自己分析「魍魎という妖怪」
~魍魎~
形三歳の小児の如し
色は赤黒し
目赤く、耳長く、髪うるはし
このんで亡者の肝を食ふと云
※今昔画図続百鬼(鳥山石燕 著)より引用
魍魎は、つかみどころのない妖怪だ。
日本一の妖怪ウォッチャーこと鳥山石燕も「髪サラッサラで、亡者の肝を食う小鬼」くらいの事しか書いてない。
さて、なぜいきなりこの妖怪を紹介する気になったかというと、それは私自身の人生を振り返ってみたときに、この魍魎という妖怪との共通点を見出したからである。
京極夏彦のミステリー小説『魍魎の匣』において、この妖怪にスポットが当てられている。
曰く、魍魎とは「境界」である。
これをふまえ、タイトルの本題に戻る。『妖怪の孫』こと安倍晋三ではないが、私は自分のことを「魍魎」のような人間であると自己分析している。
私の人生のレールは、常に相対する二つの世界の境界上を走っていたと言っても過言ではない。
芸術家肌で品行方正、そして異常なまでに過保護な母親と、体育会系スポーツマンで、今の時代なら間違いなくDQNと言われるタイプの放任主義の父親。そんな、あまりにも正反対な性質の夫婦の間に、私は生を受けた。
物心ついた頃に、私と父が公園で遊んでいて、私が怪我(擦り傷程度)をして帰って来たことがあった。その日、母は大慌てで父と喧嘩を始めた。「なぜ怪我をしないようにちゃんと見張っていなかったのか」と。私は、自分が原因で父と母が喧嘩するのが嫌で、それ以降、自分が怪我をしても、何処かが痛かったり、辛かったり苦しかったりしても、そのことを隠すようになった。
予防接種や歯医者に連れていかれた時も、無反応であることを心がけた。すると医者も「大人しくて賢いお子さんですね!こんな子は滅多にいないです!」と、私の事を絶賛し、よくお菓子をくれた。そこで幼き日の私は確信した。
「個としての感情と意志を殺し、ただひたすら我慢して、声の大きいものに隷従する」ことこそが、皆が幸せに生きていくうえで最も合理的であると。
※ただしこの考え方は、後に大きなイベントによって覆されることになるのだが…
母の過保護さは異常だった。
私は、母がいない間に自分の足で家の中を走り回っていても、母が帰ってきたのを察知すると、歩行補助器にスッポリと収まって出迎えに行った。歩行補助器無しで歩いたとき「まだ危ない」と怒った母と「自分で歩きたがってるんだから好きにさせてやれよ」という父が喧嘩したのがとても嫌だったから。
それでも、母に対して憎しみを感じている訳ではない。不器用なれど、母の行動は愛情から来るものであったはずだ。
それに「自分ならできると確信しているのに、チャレンジができない」というもどかしさ。これは、今の私の反骨心の源になっていると考える。
私は小さい頃から音楽が好きだった。
母の影響でThe BeatlesやNeil Sedakaといった洋楽を聴き、父の影響でCOOLSや長渕剛といった歌謡ロック・ポップスを聴いていたのがルーツになっていると思う。
小学生以降は、テレビで流行っている音楽について友達とよく話をした。今思うと、音楽(とテレビゲームと漫画)についての話題が、自分の意思や意見を主張しても良い唯一の場だったのだろう。そんな友達に会えるから、学校に行くことは楽しくて楽しくて仕方がなかった。
私が中学生になると、父はジャパニーズレゲエにハマった。いわゆるDQN音楽だ。私も父の車でこれに触れていたが、大人になった今でも、レゲエが低俗な音楽だとは全く思わない。誰かが本気で想いを乗せて紡いだ音に、貴賎はないと私は考えている。
そして私はこの頃に、並行してVOCALOIDの曲をニコニコ動画で聴き始めた。父には「機械音声の変な歌なんぞ聞くな!」と、バチクソ馬鹿にされたので隠れて聞いていたが、トーマ(現:Gyoson)、ハチ(現:米津玄師)、bibuko、kemu、鬱P、wowaka、じん、etc…といったボカロP達の曲に触れ、凄まじい衝撃と刺激を受けた。
「世の中にはこんな面白い音楽があるのか!」と。
そして、自分もボカロPになりたいと夢を見た。まあ、現実は非情であり、音楽で飯は食えないし、大人になれば作曲などしている暇は無かったのだが…。
大学に入ってからは友人の影響でヘヴィメタルにどハマりし、それが今日まで続いている。
音楽の趣味において、私は所謂「リア充パリピDQN」と「陰キャオタクインテリ」の境界に立っているのではないかと思う。
私の父は、地元では有名な高校球児だった。
私は父や周りの期待を背負い、小学二年生から野球を始めさせてもらった。バッティングに関しては、父親譲りの才能があったと思う。問題は守備だ、スローイングのセンスが絶望的に無かった。
ピークは小学六年生のリトルリーガー時代。塁間距離が短いこともあり、この頃は基本的にレギュラーで、いくつかの大会に優勝し、メダルを貰ったりもした。
しかしながら、中学高校と進級するにつれ、自分の限界がはっきりと見えて来てしまう。そして高校二年生のときに確信した。
自分に野球の才能は無い。
努力は最大限したつもりだ。父親も熱心に協力してくれた。それでも、才能があって、かつ努力する人間には勝てない。当たり前の話だが、高校まで続けるような奴はだいたい才能がある。
それでも私は食らいついた。せめて父の名を汚すことのない高校球児になると、期待を裏切ってはならないと、必死に努力した。
そして監督から「バッティングに関してはチーム内でも目を見張るものがある。ここぞという時の代打としてなら、起用できるかもしれない」と言われ、活路と希望を見出した。
三年生の夏、最後の大会のベンチ入りメンバーを決める春の準備期間、とある練習試合で監督からこう言われた「この打席で結果を出せばベンチ入りを考える。勝負強さを見せろ」
…右中間をブチ抜いた三塁打。
結果は出した。
だが、ベンチ入りは叶わなかった。ピッチャーの控えが不足していることもあり、下級生が私の代わりにベンチ入りすることになった。合理的であり、仕方の無い事だ。私が結果を出しても、監督は「考える」とは言ったが、「採用する」とは言ってないのだから。
私は野球の才能が無いゴミクズだったのだから。
…ベンチ外、それが私の野球選手としての結果であり、成果だった。
その一方で、勉強に関しては、高校受験まではとても順調だった。学校の授業と宿題をかなりテキトーにこなしているだけで、県内で二番手の進学校は余裕で受かると言われていた。ありがたいことに、受験対策のため半年程塾に通わせてもらい、無事県内一の進学校に入学することになった。
しかし、高校での三年間で己の無力さを思い知ることになる。
私の高校は、文武両道の謳い文句でも有名だった。
周囲の期待を背負って、ここまで自分に投資してもらった以上、野球で結果を出さない訳にはいかなかった。
「赤点さえ回避できればいい」の精神で、授業中も野球のことばかり考えていた。国語も数学もそっちのけで、スローイング時の筋肉のメカニズムを調べていた。
結果は先に書いた通り。
「才能の無い人間の無駄な努力は、非合理的である」皮肉だが、この教訓を得られたのは良い収穫だったのかもしれない。
高校球児としての最後の夏が終わったとき、私の心は一度死んだ。
何もかもがどうでもよくなった。
学力が校内で最底辺になったことで、母と父がよく喧嘩をするようになった。
自分の部屋に閉じこもっていても、母が父に怒鳴る声が聞こえてくる…「あなたがあの子に野球を押し付けたからよ!」と。
私は、己の才能のなさを呪った。己の無能さを呪った。己の努力不足を呪った。
そして、自分に「周りの人を幸せにできる才能や能力を与えてくれなかった」神を呪った。
それから高校卒業までは、自分の部屋に引きこもり、表向きには勉強すると言いつつも、現実から逃げるように、両親の夫婦喧嘩の声を掻き消すように、動画サイトで音楽ばかり聞いていた。
現役での大学受験は当然惨敗。
しかしながらありがたいことに、私には再チャレンジのチャンスがあった。
中学生時代に通っていた塾の先生から「俺んとこでまた勉強教えちゃる!格安でな!お前はセンスある」と、声をかけてもらったのだ。
それから一年間の浪人時代は、その先生の下で必死に勉強をした。
「野球がダメだったんだから、せめて勉強で結果を出さないと、生きている価値が無いだろう」と。
センター試験前の全国模試が終わった頃、塾の先生から「その気になれば京大くらい狙えるけどどうする?あれほど酷かったアホがこれ程賢くなること滅多にないぞ」と言われた。
とはいえ私の実家は、二浪することや、滑り止めで私大に通ったりすることを許してもらえるほど裕福ではなく、奨学金も、返済のことを考えると割に合わない(借りない方がいい)と判断したので、確実に受かる中堅の国立大学に入学した。本人にやる気さえあれば、学校によってそれほど学べる内容に差はないだろうと考えていた。
大学生としての四年間は、人生で一番楽しい時期だった。
夫婦喧嘩ばかりする親のいない、初めての一人暮らし。
大学の、高校までとそう変わらない「垂れ流し講義」には肩透かしを食らったが、この大学を選んだのは自分だし、参考書も分かりやすいので満足だった。
その傍らでは、古本屋で漫画を読み漁ったり、高時給のパチンコ屋のバイトや賭け麻雀で金を稼ぎ、ツタヤで借りた洋楽を聴きながら、友人とテレビゲームや鍋パーティーをしたりした。
監督の目を気にしなくてもいい野球サークルで、久しぶりに心から野球を楽しんだ。
理系学部生の宿命だが、就活時期と被っている卒業論文執筆の時期はとても忙しかった。まあ就活といっても、私の場合は公務員採用試験の勉強と面接の予行練習だが。
…でも、忙しくても充実していた。
「私は生きている」という実感を取り戻した。
誰かに頼まれたことではない。
自分に向いている事をする。
自分の才能を活かす。
自分の好きなことをする。
「自分の意思を尊重すること」の大切さに、成人を迎えてからまだもう少し経ったところで、ようやく気付くことができた。
研究室でお世話になった教授からは「ぜひとも大学院まで来て欲しい。君は研究者に向いている」と言われた。
しかしながら、浪人した負い目もあり「両親にこれ以上学費の面倒をかけるわけにはいかない。しっかり四年で卒業して、就職して家計を支えなければならない」と考えていたので断った。
就職について、父からは「お前は教師になって野球を教えてやれ!」と常に言われてきたが、「自分には野球の才能は無いし、人様の子供に何かを教えることができるような大した人間じゃない」と、おそらく初めて父に反発した。
自分の小さな身体に幼い頃からコンプレックスを抱いていた私は、常々から「なにか大きな物を作ることに携わりたい」と思っていた。
苦肉の策として私が浪人時代から考えていたのは、技術系教員の採用試験を受ける権利を取得できるコースを選択し、その気になればいつでも教師になれる状況を確保したうえで、教師と同じくクビになる心配の少ない「土木技術専門職の公務員として、大きな工事に携わる」ということだった。
念願は叶い「土木技術系地方公務員」という職を手にして今に至る。
※この仕事が完全に私の理想通りの仕事だったとは言ってない。いやむしろ地方公務員マジでオススメしない。部署によっては肉体もメンタルも死ぬ。
「体育会系スポーツマン」と「研究者肌のガリ勉オタク」という二者の境界。
挫折と成功を経験したことによる「落伍者」と「成功者」という二者の境界。
そして、今の私は公務員。
つまり「政治家」と「民衆」の境界に立っている。
私は「魍魎」だ。
あらゆる世界に接していながら、つかみどころがなく、限りなくフラットな視点を携えた、ゼネラリスト(Generalist)だ。
平時であれば人畜無害な存在であったのだろう。
しかしながら、コロナ騒動に大増税、先行きの見えない不安定な社会。相当なアホでも矛盾に気付く、明らかに非合理的な政治。家族の為にと地元に帰ってきたのに、両親は経済的理由で揉めて離婚。
私は魍魎、境界に潜む化物だ。
そして私は怒っている、激おこだ。
”Be reasonable to be honest.”
「筋は通せよ。」
公務員は「公僕」でいい。
公(おおやけ)の僕(しもべ)でいい。
”I hope for the greatest happiness of the greatest number.”
「最大の多数に最大の幸福あれ。」
公僕として、国民全員の「公共の福祉」を目指すのが、私の仕事に対する責任だ。
私は、エゴと利権に塗れた政治屋や、国民から搾取して外国に大盤振る舞いすることで甘い汁を啜る、国賊売国奴のために仕事をしたい訳ではない。
飼い主だけは私が決める。
今の私は、腐りきった政治屋や売国奴共のはらわたを喰らわんとする、餓鬼に他ならない…!
私は…「餓えた魍魎」だ。
お わ り
長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。