
【短編小説】変態
人生にタイトルなんて必要なかった。
自分の感傷に沈んで籠もる人間ほど見苦しい生き物はいない。ふだんそういうたぐいの人間は日陰、と呼ぶべき教室の隅っこやレンタルビデオ屋の奥の方でうごめいていて得体が知れず、心底気持ち悪いと思っていた。本を買おうと入った書店併設のビデオ屋でときおりそれらのでっぷりした後ろ姿を見ることがある。私はそのたび決まって父親を思い出した。顔を見たこともないけれど、そういう、しょうもない生き方をして死んでいく男なのだろうという確固とした人間像を母の思い出話から形成していた。
ところで、私はよく小説を読んだ。理由はわからない。好きなものを好きであることに理由はないのに、嫌いなものを嫌いな理由はとめどなく語れるものだ。とにかく、他に趣味もない私は活字にのめり込んでいった。かといって小説を読む以外の過ごし方を知らないわけではなかった。カラオケで友人と過ごすジャンクな時間も好きだし、オシャレをして駅前をぶらつくのも好きだった。ナンパだけは許せないけど、私は大抵の低俗さを愛せる人間だと思う。高校のみんなを子供だと思うこともあったけれど、それは相手を見下す理由にならない。ただ子供っぽいという属性を持っているというだけだ。評価は自分の価値観と責任に基づいて下すべきで、レッテルに画一的な評価が存在しているわけではない。
その証拠に、私が読書好きだということを信じない人もたくさんいた。雑誌モデルと芥川賞作家に同じくらい憧れている女子高生に貼れる便利なレッテルは世に流通していないらしかった。まあ、別にそれはいいんだけど、それまで仲良くしてたのに趣味を話すと途端に壁を一枚厚くする人もいた。私に貼るレッテルをみんな探しているみたいで、とても窮屈だ。わたし、や、あなた、を一言で表す的確な言葉があるなら私たちには面接もデートもいらないだろうに。
そういえば、小説にはタイトルが付けられている。
何気なく手にした小説の背表紙に印字されたそれを見て私は愕然とした。同時に、小説家というこれまで憧れていた生き方に嫌悪感が芽生える瞬間があった。
自身の記憶に色付けし、あることないことを書き連ねて虚構の世界を創り出し勝手に他人の心を振り乱す変態ども。あいつら、自分の妄想に名前をつけて大切に背表紙撫でてやがるんだ、キモッ。
でっぷりとした父の姿と小説がシンクロしたみたいに思えた。タピオカの調理前の姿を見たときみたいに足元が崩れ落ちる感覚を覚えた。
こう見えて私も小説を書いている。文芸部所属なので、趣味でなく部活動として書くこともある。でも、おしなべて私の作品にタイトルはなかった。なんだか気持ち悪くて、あっち側へ行ってしまうようで、気が乗らなかった。
私にとって、私が書いた小説の重みなんてたかが知れている。あとで珈琲を片手に自分で小説を読み返したとき、『ああ、こんな気持ちの日もあったな』とか、『古びたランプの灯りからそこまで妄想したのか、自分って本当に気持ち悪い』みたいな感想を浮かべられればよかったから、小説にタイトルなんて必要なくて、書き上げた順番ごとにイチバン、ニバン、と囚人よろしく番号を振って管理していた。
だから今、十七年の生涯で五本の指に入るほど私は困っている。服屋で話しかけられるのと同じ小っ恥ずかしさに耐えつつ、懇願するように声をひねり出した。
「なんかそれっぽいのでいい?」
『どうでもよくない?』を溶かして当たり障りのない型に流し込み、冷やして固めた言葉を受けて、かよちんはため息を吐いた。古い洋画のようなジェスチャーをしながら返事をよこす。
「いちおう聞くけど、どんなのを?」
「『無題のドキュメント』とか」
「却下」
「ええー」
真面目にやってよ、とかよちんは私を睨んだ。いつものおっとりした雰囲気を消し去り、鬼教官然りといった態度でふんぞり返った(つもりで)突っ立っている。
机に座り文芸コンクールに送る作品のタイトルを思案する私と、それを見張るかよちん……という構図だが、彼女の見た目は鬼教官と言うにはあまりに頼りなさげで、いいとこ家庭教師だ。偉そうな態度をとるのに不慣れなかよちんの華奢な手は寄る辺なく彷徨い、腰のあたりで微妙なポジションチェンジを繰り返している。それでも頑張って表情だけは堅苦しさをキープしているのが愛らしくて、手元に広げられた自分の小説よりもかよちんに気が向いてしまう。小指の爪先が流れ星のようにか細い軌道を描いたり、拳全体が猫の寝返りみたいにまるっこく動くさまをまじまじと眺めていると、かよちんが何度目かの催促をした。
「ねぇ、真面目に考えてるの? 小説家になるための第一歩なんだよ? 賞獲る気、ある?」
「んーん。全然」
この返答は本心だった。賞を取れるなんてハナから思っていない。私は、自分の力量を見誤らない。自分に贔屓目なしで冷徹な眼差しを向けることは、ときに自分すら傷つける。けれど、その傷は世界が私に下す平等な審判の傷だ。世界に対して誠実に向き合えるぶん、傷だらけの方がマシだと思う私は、私に忖度しない。
かよちんは文芸部部長だけどケータイ小説しか読まない。それでもコンクールに応募して賞が取れると本気で信じて疑わない。そういう人がいるのも事実だし、私もケータイ小説で泣いたことがないわけじゃない。かよちんの小説はすべて読んだけれど、私の涙腺が一ミリでも動く作品はなかった。彼女の作品からにじみ出る幼稚な自己中心性と、親から注がれる無償の愛への揺るがぬ信頼は、私の心を逆撫でた。自己愛の盾はこの厳しい世界から身を守るうえで最強の盾であると同時に、文学的な美しさを損なわせる。かよちんは盾に守られていることにすら無自覚だった。だから私に小説を読ませようと思えるのだろう。
自分の力量を捻じ曲げて身の丈を超えた夢をみられる厚顔無恥な精神は、幼い頃『将来の夢』という名前で手渡された気がする。七夕や誕生日に無理やり書かされる『将来の夢』に、私はいつも困惑していた。迷わず"野球選手"や"パイロット"や"ケーキ屋さん"とペンを走らせるクラスメイトの笑顔を見たとき、私は孤独のしっぽに首を締められる感覚を知った。なぜ私は夢が書けなくて、みんなは書けるのか、何が違うのか、何度自問しても分からなかった。空白の『将来』に、私は教師ウケのよい文字を詰め込むようになって、覚えている限り私がそこに最後に詰めた言葉は『小説家』の三文字だった。
もちろん、詰めこんだだけで本気でなれるとは思っていなかった。
いま、もしあの頃に戻れるとしたら、途方にくれる幼い私に盾を贈るだろう。現実と折り合いをつけなくてもいい、正しい少年期を送らせてあげたかった。そうすれば、今悩んでいる小説のタイトルだって、きっとすんなり書けたはずなのに。
なんだかバカらしくなって、机の上にペンを放り投げて天井を眺めた。そういえばこの模様、なんか名前がついていたっけ。ドクターマーチンみたいな名前。なんだっけ。分かんない。どうでもいいことばかり。背もたれの本懐を遂げさせてやるため全体重を椅子に預けて力を抜いた。さかさまの世界でかよちんが私を覗き込んだ。私はぽんぽん、と自分の太ももを叩いてかよちんの瞳に問いかける。
「それよりさぁ、ずっと立ってるの疲れない? ほら、ここ、座れば?」
かよちんはまだ常識と理性の皮を被っているから『真面目にやって』と毒にも薬にもならない返しをよこした。
今度はほんの少しだけスカートの丈をめくって、また、同じ言葉で誘う。とうとうかよちんは耳を真っ赤に染めて、声を荒げた。
「座らないよ、なにバカ言ってんの、この、バカ」
「バカじゃありません、訂正してください」
「うっさいジゴロ! たらし! 淫乱!」
流石に最後のはおかしいでしょ、と私が反論する。
かよちんは、淫乱だよ、ともう一度ほざいた。
その、蚊の鳴くような声でぽそぽそ喋る純朴な姿が無性に私をイラつかせる。悪者は私だけかよ、ととぐろを巻いた蛇が首をもたげるように、ゆっくり足に力を入れて立ち上がる。
とたんに生まれる身長差。背筋を伸ばして立てば、かよちんの綺麗なつむじが目に入る。家庭教師と生徒から一転して、蛇と蛙のような構図。目を逸らさずにいると、かよちんはぷいっと目を逸した。
目線が変わったからか、かよちんはさっきまでの豪胆さをみるみるしぼませていった。怯えるアフリカオオコノハズクにも似たこの姿こそが、かよちんだ。それでいい。強者と敗者、蛇と蛙、私と、かよちん。
春のたんぽぽみたいに細くしなやかな指が五本も生えた、贅沢な左手に目を移す。この手は何のために美しく生えているのだろう。そんなことを考える必要もなく、かよちんはそこに存在していた。
私の右手がかよちんの左手に触れる。ぴくりと体を震わせながらも、かよちんはそのまま動かなかった。手の甲をゆっくりとなぞり上げて、手首まで行ったら指を止める。そのまま手のひらで包み込むようにかよちんの左手を握った。初めは優しく、けれど次第に力を込めていく。白くきめ細かいかよちんの肌が雑巾みたいにたるんで醜く歪む。かよちんの表情に苦痛の色が浮かんだ。私は左手に込める力をさらに強めた。
高麗人参のようにしなやかなかよちんの人差し指と小指が内側に折れ曲がり、完全に左手が私のものに。かよちんは息を乱し、目を閉じ恍惚な表情を浮かべている。何を考えているのだろう。このまま握りつぶしたら、彼女はどんな顔をするのだろうか。この左手はいつか高級フレンチレストランでプロポーズを受ける夜に、美しくフォークを持っておくための左手。指輪が美しくはまるための薬指。この左手は世界の寵愛を受けるために美しくあるのだ。けど、大丈夫。そんなものはなくたって、大丈夫。フォークやナイフより太く、長く、けれどソーセージより少し細いそれを、ほんの少し、握り込めるだけの握力。それさえあれば、私達は、生きていけるのだから。
「いっ、いたい……っ」
「……」
ぱっ、と手を離す。反射的に。蛇と蛙は幼馴染の友人同士に変わる。
かよちんは安堵と失望が入り混じったような表情で私を見ていた。瞳は切なそうに潤み、なんだかクラクラする。清流で何百年も磨かれた透き通る翡翠みたいに、誰の手垢もついていないかよちんの瞳が私を捉えて離さない。
『綺麗な瞳は綺麗な世界しか映さない。世界が汚く見えるときは世界じゃなく自分の瞳を疑え』なんて先生に教わった気がするけれど、その理屈の前では私はいいとこ油汚れがべったりこびりついた団地の換気扇といったところか。私の瞳に映る世界を一瞬でも彼女の瞳に映したらどうなるのだろう。メダカやイワナなどは水が濁れば死ぬらしいけれど、かよちんは視界が濁ると死んでしまうのかな。
私が、親友である自分の手を握りつぶそうと本気で考えているなんて微塵も思わない、可愛いかよちん。世界の寵愛を一心に受けていると、周りの誰もがそうであると信じて疑わないかよちんの耳元に囁いてあげる。
「今度は逆の手、ね」
彼女はアツアツのトーストに乗せられたバターみたいにとろけて、小さくこくりと頷き私に身を預けた。ふわりと鼻孔をくすぐるシャンプーの香りは独特で、柑橘や石鹸が幾重にも入り混じった清廉な匂いがした。
先ほどと同じように、逆側の手を掴む。初めは優しく触れて撫でてやる。次第に、ゆっくりと、力を強める。
バターはアハ体験をもたらしてくれる。熱したフライパンの上に乗せるとすぐに黄色い油に変わってしまうけれど、じゃあどこまでがバターでどこからが油なのかは誰にもわからなくなる。そもそも冷蔵庫から出た時点で少しベタついているから、初めからバターであり、初めから油だと言える。
かよちんはいつのまにか溶けてなくなってしまっていた。いま、私の肩に顎を乗せて息を荒くしているのはかよちんではない。油だ。ベタベタにこびりついて取れない、油まみれの自己愛と羞恥心の殻に閉じこもって性愛の悦びだけを貪る怪物だ。
私はそれを告げない。教えてやらない。優しく誠実な私は"ちょっとだけおかしな女友達"としての役割を外れない。内股気味でもじもじしている彼女を引き剥がして、口角の上がった仮面をつけて対面する。そこにはもうさっきまでのおままごとの空気はない。
わざと明るい声で、なんでもない風を装って「痛かった?」と尋ねる。これがおままごとの終わりの合図だ。
かよちんは惚けていたけど、すぐに理性を取り戻した。
「痛いよ。本当、なんなのサツキって、変態なの?」
どっちが、と言いかけて飲み込む。彼女なりの防衛線なのだ、これは。自分が普通でいるために彼女の理性が下した決断は、すべてを私のせいにしてしまうことだったらしい。
人の理性は、心の奥にある欲望や理想を守るために、周囲を傷つけることもいとわない。例えその相手が、自分の望む刺激を与えてくれる存在であっても、理性は異常な自分を許さない。彼女は理性の重しを外せないまま、不満の海で溺れ死ぬのだろう。
「はは。ちょっとお花摘んできていい?」
「変態のくせに綺麗な言い回しだけはたくさん知ってるんだから……いいよ、もう」
「帰ってくるまでにはタイトル考えとくから、さ」
「え……、ああ、タイトルね、タイトル。うん、そうだよ。ちゃんと頼むよ」
ほいほい、と背中で返事を返し彼女の部屋を出ると、肺の中の空気を全て出し切るつもりで大きな深呼吸をした。
変態、か。
変態とはそもそも生物が生きている間に姿や身体機能を変化させることをあらわす言葉だ。はじめはおかしな性癖を持つ人に向けられた言葉じゃなかったし、なんなら性癖という言葉だって、性的な興奮をそそる対象を指すものじゃなかった。面白いことに、むしろ言葉が生き物のように変態している。
生き物はどこまでいっても生き物だ。欲望の前では簡単に己を失う。自然なことだというのに、それを恥ずべきことだと思っている。そこまで綺麗でいたいのならば、低俗な自分を恥じたまま、淡い期待と欲望にまみれた湿っぽい部屋でおままごとを続けていればいいのに。
どうしても我慢ができなくなったら部屋を出ればいい。そこで私たちは屈強な門番に出会うのだ。そいつは恥と論理を武器に、私たちの生き物としての悦びを断罪する。羞恥の雨を浴びせられ、阿呆の烙印を押されて、命からがら外に抜け出ると、そこには色がある。善の白と悪の黒だけだったこれまでのモノクロの世界では見えなかった、自由という彩りがある。
そうしたら、同じように外に出てきた人と顔を合わせて挨拶をして、テーブルマナーに則ってピカピカのナイフやフォークを手に食事なんかを楽しんで、映画や小説の話をしてお互いの哲学に触れたりしてみればいい。
私はその一連の流れも余興じみて見えるし、おままごとだと思う。だとしても、さっきのかよちんみたいに歪な欲望の解放をされるよりマシだ。
モノクロの世界に色を持ち込もうとするのは無粋で、なによりルール違反だ。モノクロが嫌なら部屋を出て、門番を超え、彩りのある世界に飛び込むしかないのに。
トイレは安っぽい芳香剤の香りで満たされている。作り物の香りであることを隠そうともしない芳香剤の正直さに好感が持てた。それに比べてかよちんは、ああ、気持ちが悪い。
私と、彼女。一体全体変態はどちらなのだろう。
人間はもともと生殖のために性交をする生き物だし、見渡せばあらゆる生き物は性交をしている。
何もおかしなことはないのに、かよちんはそれをなにより低俗で恥ずかしいことだと信じている。モノクロの善悪を決して疑わないのは、そう教わってきたからか。
かよちんの欲望は破裂寸前、いや、もう決壊してしまったダムと呼ぶ方が正しい。私のような男の代替品を使い、あくまで私は被害者で、向こうが加害者ですといった構図の中でのみ、醜く太ったブタ同然の欲望を恥ずかしげもなく晒し出す。
あの部屋はモノクロの善悪の世界に、こっそり色を持ち込もうと研究に明け暮れるマッドサイエンティストかよちんのラボラトリーだ。さしずめ私は助手兼被験者だろう。
昼間は欲望をひた隠しにしてモノクロに染まり、理性の下僕として生きる。部屋に夜か私が来れば、理性を都合よく眠らせてこっそり秘密の研究に明け暮れる。この醜悪さをいったいなんと呼べばいいのだろうか。「変態」以外にふさわしい名前を私は知らない。
変態したのはいったいどっちだ。私は綺麗なままのトイレの水を流して、トイレを離れた。
「遅いよ、なにしてたの」
かよちんが唇を尖らせながら私を見る。気持ちが悪い。
私はバレないようにため息を吐くと彼女の望む言葉を口にした。
「おなにー」
「ちょっ、本当ふざけんなよ! 私の家だよ!」
それならなぜ口角を上げているの。チンパンジーみたいに下品な声で笑っているの。なんで興味深そうに低い声で「マジ?」なんて問うの。そんなのかよちんじゃないよ。私が好きだったかよちんをどこへやってしまったの。
怪物。
誰だよ、お前は。
イラつきを抑えるように無理やり笑顔を作りかよちんに向き合う。
「……考えてたよ、タイトル」
「あ、考えてきたの。結局どうするの?」
「笑わない?」
「笑うわけないじゃん。教えて」
「変態」
「ストレートすぎる!」
笑わないって言ったじゃん。うそつき。
「……いや、他に思いつかなくて」
正直な言葉だったのだけれど、かよちんはひとしきり笑ったあとで不満そうな顔を浮かべた。
机の上に置きっぱなしにしていた私の小説を手に取りぱんぱんと叩いた。
小便臭いガキがその紙に触るな、という言葉を飲み込んで、かよちんの言葉を待った。
「だってこの作品、根暗で純粋な女の子が初めて恋に落ちて、家族も友達も投げ捨てて男と一緒に知らない街に飛び出して、お金に困りながらも結局愛情の力で幸せになっちゃう話でしょ? ストーリーはリアルなんだけどさ」
うん、と答える。
女の子のモデルはあなたよ、とは付け加えなかった。
ストーリーはあなたのために予定調和で幸せにしてあげただけで、こんなのリアルでもなんでもないデウスエクスマキナよ。なんて、言えなかった。これも飲み込んでかよちんの次の言葉を待った。
「私、主人公の子にはちょっと感情移入できなかったかな。流石に軽すぎっていうか、家族友達捨てて男に着いてくとか頭悪すぎだろって思った。でも相手の男の子がすごく素敵でね、そこはすごく気に入ってる。あ、そうだこれ、思ったけどモデルはサツキ?」
「……は?」
さすがに飲み込みきれない感情の塊が喉からポーンと飛び出した。
「いや、この女の子。田舎生まれで男性経験なくて、興味津々なんだけど踏み出せないまま高校生になって……っていうシチュエーションがさ、サツキそっくりかもって思って」
「あぁ、まぁ、そうかもね」
諦めながら続きを促す。
「でしょー? やっぱりそんな気はしてたんだ、で! ついでにこの男の子、これのモデルは私! でしょ!」
「そうそう、よくわかったね」
「まぁ小説はよく読むからね、作者がどうしてこのシーンを書いたのかってのは読書家なら当然考えてるよ」
これでも文芸部の部長だしね、と控えめな胸を張る。かりそめの城に住まう裸の王様みたいだった。
そっか、それなら。かよちんがこれまで読んできた数々の小説は、余すことなく駄文だ。17歳の小娘ひとりも変えられないでなにが小説だ。いや、かよちんに読ませた私も同罪かもしれない。私に才能なんてあるわけないって、分かってはいた。期待なんてしていなかった。私に人を変える才能はない。
彼女の姿を見ているとそれをありありと突きつけられるようで情けなくて、腹わたが煮えて、イラつきを隠そうともしないままかよちんに質問を投げる。
「それじゃ、どうしてタイトルが変態なのか、ってところは読み取れない?」
「そりゃあ、サツキのことだし適当にトイレで考えたんじゃない。あ、自分のアソコが濡れてたからそこから連想して変態、みたいな。当たり?」
ははは。
「あったりー。それじゃ、タイトルはそれで出しといて。私バイトあるし帰るね」
スカスカの学生鞄をすっと持ち上げてかよちんに背を向ける。そのまま数歩あるいてドアノブに手をかける。引き止めるみたいにかよちんの声が追ってくる。
「え、バイトって……いつからしてたの。私全然知らなかったよ?」
そりゃあ、言ってなかったからね。
そしてこれからも、詳しい内容を言うことはないからね。
「女の子は秘密がある方が輝くんだよ。んじゃ、小説、ちゃんとコンクールに出しといてね」
そう言い残して部屋を出る。
清潔な木材の香りが漂う階段を降りると右手にリビングが見える。そこでくつろぎながらテレビを見ていたかよちんのパパとママに帰ります、と挨拶をする。
二人はなんとわざわざリビングから玄関まで見送り……ではなく晩御飯の誘いに来てくれた。丁重に断り続けて、次来た時は必ずご馳走になるという約束を交わし、手土産にちょっと高い一口サイズのチョコをひとつかみ受け取るとようやく解放してもらえた。
締めかけたドアの隙間から優しいシチューの匂いが伸びてきて私を優しく絡め取る。ああ、自宅で嗅いだことのない、家族の温度がある匂いだと気づいた時、ほんの少しだけ視界が潤んだ。
外に出ると、雨上がりの湿った夜が轢かれた猫みたいに道路へ横たわっていた。その陰気な死体を蹴り飛ばすようにローファーの底で濡れたコンクリートを鳴らして歩く。
しばらく歩くと繁華街に出た。
ちらほらと制服姿の高校生が目についた。みんな友達を連れて楽しげに夜の街を闊歩している。時間は午後七時を回ったあたり、ゲーセンやカラオケの帰り道か。
彼女たちは街のネオンに憧れつつも染まりはしない。染まる必要もない。もっと鮮やかで美しい青に爪先から頭まで染まっているから。動物園の檻を眺めるみたいに、夜の住人を眺めている。
ネオンと同じキツい原色のドレスを纏う女、酩酊してゲロとともにストレスをぶちまける会社員、インスタントに欲望を満たそうと獣みたいに徘徊するナンパ男。たくさんの動物に指をさして、学生たちは一人ずつあーだこーだと本人には聞こえないようにイジり倒しながら歩いてくる。
果たして、彼女たちとすれ違ったとき、私はなにも言われなかった。仲間だと思ったのだろう。自分たちと同じく、世界の主人公として生きている存在だと認識したのだろう。
私はいったいどこで生きているのか、分からなかった。幼い頃は気にも留めなかった歩き方や立ち方が気になる。今なら、あの短冊にも何かが書けるだろうか。そんなことを考えているうちに、約束の場所であるハリボテの城へたどり着いた。忌避していたはずのでっぷりした身体の男が、私に手を振っていた。一番高い部屋のボタンを無言で押し、男は颯爽とエレベーターへ乗り込む。遅れて私も乗り込むと男は鼻息荒く私を見下ろしながら声をかけてきた。気持ち悪い。笑顔で小首を傾げてやると君の悪い色が瞳に浮かんだ。
「なぁんかご機嫌だね、ひさびさに俺に会えて嬉しい?」
別に何もない。何もないから笑ってんの。
「そっか、エンコーしてる奴ってやっぱおかしいよな」
おかしいのは私?
「他に誰がいんだよ」
かよちん。
「かよちんって誰? 友達?」
んー、いや、最近はお客さん。
「俺以外にも固定いんの? そいつとはいくら?」
女の子。お金はとってない。
「へぇ、そっちもイケんの。やっぱお前」
変態、って言おうとしてるんでしょ。
「よくわかったな」
どこでどうしてこうなったのかもうわからない。はじめてはSNSで知り合った大学生とだった。ただ何もかもがむしゃくしゃして、終わった時にお金をもらえて、ズルズルと続けてしまっている。
最中、いつも考えていることがある。カエルはおたまじゃくしの頃の気持ちを覚えているのか、否か。そんなことを考えている間は口の中で欲望のままにうごめく生臭い物体がおたまじゃくしに思えてきて、汚いとも気持ち悪いとも思わずにすんだ。
ただ、気になっていた。
おたまじゃくしに足が生えて、カエルになって、カエルは初めからカエルだったみたいな顔をして生きていくけれど、おたまじゃくしの頃は仲間はみんなおたまじゃくしだったはずだ。どうやっておたまじゃくしはカエルになるんだろう。どうしたらなれるんだろう。
あ、今、カエルみたいに足を広げられた。丁度いい、このままカエルの気持ちになってみよう。
げろ。げろ。カエルの鳴き声と大差ない声が自然に口をついて溢れる。ああ、気持ち悪い。気持ち良いのが気持ち悪くて、でもやっぱり気持ち良い。
私を産んだお母さんは、私を産む前、こんな気持ちになっていたのかな。
女の子はいつから女になるの、なんてシンデレラみたいなことは言わないから、お願い、ちゃんと女の子をやり直したいよ。そうしたら分かる気がするんだ。
お母さんと台所に並んで人参の皮むきを教えてもらいながら手伝って、指を切って泣いたら優しくばんそうこうを貼ってもらって、たまねぎを切ってもっと泣いて、鍋に火をかけたところでお父さんの優しい足音が響いたから私は玄関へ駆けていく。ただいま、と微笑む大好きなお父さんの笑顔におかえり、と返す。大きな手が私の頭を撫でてくれる。私は幸せを感じる。夕飯の支度が整ってリビングに座ると、漂ってくる甘いシチューの香りが私のお腹を鳴らせて、その間抜けで平和な音にみんなが笑う。カリカリのフランスパンにシチューを浸して食べる。お父さんが私の人差し指を見てどうしたの、と尋ねる。私は説明したがりのお母さんをとどめて、この指の、名誉の負傷について演説を繰り広げる。そんな私を二人は世界一穏やかな表情で眺める。食後、どちらが私とお風呂に入るのかを決めるためにお父さんとお母さんが慣れないテレビゲームで対戦して、泥試合で負けたお父さんが悔しそうに笑いながら食器を洗って、私とお母さんはお風呂場へ行くんだ。そうして……。
それが夢だと気づいたのは、けたたましいアラームの音で目が覚めたからだった。いつまでも見ていたい夢だった。幸せな夢を見れば見るほど、現実で待ち受ける朝に絶望する。シチューなどとはかけ離れた、鼻腔を突く汗と精液の臭い。あまりに幸福とかけ離れていて少し笑える。
痛む頭をさすりながら上半身を起こす。あたりを見回すと、差し込む朝日が冷徹に朝を告げていた。
喉も痛い。調子は最悪だったけれど私の身体の上にピン札が四枚散らばっていたのを見て少し気分が良くなった。そんな自分が嫌になった。
一時間かけて丹念にシャワーを浴びて、ハリボテの城を出ると、すでに空は青白い朝を纏っていた。キツイ原色のドレスを着た女も、ナンパ男も、ゲロを吐いていた会社員も、もうどこにもいなかった。すっかり綺麗に片付けられたしらじらしい街並み。あれは夢なんだよ、と告げられているようで苛立ちが募る。みんな私だけを置いて、どこかで誰かと笑ってる。
また、コンクリートを鳴らして歩いた。
駅に着く頃にはなにもかもが気に食わなくなっていて、夜も嫌いで、どこにも行けない駅のホームに立ち尽くして、どこかへ繋がっているとは到底思えない二本の線路に、ひとこと吐き捨てた。
変態。
それはきっと私の願いだ。
おたまじゃくしのままじゃどこにも行けないから。
私はただ望む。
夜にも昼にも居場所はいらない。ブランドじみたJKなんて響きも制服もいらない。小説だって書かなくていい。暖かな家庭も夢見ない。お金だって必要ない。
私はただ、『将来』が欲しい。
列車が走りこんでくる。ふわりと感覚が消えた。重力が行き場なく戸惑っている。
プァァァァ、とつんざくようなクラクションに、願う。
神様、どうか『将来』は、小説家になりたいなんて願わなくてもいい自分をください。美味しいシチューを食べて笑っていられる未来だけで、いいんです。
それが無理ならせめて、楽に、殺して。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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