
おごり
秒針が時を刻む音を、何故か深刻に捉えている。
……なんて陳腐な表現は使えない。あまりにもありきたりだ。
そんな心持ちじゃない。
私はただ待っている。
とてもお気楽に。
予約されたレストランは瀟洒で、普段の私からは想像もつかない所だ。
相手方は何を企んでいる?
カランと音がした。
照明は暗く保たれ、一定のムードを孕んだ空間だ。
革靴の足音が響く。
扉の閉まる音。
絨毯を一歩一歩確かに踏んでいく。
目の前に姿が現れる。
「お待たせ」
その挨拶は予想していなかった。お前ならもっと小難しいことを冒頭からぶっ放すだろ。
「いや、そうでもない。自分の心に聞いてみるんだな」
とか何とか。
彼は席に着く。相対する。
厨房から漂う馥郁たる香りに、私の腹はそれを待つ。
「よせって」
何が?
「今調べたろ」
何をだよ。
「ふくいく」
すぐ見透かすんだ。いつも、こいつは。
「しょうがないだろ、お前と俺なんだからさ」
それもそうか仕方ない。
だが、何故調べちゃいけない?
「学を衒ってんの、それ」
まあ、そうとも言えるな。
「認めろよ」
精進しよう。
彼は溜め息をついた。
「ところでメニューは決まったの?」
口の片端を上げ、
もうとっくに。なんならお前の分も既に注文済みだぜ。
「それは有り難いな」
どうして?
「お前に外れはないの」
ハハ、よくいう。信頼が重い。
だがこちらも同じ度量でいる。
グラスに注がれる液体が、段々とピッチを上げていく。
テーブルとの軽い衝突音。
それで今日はどういった要件で?
「あーその前に、それ読みづらくないか?」
何が。
「とぼけなくていい」
括弧がないこと?
「そうそれ」
ある効果を狙ってる。
黙ってニヤニヤとし始める彼。目論見を理解したらしい。
「今日は相談だな」
それが要件か。何だ珍しい。
「お前の為だ」
そういうやつは大体、自分の為だ。相手は少なくとも第二。
「ここではその論理は通用しない」
そうだったな。そうかもな。
間もなく運ばれてきたのは、カルボナーラとボロネーゼ。小皿にはサラダが盛られている。
「喋りながら食べよう、時間ならいくらでもある」
いや、食べながら喋ろう。こっちには時間がない。
「錯覚さ」
どうかな。
カトラリーの擦れる音。両手に持つ非対称。
「悩みがあるんだ」
柄にもない。
「まあ聞け。実存が怪しい」
蛋白質が嗅覚膜を刺激する。降りかかった香辛料を纏っている。
向こうからは微かに卵黄の。
「存在証明に奔走するなんてのは誰も十四で終えてるだろうが、俺はその延長線で佇んでるんだ」
みんなそんなものだよ。
「クオリアは共有出来ない」
経験則さ。
「それが不可能だって」
静かに啜る。
それで、何が当面の問題?
「生き方を見失ってる」
凡庸な悩みだ。
「普遍的な悩みだよ」
素直に生きたらいい。自分のやりたいことを優先するんだ。
そうすりゃノープロブレムだろう?
Eh?
「つけているね」
格好を?
「格好を」
そんな区切り方は存在しない。
「自分で言うか」
自分で言うしかないだろ。
「天丼だな。これ以上繰り返すとつまらんコントだよ」
西洋風のレストランで、和食を出すのは雰囲気に合っていない。反しているよ。全面的に。
「その洋画風の喋りはなんだ。気に入ってんのか? マイブームか?」
マイブームだよ。
「いいね」
いいんだな、と夙に思う。
「その『つとに』は誤用か?」
どちらかというと正用だな。
「そんな言葉はない」
だな。
「だろ?」
皿は既に半分白くなったが、話題はというとそうもいかない。
「孤独なんだよ」
そうは見えない。
「そう努めてるからね。寂しいなんて言っても無駄なんだ」
へえ。
「興味が無さそうだね」
ないな。
「酷いよ。お前も有象無象の一人か」
誰に言ってる?
「お前だ」
自分だろ?
彼は笑った。声を押し殺して。
数瞬後、
「いいね。その冗句はいいな。とっても」
また摩擦音がフッと聞こえる。
ドリンクに手を付ける。
フルーティーな香りが鼻の奥にも届く。
天丼は嫌いとか言ってなかったか?
「ああ、海老が苦手でね……」
料理の話じゃない。
「分かってるよ。ああ、分かってる」
閑話休題だ。
孤独ってのは具体的にどういうことだ。
「誰ともわかり合えない。誰にも伝わらないってこと、かな……。自信はない」
それはお前の言い訳なんじゃないか?
「努力不足って?」
それもそうだが、相手に寄り添う気持ちが足りないだろ。結局は。
「俺にも出来るぜ。察するってのは、ある程度ね」
でも?
「でも疲れるんだ。なら察しない方がいい」
疲れるって言ってもちょっとだろ。
「魂がすり減る感覚だ。精神を削る感覚だ」
誇大広告を打ってんのか?
「割と本気だよ」
皿面上には素人のサンドアートが残っている。
そこで他者とは距離を置こうってか。
「そうそう。競合他者とね」
最高につまらないスパイスだね。
「光栄だ。ところで問題がある」
何だ、また改まって。
「金をどうする」
そこに銀行があるね?
「ここはクライム小説じゃない」
SF小説でもない。
「そう。だから突飛なことは出来ないよ」
メタだね〜。
「実験小説だからな」
世の実験小説に失礼千万じゃないか。
「世界は大概そうして成り立っている」
まあな。
ウェイターが通る。
「人と関わらずに金を得る方法はないんだよ」
殺しをしようって?
「ミステリーでもサスペンスでもない」
人となるべく触れずに、金を得たいか……。
解なしってところか。
「そう、矛盾してる。こういうときは根本を見直そう」
何を見直すの。
「誰ともわかり合えないって部分だな」
原理じゃなかったか?
「曖昧な定理さ。今一度見直そう。」
話を要約するに、役不足という感じか。
「深刻なアンダーフローさ」
贅沢な悩みだ。
「悩みを相対化すると本来の目標を見失うぞ」
そうだな。
シャキシャキと鳴る。ドレッシングが旨味を加える。
「サラダは先に食えよ」
物語にケチをつけるな。
「これとそれとは違う。話を逸らさないでくれ」
じゃあ、お金のことだな。
続きをどうぞ。
「立場のある人に気に入ってもらうことだ」
結局人か?
「まあな。だが少し待ってくれよ」
ああ、待つさ。
「距離は取る。そういう人にだな」
また他責かい?
「違うって」
違わないよ。
「何度もトライすんのさ」
七面倒だ。相手方にも。
「違う。色んな人にさ」
社会から追放されたいのか?
「それも違うが、穏便にいくつもりだよ」
今だって剣呑な雰囲気だぜ?
「自己嫌悪か? おいおい」
またそれだ。
「少し話題を変えよう。小説などには伏線があるが、どう思う」
どうも思わん。
「悪態つくな」
正直な気持ちだ。
伏線がなくとも面白い小説はごまんとある。
「百冊も読んでないだろ?」
まあな。
「故意に設定された伏線は?」
狙いすぎてる。
「だな。でもそれが本題ならどうだ」
まあいいんじゃないか。
突如ガラスの割れる音。
ウェイターの一人が落としたらしい。
「新人かな」
少なくとも飲食店には慣れてるはずだよ。
「どうして?」
足音に適度な重さがあった。
「なるほどね。さっき通った時か」
現実はそれぞれの要素が密接に関連しているんだ。音と感情とか。
「ここでは経験も含まれるね」
うん。間違いない。
だから彼はたまたま不幸だっただけ。
「別の悩みを思い出したよ」
いいよ、聞こう。
「無意味を有意味が覆ってると思うんだ」
うーん、つまり中心に意味はないと?
「そう。あらゆるものがそう。直観してる」
じゃあこの会話も、
「意味はない」
とんだ皮肉だね。
「アイロニーってこと?」
うわ、それ面白いな。
「お褒めに預かり光栄です」
またそのギャグか。いい加減にしてくれ。
「気に入ってるだろ」
押し黙る。
「沈黙は雄弁だと思うけど」
金であり銀でもあるってか。
「そこは黙るとこだ」
沈黙。
「そこは謝るところだ」
すまない。つい面白くて。
「いいよ。芸術も笑いも常識の破壊に始まる」
いうほど崩れてないが。
「しかし、無意味が核とは知らなんだなあ……」
人間的な認識かも知れんぜ。
「そうか?」
もしかしたら。
流行のポップではない、ムードを醸し出す曲が薄く空間に広がっている。
お前は驕り高ぶってる。
「なあ、論理が破綻してるとか飛躍してるとかよく言われない?」
言われる。
「一応その論理とやらを聞こうか」
お前は誰よりもよくできると信じてる。
「うん」
でも実際はそうでもない。誰にでもできることができない。
「うん」
その自己矛盾を解決できずにいる。
「うん」
結果、拗れてる。
「うん」
異論は?
「異論ばかりだ」
ほほう。
「まず第一に人より優れているのは正しい。一面だけならね。
次に人より劣っているというのも正しい。一面だけなら。
どちらも同一だと思うから矛盾していると思い込む。それだけ」
それは誰に向けた言葉だ?
「画面の前にいるお方です。そう、あなた」
第四の壁を越えようとしてる?
「六次の隔たりで繋がろうとしてる」
説教おじさんか。
「説教もおじさんもしていない」
なら虚無だ。
「」
何か言えよ。
「虚無を演じてみたのさ」
外の景色は代わり映えしない。
「夜だからね」
情景描写に差し挟まないでくれ。
「心理描写だと思ったんだ」
じゃあもういいよ。金の話しようぜ。
「がめつい」
違うよ。
「さっきの続きね。アンダーフローと人間関係と職の問題を一挙に解決できるよ」
それは是非聞きたいな。
「話しても短くなる」
そんな文言初めて聞いた。
「作品を作って売れ」
それだけ?
「そうだ。シンプルだろ?」
またありきたりな……。
「長年続いてきた解決策だからだろ」
確かに。
細かい理由を聞かせてくれよDJ。
「俺はジョッキーじゃない」
まあまあ。
「まずアンダーフローだが、自分の作品なら好き勝手できる」
でも上手く表現できないってこともあるじゃない?
「それは数をこなせばいいよ」
作品が好まれなかったら?
売れないじゃないか。
「それはね、二つ作る。自分を出し切ったものと、大衆迎合的なものとを」
なるほど。
でも人と関わるってのはどうすんのさ。作品は無差別に評価される。
「売る方は好みを把握するため気にしてもいい。でも深入りするな」
売らない方は?
「自分が満足すればそれでいい。まあ、自分が好きに作ったものが売れたなら最高だがな」
どうしてそれが成り立つ?
「作品は作者と消費者との間に入る。作品が理解されなくとも次を作ればいい。重要なのは後に引かないこと。
よく作者と作品を混同してる人もいるが」
これで全部解決か。あっけない。
「そうだな」
でも孤独だって言ってたじゃないか。それはどうする。
「孤独は他者の存在を前提にしている。好きに作品を作れるなら問題ない」
社会活動をする気がないんだね。
「不適合なのは社会の方さ」
でも私と話しているのはどういうことなんだ。
「自己で完結してるよ」
……話が見えないな。
「俺とお前は同一人物だ」
思わず席を立った。机がガシャンと音を鳴らす。
数秒で落ち着いてすぐ座った。
「そうだった、そうだった。でも何だか夢を見てるみたいな感覚だ」
『そうだろうね。でも想像と夢とは似ているものだよ』
でもこれは、なんだろうな。想像している……のか?
「辻褄が合わなくても思考は進むんだ。論理は後からついてくる」
『不自然なのはそういうことか。これはまともな小説じゃないんだね」
そういうつもりで書いてはいないけど。』
野菜を切り刻む小気味よい音が聞こえる。
やけに聴覚的描写が多いと思ったんだ。
これはつまり、現実に寄せようとする行為だね。
だね。思考をよくよく考えるための舞台設定だ。夢と想像とは同じ。夢で無意識に匂いを感じたことはないだろう。
物理感覚を与えたかった。
「でもこれは、狙いすぎてる」
些か臭いな。
「比喩か」
比喩だね。
「そろそろ店を出ようか。一通り話したから」
「ところで新しい音の表現を思いついた」
会計に並ぶ。
「ドアが聞こえるってのはどう?」
分かりづらいな。
「そうか?」
赤が見えるとは言うけど、それは赤が色だと限定されているからだ。ドアは複数の要素で構成されているよ。それに……
「まあ細かいことは気にするな。村上春樹を読むって言うじゃないか」
3D走査されてるのかもしれないよ。
「データをか」
ハハハと彼は笑う。いや、自分か。
「今日のところは奢るよ」
自分に奢ってどうする。それはただ払っただけだ。
「そうだ、その通りだ」
そういえばちゃんと話してない話題もあるじゃないか。
「思考ってのは机を散らかす行為だよ」
彼はドアを開けたが、外に景色はなかった。
「必要なのはこのレストラン内の描写だけだ。夜と勘違いしてたみたいだけどね」
お前が勝手に言っただけだ。
穏やかな笑みを返す。
「奢りだ」
でも自分だって……。
彼は振り返って言う。
「そう、自己で完結するうちは外に影響がない。物理でも習ったろ?」
そうか、驕りもなにも自分の中で済ませてしまえばいいのか。
自分の内側で。
また会おうと言うつもりが、彼はいつの間にかいなくなっていた。
ドアも聞こえなかった。
レストランは暗転した。
残ったのは会話とその結論だけ。
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