彩軸装]
17 「山里収穫図」 宝迫虹汀 [絹本彩色軸装]
18 「八幡太郎義家図」 宝迫虹汀 [絹本彩色軸装]*
19 「秋景山水」 宝迫虹汀 [絹本彩色軸装](個人蔵)*
20 「祖父肖像」 宝迫虹汀 [絹本彩色墨書軸装](個人蔵)*
21 「木曽暮春之図」 宝迫虹汀 [絹本彩色軸装](個人蔵)*
22 「自画像」 大楽桃白 [絹本彩色軸装]
23 「鮭図」 大楽桃白 [絹本彩色軸装]*
24 「柿の木に鴉図」 大楽桃白 [絹本彩色二曲一隻屏風]*
25 「柿図」 大楽桃白 [絹本彩色額装]*
26 「牡丹図」 大楽桃白 [絹本彩色額装]*

《大楽桃白愛用品など》
27 「印章」 (合計12+印籠、印影14)
28 「煎茶道具」(萩焼他)
29 「赤間硯」 (大森久三郎作)
30 「写真帳」
31 「明治38年教員辞令」(山口県知事)
32 「明治41年教員辞令」(山口県熊毛郡役所)
33 「昭和12年表彰状」(山口県神職会)

《宝迫虹汀愛用品など》
34 「松岡氏宛書簡・富士図」 宝迫虹汀 [紙本墨書・墨画]
35 「印章」 (合計14、印影15)
36 「九州旅行記」 宝迫虹汀 [紙本彩色]*
37 「第十六回美術展蘭会褒状之證 自筆『閑寂』 褒状三等」(日本美術協会)*

このように、作品番号1~26のうち、約半分がパンフレットに掲載されておりましたが、残りの約半分はパンフレットに掲載がありませんでした。

弊方がパンフレットと展示作品リストを見ながらチェックしていたところ、事務室にてパンフレットを販売・頒布頂いた事務室のスタッフの方(学芸員の先生?!)からお声かけ頂きまして、いろいろとご親切に説明頂きました。ありがとうございました。

パンフレットの展覧会が開催された後にも作品の寄贈があったり、本展のために個人の所蔵家の方から作品をお借りしたりしてきたそうでした。なお、パンフレットによれば「夭折の日本画家 宝迫虹汀展」は1997年の開催で、「大楽桃白とその周辺」展は1999年の開催でしたので、かなり前ですね。

先ほどの翻刻リストにも「個人蔵」の作品については括弧書きで付記させて頂いております。

さらに興味深かったのは、作品番号 13「山水図」と作品番号14「花鳥図」でした。いずれも襖絵4枚の大作ですが、展示スペースの問題で4面のうち中央2面のみが展示されており、その横に4面の小さい写真パネルが掲示されておりました。

これら襖絵作品は、光市内の旧家の所蔵だったそうです。弊方、迫力のある大作の襖絵なので寺院の所蔵かと思っていたら、個人のお屋敷だったそうです。数年前にお屋敷が老朽化して取り壊されるということになり、その際に光市文化センターに寄贈された模様です。

言い換えれば、宝迫虹汀先生は、個人のお屋敷に襖絵の揮毫を依頼されるくらいに、若くして高く評価されていらしたようです。南画家・難波覃庵先生、円山派の巖島虹石先生とともに、「光市三大画家」とされているそうです。

先ほどの通り写真はありませんが、地元紙「日刊新周南」ウェブサイトに2024年11月26日付で「【光】日本画の宝迫虹汀・大楽桃白 郷土ゆかりの2人の生誕140年展」という有料記事があり、有料ではあるものの写真は無料で拝見できるようになっておりましたので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

リンク先には、まずは大楽桃白先生の「墨竹図」(作品番号5)、「八つ手図」(作品番号6)、「旭日・鶴・稲架」(作品番号7)の展示写真が表示されるかと思いますが、左右横の矢印をクリックして頂くと、宝迫虹汀先生の「山水図」および「花鳥図」襖絵の展示写真を拝見できるかと思います。

なお、その他の作品についてですが、パンフレットには、本展「宝迫虹汀・大楽桃白 生誕140年展」に出陳されていない作品の方が多かったので、引用に該当しない可能性があり、パンフレットを写真で撮影させて頂くことは控えさせて頂いて、本展チラシ(フライヤー)の雑な拡大写真を僭越ながら掲載させて頂きます。

雑な写真なのでわかりにくいかと思いますが、左から作品番号12「織女図」、作品番号18「八幡太郎義家図」、作品番号6「八ツ手図」、作品番号23「鮭図」です。

また、その下左の宝迫虹汀先生の肖像は写真ですが、右の大楽桃白先生の肖像は、作品番号22「自画像」です。桃白先生、なんだか和装のレオナール・フジタ(Léonard Foujita)先生みたいに思いました。

大楽桃白先生の作風はかなり幅広いようですが、展示されていた作品は、「八ツ手図」のように、弊方好みの濃厚な感じの彩色と写実的表現でした。洋画の影響を受けた南蘋派みたいな印象を持ってしまいました。

一方、宝迫虹汀先生の作風は、まさしく「正統派」という感じではあるものの、戯画から南画風、近代やまと絵風の写実的な人物画などが展示されており、その多才さから優れた技量をお持ちの画人であったことが窺われました。もし早くに亡くなられることがなければ、その名声は全国的に広まった可能性もありそうに思いました。

規模は小さめとはいっても、たいへん充実して激萌えの展覧会でした。関西から高額の交通費と丸一日の時間をかけてお伺いした甲斐があったというものです。今後も光市文化センターウェブサイトをチェックさせて頂き、日本絵画の展覧会が開催されるようでしたらお伺いしたいと思います。

あいかわらず長くなってしまいました。閲覧頂きありがとうございました。

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