『ガラスの森』
登場人物
【本編】
真っ暗な世界で、私と君は見つめ合っていた。二人とも生まれたてのまま、寝転がっている。彼女の瞳は、まっすぐに開いていて、底まで見えそうだ。……青と黒が混じり合ったブルージルコン。息が止まりそうなくらい、その眼差しに、夢中になった。私たちのいる暗闇は、冷凍庫の中にいるみたいにつめたくて、油断するとズブズブと深く沈んでしまいそうな、そんな場所だった。初めて見る君の身体は、流線を描いて滑らかで、とても美しくて、触ろうとほんの少し、手を伸ばす。
「ねえ」
「なに?」
「本当に、それでいいの?」
「それでいいって?」
「一度選んだら、もう引き返せないのよ」
泡となって消えてしまいそうな声で呟きながら、君は身体を起こし、空を仰ぐ。瞳孔から涙が、静かにこぼれていく。
「……あなたは、ここに来てはいけないわ」
地鳴りと共に暗闇がうねりだす。波を作って、私たちの間を押し流そうとする。私は、君の手を取ろうと必死になった。
「ダメだ! そんな簡単に諦めちゃ! 二人でここを出よう!」
「ここを?」
「そうだよ! 外の世界にいくんだ! さあ、捕まって」
「……知らないよ?」
ゆっくりと、手を向ける君。うんと力を込めて、手を差し伸べる私。肌が触れ合って、そして……目が覚めた。目の前には、あたたかな日の光に照らされた、君の顔があった。
「……おはよう。ヒヨリ」
「おはよう。レン」
十六歳の私たちは、今、宛のない逃亡を続けている。
✴︎
私たちが暮らしている世界では、戦争が続いていた。毎日のニュースには、何処で戦いがあったか、誰が何人死んだかなどの情報で溢れていた。しかしその戦争はあまりに長く、果てのない戦いであり、次第に「戦争」という言葉は、人々の日常に溶け込んで行った。戦争は大人だけの話ではなく、私たちのような子供の中にも潜んでいた。昨日遊んでいた空き地が焼け野原になっていたり、給食からお肉が消えたり、クラスメイトの一人が、もう帰らない人になってしまったり。それもまた、日常だった。
教室の机で頬杖をついて、お経のような先生の話を聞きながら、私は、ある女の子のことを見つめていた。窓際に座った彼女。憂いのある表情で教科書を開いて、目を伏せる。差し込む陽射しもあいまって、その姿は聖母様のように美しかった。名前は鴨野レン。出席番号は七番。フリクションのボールペンとすっと締まった水色のタイ。印象的なまつげはまるで
「ツバメの巣みたいだなあ……」
「ツバメ?」
「えっ?」
「それってどういう意味?」
授業終わり、私の席に近づいてきた彼女は、優しげな口調で話しかけてきた。おかしいな、見つめていたの、気づかれたかな。
「豊鷲見さんすごいね。あんな怒ってる先生、はじめてみた」
「怒ってる?」
「先生の質問、一切聞かずに無視して、ぼーっと外みてるだけ。正直あの先生、あんまり好きじゃなかったから、すっきりしちゃった」
どうやら鴨野さんの姿にみとれていた間に、そんな事があったらしい。思い返せば、一瞬すごい怒鳴り声が聞こえていたような気がしたが、それが自分に向けられたものとは思いもしなかった。とはいえ、彼女が話しかけてくれたのは嬉しかったので、見栄を張る。
「ああ、私も、そんなに好きじゃなかったから。言ってる事よくわかんないし、古くて、難しくて」
「昔の人なんだろうね。だってあの人たちは、国から守られているんですもの」
「うん」
「あたしも先生になろうかなあ。そしたら、戦争いかずに済むよね。豊鷲見さんはどう思う?」
「どうっていわれても……似合うと思うよ。知的な感じが」
「へえ、あたし、知的に見えるんだ」
「まあ、私の印象だけどね」
ふーん、と言って彼女は視線を外し携帯を開く。鴨野さんとは、あまり接したことはなかったが、いざ話してみると、想像していたよりも口が回る。
「結構、よくしゃべるんだね」
「合いそうだったから。あなたと」
そう言って彼女は、あの聖母様のような表情をするのだった。
✴︎
鴨野さんと私が逃亡者になったのは、それから数日後の出来事であった。私たちの学校もまた、戦争に巻き込まれた。ひゅーという、能天気な音が鳴り響いた直後、大きな爆発と衝撃が襲いかかる。見慣れた校舎はわずか数分にして、ジオラマのように嘘みたいな壊れ方をした。ガレキが落ちる音と地鳴りの中、すがる想いで机の下に飛び込み、身体を震わせる。よくわからない涙が止めどなく流れる。目の前に現れた戦争は、途方もなかった。
……どのぐらい時間が経っただろうか。音が鳴り止んだ頃合いを見計らって、私は恐る恐る顔を出す。硝煙の匂いが吹き込む。そこに私の知る教室はなく、無人の静けさだけが広がっていた。鴨野さんは無事だろうか……何故だか、真っ先に浮かんだのは彼女のことだった。私は、鴨野さんがいた席に近づいた。コンクリートの欠片が積み重なったその場所には、かすかに人の気配と呼吸があった。
「鴨野さん……鴨野さん……」
私は、必死に塊をどかしていく。軽いものは手で、重いものは壊れた机の脚を使って。
「あ……あ……そこに、誰か、いるの……」
声が聞こえた。鴨野さんだ。
「私、私だよ。豊鷲見!」
「とよすみさん……?」
「うん! 大丈夫だから、すぐ、助けてあげるから!」
「……だめ……」
「え?」
「……助けなくていい。あたし、いま、きっと酷い姿をしているから……」
鴨野さんの力のない声が、かすかに響く。瞬間、察してしまう。
「……いたい……いたいよ。もう、死んじゃいそう」
「……そんなのダメ!ダメだよ!」
私は、作業を続ける。一枚大きなコンクリートが屋根のように覆っている。その先に鴨野さんがいる。とてもじゃないが、どかせそうにない。
「すぐ大人の人呼んでくるから!もう少しだけ待ってて」
「やめて……だってあたし、もう生きていたって意味がない」
「どうしてそんなこというのさ!」
「だって、あたしの、あたしの身体があ!」
その時、再び大きな爆発が起き、私は教室の隅に吹き飛ばされた。不発弾だろうか。全身に打ち付けられた衝撃と鈍い感覚が巡る。幸い、左腕がクッションになったおかげで身体は動くが、気を抜くと痛みで遠い所へ連れていかれそうだ。起き上がって、再び鴨野さんの席へ歩く。不幸中の幸いか、先程問題だったコンクリートの屋根は壊れ、そこには、仰向けで空を見つめる鴨野さんの姿があった。
鴨野さんの片足は、なくなっていた。
「……ねえ、だから、言ったでしょう」
私は無言で、彼女の身体を起こし、抱きしめる。
「……どうして……どうしてかな……あたし……」
「大丈夫だよ。大丈夫……」
今は、そんな言葉でしか、声をかけることができなかった。
✴︎
私たちは、街外れの病院に運ばれた。戦争は学校だけでなく、私たちの街中を破壊した。クラスメイトの大半はその命を落とし、消息は不明。家族の安否も確認できない。そんな混沌とした状況を説明するかのように、病院は受け入れを待つ負傷者で溢れかえっていた。私たちは、子供という理由から、優先的に入院させてもらうことになった。
病院側の配慮で、私と鴨野さんのベッドは隣同士だった。鴨野さん同様、私も無事ではなく、案の定、左腕が動かなくなった。お医者さんの話では、リハビリを続けても元のように動く事はないらしい。あー、頭かくのに不便だなあ。
鴨野さんは身体のほとんどを包帯で巻かれている。足以外にも、彼女の身体は傷だらけだった。物資が不足しており、消毒や止血はできても、本格的な治療はできないらしく、このままでは、もって数週間だと言われていた。包帯の間から、ぼーっと手を見つめる彼女の瞳は、教室で観た時よりも曇っていた。しかし、なお美しいと思ってしまうのは、きっと罪だ。
入院生活の中で、いつしか私たちは、名前で呼び合うようになっていた。
「ねえ、ヒヨリ」
「なに、レン」
「……話、聞いてた?」
「もちろん」
「あたし、このままどこにも行けないんだわ。足もなくなって、どこもボロ切れのようになって」
「うん」
「やっぱり、あそこで死んでおけばよかった……この先になにがあるっていうの……」
「先生」
「え?」
「先生になろうよ。レン言ってたよね、なりたいって」
「あんなの軽い気持ちよ。それに、なるまでどのぐらい時間がかかると思ってるの。あたしには、無理よ」
「無理なんかじゃない。ここから、逃げればいいんだよ。この世界から。そうすれば、時間なんて関係ない。君は、君の望むモノになれるはずさ」
「ヒヨリ。何、言ってるの?」
「逃亡しよう。レンを縛って、苦しめるものから。私が連れて行くよ。どこへでも」
私は、決めていた。最後まで、彼女と共に生きる事を。だから、本気で見つめた。瞳の奥。青と黒が混じり合ったブルージルコン。この綺麗な宝石を、戦争なんかに奪わせたりしない。
「……はは、それは、素敵な話ね。……ヒヨリ、あたしを連れてって」
「……一緒に行こう」
✴︎
静けさに包まれた真夜中。私とレンは、病院を出た。車いすが地面を蹴る音がまぬけだ。病院が小さく見えるような距離まで離れた後、私はレンの包帯をそっと解いた。月明かりに照らされた彼女の顔は美しい。レンもまた、私の腕を掴んで、包帯を解く。その様子は、契りの儀式のようだった。薄汚れた布を捨て、私たちは、逃亡した。
その逃亡は、至福の時間だった。自分たちの知らない遠い街に行くのはワクワクしたし、なにより傍にはレンがいた。旅の末に、私たちは、ある山奥の、ちいさな小屋で暮らす事にした。レンの姿を誰にも見せたくなかったし、そこは鳥の声と水のせせらぎが木霊する、戦争なんて程遠い、別の世界だったからだ。レンと私は、備え付けてあったベッドでお昼過ぎまで寝て、料理を作って、洗濯をし、本を読んだり、絵をかいたり、時に愛し合ったりして、毎日を過ごす。
レンは活字に夢中だった。街から、レンが読みたそうな本をたくさん持ってくると、嬉しそうにする。それから、なにやら日記のようなものを描いているようだった。
「レン、よく続けるね」
「何か描きたいって気持ちがあるの。今までずっと携帯ばっかりいじってたから、文字を描くってことに、あんまり慣れないんだけどね」
「小説でも書いてみたら?」
「あたしが?」
「レン、きっと素敵な物語がかけるんじゃないかな。それで、出版社に持って行こうよ。女流小説家なんて、いい響きじゃない?」
「そうねえ……それもいいかもね……」
「なんだってできるさ。私が、レンの傍にいるから」
「うん。傍にいて。ヒヨリ。……あたしのこと、忘れないでね」
窓ガラスから光が漏れる。埃が、天使の羽のように舞う。気持ちが引き寄せられるまま、二人、目を閉じ、唇を重ねた。
✴︎
冬の温度が身を包むようになったある朝、吹き込む風の冷たさで目が覚める。隣にレンの姿はない。ドアが、がらんと開いている。外に出ると、森が一面、白銀の世界で覆われていた。雪が降ったのだ。レンは、車いすから堕ち、雪溜まりの中でうずくまっている。急いで駆け寄ると、彼女は震えながら泣いていた。
「どうしたの……レン」
「聞こえたの……あの音が」
「音?」
「爆発音。あの時聞いた!あたしの足を奪った!あの音!」
「昨日の夜かい? 私には聞こえなかったけど……」
「聞いたのよ!……ヒヨリの嘘つき。やっぱり逃亡なんてできなかったじゃない……どこいたって、あの世界からは逃れられなかったのよ。いいえ、今までの生活だってごまかし。あたしが付き合って上げてたのよ、あなたの妄言に!」
「……ごめんね」
ぽすん、とレンと同じ所に私も寝転がった。そっとレンを抱こうとしたが、拒まれた。冷たさが身にしみる。この感覚、覚えがある。夢でみた、暗闇だ。
「……君を、外の世界に連れ出すことはできなかったんだね。私は」
「……なんであなたが謝るのよ。どう考えても、あたしの方が悪いでしょう?」
「……」
「なんでそんなに優しいの……? あなたは、別の道を選んでもよかったのよ。……どうして、あたしと一緒にいてくれるの?」
「……レン。私は、優しくなんてないよ。自分勝手なんだ。ただ、君に優しくしたくて、そうしているだけ。優しさっていうのは、もしかしたら、偽善かもしれない。現に君を傷つけてしまっている……」
「……」
「……それでも、その偽善が、君の羽を休める為の、ちいさな小枝になるのだとしたら、私は、例え君に嫌われても、そうしようって思ったんだ。レンの生きているこの世界が、こんなに汚れていて、不幸であっていいわけがないって、私は否定したかった……」
レンの言う通り、今も尚、戦争は続いている。ここは、壊れやすくて脆い、ガラスの森でしかなかった。終わりの時がやってくる。
沈黙。
「……ヒヨリ……あたしね、わかるの」
「うん」
「もうそろそろ、お別れがくる……」
「ああ、そうなんだ」
「あたし、ヒヨリと一緒でよかった。この数日間は、本当に幸せだったの……ごめんね……酷い事言って……」
「大丈夫だよ。レン。言ったよね。私は、レンの傍にいる。今度こそ、私たちだけの世界へ行こう」
「うん」
暗闇ではない、真っ白な世界が私たちを包み込む。指と指を絡ませて、ぎゅっと、離れないように手をつなぐ。
程なくして私たちは、二人だけの世界に、溶けて行く。
※2017年2月初出