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京都府立堂本印象美術館「モダニスト 福田豊四郎 秋田を描く」展(-2024.11.14)
閲覧ありがとうございます。日本絵画一愛好家です。
晩秋の過日、京都市北区の京都府立堂本印象美術館にて2024年10月9日から11月24日まで、本記事の投稿時点で絶賛開催中の「モダニスト 福田豊四郎 秋田を描く」展を拝覧して参りました。
本記事は、最近始めましていつまで続くかわからない、会期中の投稿を目的とした雑な飛報にするつもりだったものが、通常運転のだだ長いヲタトークとなっており、我ながらかなり暑苦しい内容になっておりますので、恐れ入りますがご了承頂けますようお願いいたします。
本展は投稿時点で開催中の展覧会であり、ネタバレになっているかと思いますので、恐れ入りますが、この点ご留意頂ければと思います。
ということで、京都府立堂本印象美術館ウェブサイトの本展ページに僭越ながらリンクを張らせて頂きます。
堂本印象美術館は、弊方これまで何度もお伺いさせて頂いております。ということで、堂本印象美術館の外観を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。
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弊方、福田豊四郎先生のご尊名は存じ上げませんでした・・・、いや、本来なら存じ上げていたはずなのですが、全く記憶に残っておりませんでした。忘れていた、というのとは異なるのです。たいへん申し訳ありません。
弊方、この日は、午前中に本展「モダニスト 福田豊四郎 秋田を描く」展を拝覧し、午後は京都市京セラ美術館において、本記事の投稿時点で絶賛開催中の「巨匠たちの学び舎 日本画の名作はこうして生まれた」展(2024年10月11日から12月22日まで)を拝覧させて頂きました。
弊方の当初の意向では、「巨匠たちの学び舎」をメインとして、本展「モダニスト 福田豊四郎 秋田を描く」展をサブというか、オマケくらいに考えていたのですが、結果的にはダブルメインになりました。たいへん申し訳ありません。
正直に申し上げますと、福田豊四郎先生の作風は、弊方の好みから外れます。それでは、なぜ本展にお伺いしようと思ったかというと、「秋田を描く」に惹かれたためです。たいへん申し訳ありません。
弊方、秋田の画人については、たいへん著名な寺崎広業先生を存じ上げている程度の浅学であるため、秋田ゆかりの画人?! 誰?! 知らん!! 萌える!!! というナゾのヲタク三段論法(論法ではないですね。たいへん申し訳ありません。)に基づいて、本展にお伺いさせて頂こうと思いました。
弊方、堂本印象美術館には、JR嵯峨野線(山陰線)の円町駅を下車して徒歩でお伺いしました。約35分くらいでした。標準的には、JR嵯峨野線または京都市営地下鉄の二条駅から京都市営バスに乗車して立命館大学前まで、という経路だと思います。
堂本印象美術館は、同館ウェブサイトにも案内されておりますように、堂本印象先生ご本人が自らデザインされたそうで、回廊的なところが21世紀感覚では若干狭いので、バックパックで入館すると、入口前の外側のコインロッカーに荷物を預けるように勧められます。弊方も、入館前にバックパックを預けて、がっつり拝覧させて頂く準備を整えさせて頂きました。
ガラス戸の正面玄関に入って、広く短い階段を上がるとミュージアムショップ兼受付(チケット売り場)になっております。
受付の向かって左横に展示領域入口がありますが、その左後側には階段があります。この階段については後で出てきます。なお、堂本印象美術館は当然のごとく館内は撮影禁止です。
順路は、展示領域入口の向かって右側からであり、長い緩やかな上り坂の廊下(便宜上「第一回廊」とさせて頂きます)になっており、本展では、向かって右側の壁に作品が展示されておりました。この「第一回廊」を上ると右側に平坦な廊下(便宜上「第二回廊」とさせて頂きます)となっており、「第二回廊」を進んで右側に曲がると、「第一回廊」と同様の長い緩やかな上り坂の廊下(便宜上「第三回廊」とさせて頂きます)となって、2階の展示室につながっております。
さて、最初の上り坂の「第一回廊」で福田豊四郎先生の作品を初めて拝見したのですが、いや、実は記憶の限りでは初めてではなかったはずのですが・・・
それはともかく、本展の副題が「土田麦僊に愛された日本画家」とあり、豊四郎先生は麦僊先生の愛弟子でいらしたことが想像できるのですが、「第一回廊」の解説パネルによれば、最初は川端龍子先生の門に入られたそうです。より具体的な経緯を本展図録から下記の通り引用させて頂きます。
明治三十七年(一九〇四)、十和田湖近くの鉱山の町、秋田県小坂町に生れた福田豊四郎は、十五歳で画家を志し、十七歳で東京の日本画家、川端龍子に弟子入りした。龍子は洋画家から日本画に転向した画家で、日本画はほぼ独学で身に付けたものであった。龍子の勧めもあり、豊四郎は、国画創作協会(国展)の中心的存在の土田麦僊に本格的な日本画の技法を学ぶため、大正十二年(一九二三)に京都に向かった。
その後、国展が解散したことにより豊四郎先生は東京に拠点を移されて、最初の師匠である川端龍子先生が主催される青龍社に所属されて日本画家として活躍されるものの、土田麦僊先生との交流は続いたそうです。
この「第一回廊」で弊方としてたいへん印象に残ったのが「雪を描く男」でした。
堂本印象美術館で配布されていた展示作品リストには作品番号が振られておりませんでしたので、図録の作品番号リストを使わせて頂きますと、「雪を描く男」は図録作品番号7です。この作品は、豊四郎先生の自画像になるとのことでした。
繰り返しますが、豊四郎先生の作風は弊方の好みではなく、この「雪を描く男」も弊方の好みではないのですが、何と申し上げてよいか、ものすごく後を引く作品で、何度か後戻りして拝見してしまいました。
次の「第二回廊」では、豊四郎先生の作品は展示されておらず、土田麦僊先生からの書簡や川端龍子先生からの書簡が、わかりやすい翻刻とともに展示されておりました。
ここで弊方にとってたいへん衝撃的であったのが、川端龍子先生からの書簡でした。何とこの書簡、川端龍子先生から豊四郎先生宛の「破門状」でした。
「破門状」といえば全く穏やかではありません。何があったんや?! という感じなのですが、翻刻を拝見しつつ実際の文面と照らし合わせていると、内容的には、これって破門状??? みたいな感じでした。
破門状といえば、普通はもっと厳しい文言が並んでいるかと思うのですが、何と言いましょうか、川端龍子先生の気遣いが見える文面だと弊方思いました。その内容は本展図録にも掲載されております。
ちなみに麦僊先生の書簡も、翻刻を拝見しつつ実際の文面と照らし合わせて拝見しておりましたが、「土田麦僊に愛された日本画家」というのが、何かもぉめっちゃわかるやんかいさ! みたいな所感を弊方覚えました。
そして、次の上り坂の「第三回廊」では、川端龍子先生「破門状」よりも弊方にとっては強烈な展示がありました。
といっても豊四郎先生の作品そのものが展示されていたわけではなく、参考のパネル展示だったのですが、作品名「溶鉱炉」、秋田県立近代美術館蔵です。
実作品の1/2の大きさだったと記憶しているのですが、それでもたいがい強烈な作品でした。
「第三回廊」の前半は、この「溶鉱炉」に関係するスケッチ類が展示されていたのですが、それにしても弊方的には強烈極まりない作品でした。
この作品の参考パネルやスケッチ類を拝見して思い出したのが、作品としての関連性は全くないように思うのですが、かの偉大なる吉田博先生の「播磨造船所絵画群」でした。
弊方が「播磨造船所絵画群」を拝見したのは、兵庫県立美術館において2020年10月10日から12月27日まで開催されていた、2020年度コレクション展IIの小企画展「吉田博 播磨造船所絵画群」でした。
兵庫県立美術館ウェブサイトにアーカイブが残っておりますので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。
同アーカイブにありますように、この小企画展は、播磨造船所の後進であるJMUアムテック社とIHI相生事業所から兵庫県立博物館が作品の寄託を受けて開催されたものだそうです。この企画展では、寄託作品だけでなく、個人蔵や学校蔵の作品も展示されておりました。
ご参考までに、「吉田博 播磨造船所絵画群」のリーフレットや冊子等を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。
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大まかな経緯を「相生『吉田博展』その後-播磨における吉田博の足跡-」(吉田博展実行委員会編、(株)JMUアムテック・史料館発行、2019年)より、僭越ながら下記の通り引用させて頂きます。
平成29年(2017年)秋、兵庫県相生市のIHI相生事業所や造船部門子会社JMUアムテックの倉庫にひっそりと眠っていた、戦時中の造船風景を描いた十数点の油彩画が、風景画の鬼才と称された吉田博の作と特定された。それを帰に平成30年6月下旬、IHIとアムテック両社主催で「吉田博展」を開催した
この相生市での展覧会の後に、先ほどの写真の通り「相生『吉田博展』その後」という冊子が正続と発行されており、その後、兵庫県立美術館に寄託されたという経緯の模様です。
吉田博先生の「播磨造船所絵画群」は、いわゆる「戦争画」に該当するものと考えられ、それゆえに両社の「倉庫にひっそりと眠っていた」状況にならざるを得なかったのかもしれません。
この大発見以降、「播磨造船所絵画群」はかなり知られるようになったようなのですが、吉田博先生の展覧会図録や書籍には参考文献等に記載はあるものの、作品そのものの紹介はほとんどないような印象を弊方持っております。
一方、福田豊四郎先生の「溶鉱炉」は「戦争画」ではなく、豊四郎先生の故郷、小山町に因んで制作された作品とのことでした。僭越ながら本展図録から下記の通り引用させて頂きます。
豊四郎の実家は、鉱山の麓の商店街(尾樽部地区)で薬店を営んでいた。近代工業の象徴である大規模な溶鉱炉。しかし、大煙突から排出される有害ガスにより近隣農家は田畑を失い、周囲の山も樹々が枯れて禿山となり、殺風景だったという。近代的な鉱山施設と、それがもたらす自然破壊という現実を目の当たりにしながら、豊四郎は育ったのである。
昭和八年(一九三三)の第五回青龍展に出品した《溶鉱炉》(三五五・〇×二七八・〇cm、51頁)は、小坂鉱山を題材にしたもので、採掘された鉱石が溶鉱炉で金属となり、さらに有害ガスが排出される過程を画面に表現した。豊四郎にしか描けないリアルな作品である。
コラム③「小坂鉱山と《溶鉱炉》」第2段第8-25行
なんで弊方が、「溶鉱炉」の参考パネルを拝見して、吉田博先生の「播磨造船所絵画群」を思い出したのかというと、何と言いましょうか、例えば、やはり作品としての関連性は全くないと思うのですが、山下菊二先生の「あけぼの村物語」のような、強い「社会性」というか「メッセージ性」というか、そういうものを覚えることがなく、弊方が吉田博先生の「播磨造船所絵画群」を拝見したときに強く感じた、ある種の「客観性」を伴う「当事者性」みたいなものを、豊四郎先生の「溶鉱炉」の参考パネルを拝見したときに、唐突に思い出したという感じです。
なかなか言語化しにくいのですが、「溶鉱炉」も「播磨造船所絵画群」も、モチーフを「淡々」と、しかしながら「熱く」描いているような感覚を、弊方が勝手に一方的に思い込みで覚えた、いった感じでしょうか。よくわかりませんですね、たいへん申し訳ありません。
「吉田博 播磨造船所絵画群」に関しては、改めて何かの機会にぜひヲタトークさせて頂きたいのですが、本題に戻って、豊四郎先生の「溶鉱炉」は、代表作だと考えられるにも関わらず、インターネットで安直に検索しても、画像が検出されませんでした。
ぜひ、縦3.5m×横2.8m弱という大きな作品を実際に拝見してみたいのですが、秋田県立近代美術館でも常に展示されているわけではないでしょうから、どうしたらいいんでしょうね?!
さて、この「溶鉱炉」のスケッチ群に引き続いていたのが、豊四郎先生の画集「田園抄」の原画群でした。こちらも素晴らしかったのですが、すでに長いので今回は割愛させて頂きます。
「第三回廊」を経て2階の展示室に入りますと、豊四郎先生の大作群が、師匠の土田麦僊先生や川端龍子先生の大作、盟友でいらした吉田堅二先生の大作等とともに展示されておりました。
クドいようですが繰り返しますが、豊四郎先生の作品は、弊方の好みから外れるはずなのですが、これら大作を拝見して覚える激萌え感はいったいなんなんでしょうか?! という感じで、弊方よい意味で混乱してしまいました。
ちょっと気を落ち着かせるために、2階の展示室奥の階段から3階のサロンで印象先生の旧宅、遠方の山々などの景色を拝見させて頂きました。
その後2階におりて、再び大作群をガッツリ拝見させて、2階展示室の出入口から出て、ちょっとトイレをお借りして、階段を下りて1階に戻ると、先ほどの受付横の展示領域入口に再び到達します。
最初は展示領域入口の右に曲がりましたが、今度は左に曲がって廊下を渡って新館にお伺いしました。ちなみにこの廊下には印象先生の略歴や実績等が掲示されております。トイレもあります。
新館は本館に比べると小さいのですが、手前と奥に二つの展示室があります。手前の正面に入ってすぐ右手に展示されていた、図録作品番号18「愛」という、軽快な筆致で夫婦のニワトリさんが描かれた作品を拝見して、豊四郎先生、こういった感じのオシャレっぽい作品も描かれるんや、と思って、奥側の展示室の出入口右横の解説パネルを拝見して、驚いてしまいました。
同解説パネルには、豊四郎先生の代表作のひとつである「秋田のマリヤ」の図版が掲載されておりました。
おぉ! この作品、どっかで拝見したことある!!
未だに思い出せません。写真図版で拝見したことがあるのではなく、記憶の限りでは実際に拝見したという生々しい記憶があるのですが、どこで拝見したのか思い出せません。これでまたもや弊方混乱してしまいました。弊方、歳のせいなのか、思い違いなのでしょうか?!
混乱したまま、奥側の展示室の出入口左横の作品を見て、弊方、己のアホさ加減に愕然としてしまいました。
そこに展示されていたのは、図録作品番号17「落下傘」。まごうことなき「戦争画」です。それもかなり有名な作品です。
先日投稿させて頂きました、雑な飛報「「生誕140年記念 石崎光瑤」展(-2024.11.10)・京都文化博物館」でも触れさせて頂きましたが、国書刊行会発行の『戦争と美術 1937-1945』(針生一郎、椹木野衣、蔵屋美香、河田明久、平瀬礼太、大谷省吾編、2016改訂版)に思いっきり掲載されており、弊方、強く印象を受けていた作品でしたが、おっさん忘れてたというよりも、作品だけ認識して豊四郎先生をちゃんと認識してへんかったやないかいっっっ!!! たいへん申し訳ありません。
僭越ながら前回の投稿記事にリンクを張らせて頂きます。
弊方としては、図録や書籍に掲載される作品を、弊方の雑な写真として掲載させて頂くことはなるべく控えているのですが、引用の範疇に入るのではないかと思いまして、敢えて『戦争と美術 1937-1945』の第58ページ全体に大判で掲載されている「落下傘」を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。
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『戦争と美術 1937-1945』における、長嶋圭哉先生(当時、新潟県教育庁文化行政課主任)による「落下傘」の解説によれば、「落下傘部隊はいわば近代戦の花形であり、絵になり易いためか、好んで戦争画に取り上げられた」(同書第219ページ第4段第11-13行)そうです。
本展図録における「落下傘」の解説にも「豊四郎の友人でもある洋画家の宮本三郎も落下傘部隊を熱かった《海軍落下傘部隊メナド奇襲》を描いている。」(第40ページ第18-22行)とあります。この宮本三郎先生の作品も『戦争と美術 1937-1945』に掲載されており、長嶋圭哉先生の解説でも言及されております。
「戦争画」として、この「落下傘」を見たときに、本展図録では、「戦争記録画という目的のため、兵士の表情は写実的で、豊四郎がこれまで描いてきたような人物描写とは明らかに異なる。」(本展図録第40ページ第15-18行)とあります。
これに対して『戦争と美術 1937-1945』の解説では、「それら公式の「作戦記録画」が戦場全体をパノラマ的構図で捉え、落下傘作戦の様相なり効果なりを記録的に伝えているのに対し、豊四郎作品ではモチーフの限定、環境描写の排除、明快な画面構成、形態のデフォルメといった彼独自の傾向が貫かれ、肝心なはずの記録性はほとんど考慮されていない。」(同書第219ページ第4段第19-25行)とあります。
作品全体としてみたとき、やはり『戦争と美術 1937-1945』の解説にあるように、本作「落下傘」は「記録性」があまり考慮されていないと弊方も想うのですが、「丸顔で小さな芽と口を特徴とした表情を持たない人物が、豊四郎作品の典型となった。」(同展図録第35ページ第13-15行、図録作品番号13「南瓜と少年」解説より)ということを考慮すると、確かに本展図録の解説にあるとおり、本作「落下傘」の人物描写はかなり豊四郎先生作品としては異質な感じがします。
いずれにせよ、戦場全体を描かずに、斬新な構図で、これから降下しようとする空挺兵を絞り込んで描くことにより、『戦争と美術 1937-1945』の解説でも指摘されておりますように、空挺兵の強い緊張感がひしひしと伝わってくるような感じがしました。
同じ展示室ですぐ隣や近くに展示されていた、図録作品番号21「梅」、図録作品番号19「北京の屋根」、図録作品番号20「敦煌」といった作品の静的な描写との対比することで、「落下傘」の動的な描写がより強調されているようにも思えました(弊方私見)。
こんな状態で、大混乱しつつ、おのれのアホさ加減を反省しつつ、最後の新館奥側の展示室に入らせて頂いたところ、豊四郎先生「京都時代の集大成」とされる図録作品番号6「雪の一日」が展示されておりました。
この作品は、京都市立絵画専門学校の卒業制作として描かれた後に、国展に出品するため加筆された、豊四郎先生の故郷を主題とした作品でした。
いやぁ、最後にこの作品をもってきはりますか! 混乱した弊方の頭の中が、何やら非合理的ですが不合理ではない妙な納得感で落ち着いてしまいました。大取に相応しい作品だと弊方の印象に強く残りました。
その後、豊四郎先生のことが気になって安直にインターネットを検索したところ、検出できた範囲内ですが、過去には少なくとも次のような展覧会が開催されている模様でした。
○「福田豊四郎展 生誕百年 わがうたはふるさとのうた」 秋田県立美術館 2004.9.4-10.11 宮城県美術館 2004.11.2-12.19
○「Colors 豊四郎の色」 秋田県立近代美術館 2021.2.10-4.11
○「福田豊四郎展-描いても想っても尽きないふるさと」 三重県立美術館 2014.5.20-6.29
○「生誕110年 福田豊四郎展」 秋田県立近代美術館開館20周年 2014.11.30-2015.2.1
○「福田豊四郎生誕120年・堀文子没後5年企画 福田豊四郎と堀文子」 名都美術館 2024.4.5-6.9
・・・名都美術館で、よりにもよって今年開催されとるやないかいっ! 名都美術館の展覧会はチェックしておりましたが、先ほどのとおり豊四郎先生のことを全く認識していなかったので、お伺いする予定から外したんですわ。アホですわ~~~
しかも三重県立美術館でも2014年に開催されとったんかいっっ!! 図録の在庫が残ってんの?! どないしょう?! 欲しい?!
行きました、三重県立美術館!!!
こんな書き方をすると、図録目的だけでお伺いしたように思えますね。たいへん申し訳ありません。
本投稿の時点で絶賛開催中の「知っておきたい三重県の江戸絵画 蕭白 月僊 雪斎」展(2024年10月12日-12月1日)を拝覧させて頂くために三重県立美術館にお伺いした次第です。こちらも凄かったですので、飛報にするかだだ長いヲタトークにするか迷っております。もちろん「福田豊四郎展-描いても想っても尽きないふるさと」図録はゲットさせて頂きました。
今回、だだ長い割には写真が少ないですので、僭越ながら弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。
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最後に本展「モダニスト 福田豊四郎 秋田を描く」のおススメ作品はなんでっしゃろ? と問われましたならば、弊方、敢えて「第一回廊」で拝見させて頂いた自画像「雪を描く男」を挙げさせて頂きたいと思います。
弊方の勝手な一方的な思い込みの所感では、この作品で雪景色を描いた作品を背景に三角座り? をされている穏やかそうな、豊四郎先生の典型的な人物描写に沿って描かれた画人の先生が、何やら豊四郎先生の本質的な何かを表わしておられるように弊方思いました(弊方私見)。
だいぶん削りましたが、ものすごくヲタトークが長くなってしまいました。まぁ、飛報という弊方的には短めの記事も投稿させ始めて頂いておりますので、メリハリをつけるという言い訳で開き直りたいと思います。
最後まで閲覧頂きありがとうございました。