〈Awiの駄文〉客観的事実の伝え方を主観的に語る


はじめに


Awiです。
今回は、文章を書く時の客観性について、少し書いてみます。

でもねえ、イズムィコ先生の新刊読んだほうが為になると思うんですよね。

目次見てもなかなか良い本なんだろうと思います。私はまだ読んでないけど…
(3万円近くする事典が欲しくて緊縮財政中です…)

それでも一応は、自分なりの話を書いてみましょう。
でもね、面白いことは一つもない、ということをお伝えしておきます。
客観的事実を一生懸命書いても特に面白くないんです。それでも書きたい、または書く必要がある人に何か届けば幸いです。

私は完全に文系脳ですので、そこはご承知おきください。そして、文章はいつも勘で書くので、主観的にしかお伝えできません。
何言ってるのかわけのわからないタイトルになったのは、このためです。

主観と客観の違い

そもそも、主観と客観ってなんでしょうか?

私にとって、主観と客観の違いをものすごく簡単に言うと、こんな風です。
⚫︎主観…お気持ち。
⚫︎客観…データを集めてきてそれをまとめたもの、あるいは、データに基づいた自分の考えや意見。

もちろん、文章を書くのは人間ですから、どれだけ客観的に書いても、完全な客観性は有り得ないと私は考えています。
(AIが書いたもの、あれはどういうものになるかいまいちわからないのですが)
数値のデータであれば思想が入らない冷徹なものですが、それを文章に表したときには書き手の何らかの考えまたは思想が入ってくるものです。

例として。
⚫︎あそこのお店のカレーパンは美味しいよ、というのは主観的。
⚫︎あそこのお店のカレーパンは毎日1000個以上売れていて人気だよ、というのはその情報が正しければ客観的。

この違いがわかると、客観的事実の伝え方が少し見えてくるのではないかなと思います。

情報(データ)を集める

主観と客観の区別ができるようになった上で、客観的事実を伝えたければ、まずは情報を調べなければならない、ということです。誰かに何かを伝えたいときに、元になる情報がなければ客観性は担保されません。

この一年、私はこのnoteで文章を書いてきましたが、実際のところ書くよりも情報集めに時間と手間がかかりました。情報を集める作業は上手な文章を書くよりもずっと大事なことです。

私はROLESに関わる外務省補助金事業、そして東大がどのように研究費を扱うのかを調べたので、これについては自分のiPadさえあれば今でもすぐ出せるようになっています。
実生活で使ったことは一度もありませんが。

こんな感じ。

リンク開いた先の情報を全部読みました。
書く前に土台となる必要な情報を丁寧に調べる、というのが最初の作業です。

そして、私が文章を書くに際し、前提として外務省と東大の発表データについては完全に信頼することにしました。それぞれが出している情報に整合性もありましたし。
情報の信頼性、この判断は難しいものになるとは思いますが、私の場合は外務省と東大という信頼性の高い機関から出された情報が元だったので特に不安はありませんでした。

政府と国立大が示し合わせて不正をしているなどと疑うこともできますが、そうなるとキリがなく、やがて陰謀論にたどり着くことになってしまいます。

ところで日本政府を疑っている人は、造幣局が発行している通貨も信用してないんだろうか(ちょっとした疑問)。

文章にしていくときの落とし穴

調べたあとは、文章を書いていきます。これは、なんというか感覚なので…これだけ調べたから多分書けそうだ、と思ったら書いていくだけなんですよね。
(全く伝わらないことを書いている自覚がありますがどうしようもない)

ここで、落とし穴について。

落とし穴というのは、主観と客観が混ざった文章は、客観的事実ではなくなると言うことです。

主観と客観が混ざったものの例えを挙げてみると、NHK大河ドラマとか歴史小説かな(完全に主観)。

歴史的事実とストーリーの整合性について、この時代にこんなことはあり得ない!とか、いやドラマだから良いじゃないか、などという論争がTwitter (SNS)で歴史マニアや研究者を巻き込んで起きているのを見たことがある人もいるかと思いますが、それはどうして起こるかというと、客観と主観が混ざっている作品だからです。

大河ドラマには時代考証に歴史の専門家が入ります。しかし専門家がついているからと言って完全に歴史的事実として認められた一次資料(客観的事実)だけで物語を作るのは不可能です。例えば主人公が世の中で名を上げるまで、あるいは出世した後でも、一定の期間においての一次史料が何も残っていない場合があります。だからといって「一次史料がないからその部分を完全に飛ばします」ということになると、主人公の人生がぶつ切りになってしまって、繋がりのない物語になってしまうでしょう。また、主人公がどういう性格でどんな思いを持って生きたのかは脚本家の力で埋めていくしかありません。ここは主観で表現していくところになります。
歴史の学術研究において、一つの事件について、起きたことは事実としてわかっていても、その事件を起こした人物の真意はいまだに謎ということもよくあります。そこをどうやって描くかは、脚本家、そして演じ手である俳優によっても大きく変わる部分ですね。

だから歴史的事実は変わらないのに、大河や時代小説には色んなタイプの信長や秀吉が存在できるのです。脚本家や作家の匙加減で人物像が変わる。
そして、それこそが「歴史物」の面白さなのかもしれません。

…何故ここでこんな話を一生懸命してるのか自分でも謎ですが、客観と主観を混ぜると、リアリティが増して筋道のある物語となり、より人の心を掴める話になるということをわかっていただけると幸いです。

そしてこれは、悪い方法にも使えます。自分が描きたい物語(主観)を、客観的事実を混ぜることで信憑性を高めて伝えると、他者から信頼を得やすくなります。
陰謀論は、よくこの手法で流布されますね。主観と客観が混ざった文章は自分の望む結論ありきの文章が作れて便利なのです。

けれど、先に申し上げた通り、これは人の心を掴むものであろうとも、客観的事実として信頼されるものにはなりません。

客観性を守るために心掛けていること

以上を踏まえ、客観性のあるものを書くにはどうするか。

簡単に言えば、自分の考え、もしくは気持ち、つまり主観であることは分ける、あるいはその部分は主観であるとはっきり伝えるだけです。
わからないことはわからないと書く。うやむやにしない、誤魔化さない。
それでしか客観性は保てないと私は考えています。

一例として、自分の記事ですが、こんなふうに書きました。

…とまあ、かなりふざけた文章の混ざる検証だったのですけども…褒められてしまった。

(嬉しかったですよそれはもう…)

おわりに

客観的事実の伝え方については、それがわかりにくいからこそ丁寧に情報を示さなければいけないし、文章書いたからって簡単に理解されないことも多く、そして、何度も言いますが、基本的に面白くないです。書くメリットは…わかんないな(おい)。

補助金は不正に使われていませんよって説明で心が揺さぶられたりしませんよね。それに比べたら陰謀論ってドキドキしませんか?
(不安という意味でドキドキするんだけど)

私は先生の正しさを証明したかっただけなので、面白いとかそういうことはどうでも良かったのです。推し活の一環として書いたわけですね。
公金ガー利権ガーなどと先生を罵倒していた人達に、私の検証記事が理解できたのか、そもそもあの長文を読み切ることができたのかもわかりませんし、期待はしていませんでした。

それでも、補助金の仕組みや不正ができないシステムになっていることについて、読んでくださった方々、そして検証内容を理解してくださった方々がいたのは幸いなことだったと思っています。

私から言えることは以上です。

…この記事、誰かの役に立つんだろうかという不安を抱えたまま、この話はここで終わります。
ありがとうございました。


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Awi (藍)
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