【YOSAKOI】をみる人にとって、芯から熱くなる感動とは?2/3(後編) 〜EXILEやイチローとのヒカク〜【学生チーム】
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❷EXILEとのヒカクでわかること。
どまつりでは、踊り始めて2-4ヶ月のメンバーがたくさん踊る。EXILE等のクオリティと比べたら残念ながらお話にならない。
それなのに、YOSAKOIをみる私は、EXILEをみたとき以上に芯から熱く感動することがある。
このことから仮説をたててみる。
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「いいな」と思う【量的なナニカ】とは
=
【クオリティの未熟/成熟に依存しないナニカ】だ。
=
それは【セノビ】てきなこと、、、?
=
(自分について)【今よりもっと〜ようとする/〜たい】というキモチ/シセイ?
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☘これは前回記事の「リアル/等身大」というニュアンス、とも内容が合致する。
❸ドキュメント番組とのヒカク
「クオリティではなくセノビに感動。」
ということを考えていたら、これは
ドキュメント番組に通ずるなあ、とふと思った。
イチローが年間262本を打ったという偉業を聞いて私は、すごいなあとは思うものの、芯から熱くなることはなかった。おそらく、ヒットの瞬間を262カット繋いだ映像を見たとしても、私が涙することはないだろう。
ところが、ドキュメント番組にて
イチローによる「もう一本打ちたい/打とうとしてる」キモチ/シセイ/モガキをみたとき
芯からグッと熱くなった。
❹人って、「今よりもっと〜」に突き動かされてるんだっけ???
「今よりもっと〜たい」というと「THE☆成長欲」という感じがするが、なんだかイワカン。
イチローや、前田祐二、猪子寿之、私が尊敬する大学の教授、(いちおう僕も)、、、
彼らが「成長欲」に突き動かされてるとは、全く思えないんだよな。。。
「今よりもっと〜」というよりは、
「本当はもっと〜なんじゃないか/〜であってほしい/〜であるはずだ」に突き動かされてる感じがするのである。
「本当はもっと〜」を信じてる/信じたい/願ってて、そこに引っ張られるように生きている気がするのだ。
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いいなと思う【量的なナニカ】
=
「本当はもっと〜」というキモチ
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❺「本当はもっと〜」を信じ続けるのは難しい。だから価値。
「本当はもっと〜はずだ/であれ」というのは
現段階では証明できていない仮説の域をでないことが多い。
それを信じ続ける/願い続けるというのは、けっこう、ほんとにけっこう難しいことだと思う。
もしそれを支えることが可能なら、それはものすごい価値だと思う。
YOSAKOIで実現できる感動が、
まさにそれに該当する、と私は思っている。
応援じゃなくていい。
いや、むしろ応援じゃない方が救われる。
同じような「葛藤・コンプレックス」をかかえて、同じような「信念・願い・情熱」を燃やしている人がいる
という事実が価値ある肯定なんだと思う。
YOSAKOI(踊る)ことで、
踊り子どうしとも、お客さんとも
「本当はもっと〜」(=【量的なナニカ】)でつながる。ゆるいつながりではあるが、確かなゆるいつながり。それが、価値ある肯定であり/救いである。
🌟まとめ🌟
〜ここまでの仮説まとめ〜
【量的なナニカ】=
(2.1)生きていたら抱えつづけてる「うまくいかない状況/きもち」に関係する
(2.2)セノビ的ニュアンス
(2.4)本当はもっと〜というキモチ(信じてる/信じたい/願ってる)
→
◾️◾️◾️記事(2/3・前後編)のまとめ◾️◾️
【量的なナニカ】とは
(自分について(←2.2))
「私は本当はもっとこうありたい/あるはずだ」というキモチ(←2.4)
(これは、「こういう自分がイヤだ」と表裏一体。(←2.1))
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次回、【YOSAKOIの感動】【最終回】です。私が所属していたチームの作品に触れつつ、全3回のまとめを書いてます。演出的を考える上でも、この考え方は(微々たる)メリットがあるよって話もしてます。ぜひあれしてください。