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描写力と偏見

高校生の頃、現代文がとっても苦手であった私は、それにもかかわらず、当時から現在にかけて読書はずっと大好きです。

私は、一般性に欠く人間で、これだけ聞くと、まるで自分を「特異」であるとして、特別感、自己肯定感を得たいがための自己紹介に感じられるかもしれないですが、現代文の授業における私の感覚はことごとく普通の道を逸れ、気づくといつも訳の分からない答案をしていたものです。


文章の傍線部が表現するAさんの様子について、1〜4のうち、もっとも適切なものを答えよ。


例えばこんな問題が出たとして、もちろん傍線部は確認する。そこに書かれている表現をその他の部分から読み取った様子や、場面全体を見るなど、総合的に判断して問題を解くというのが普通だと思う。

私はそこに「偏見」が混じります。

例えば、こんな問題が出るかどうかは全くわかりませんが、傍線部が「半熟卵のミラノ風ドリアの卵を早々に割って混ぜるタイプ」だったとしましょう。

こんなもんここだけじゃわかるかい、という反応が普通の反応なのだと思いますが、私はこの文を見るだけで、「あ、細かいことにこだわりがなくて、むしろちょっと大雑把なタイプなんだ」というような偏見が頭を覆い尽くしてしまうのです。

選択肢を選ぶ際に、客観的に、と言われるのがすごく苦手で現代文にはいまでも苦手意識を持ち続けています。

さて、若輩者ながら、文章を書くようになった現在では、どうにかして「描写力」というものを手に入れたくなるものです。そこで、自分の描写力はいかほどかなと考えてみました。


その時、「偏見」というのは、描写にとって諸刃の剣のようなツールで、例えば、「猫を飼ってそうな人」という表現が自分の中から出てきたとして、私と同じ共通認識の人にとっては、「あー、穏やかで、マイペースそう」というイメージを簡単に持ってもらえるかもしれませんが、これは私が勝手に共通認識があるとした読み手の人の思考で、実際には、「かわいい」だとか「無邪気」だとかそういったイメージを持つ人もいるかとおもいます。

要は、「簡単に伝わる人もいれば、間違って伝わる人もいる。」ということです。

どうやら、日頃から「〜そう。」と考えてやまない私の凝り固まった偏見群は描写において、あまり威力を発揮しないように思います。

ですが、どう受け取るのも自由だとした途端、書き手の色が出る部分でもあり、普遍的なつまらない表現よりは間違って伝わるくらい尖るのも悪くないかなとも思います。例えば、頭が良い、と平たく言うより、長期休み課題を最初の1週間で終わらせてそう、とか言った方が善し悪しは様々にしても、書き手の色は出るのかなと感じました。

以下は、僕の偏見による表現です。
どう感じたかを心の中で言葉にまとめて、僕との認識の差異を楽しんでもらえたらと思います。

1:「将来、奥さんに尻に敷かれてそう」

2:「職業歯科衛生士そう」

3:「わけもわからずじぶんをこうげきしそう」

4:「髪の毛の枝割れえぐそう」

みなさんは、私が何を見た時に上のように思ったのだと想像しますか?

まとまった方から、下にスクロールしてください。よければ私に感想とか、ふざけんなとか 伝えていただけるとと、私としても面白いので、どうかよろしくお願いします。








1について
「優しい、いじられキャラ、大事なところで慎重」

2について
「茶髪(確定)、カラコンつけてる、つけまつげ、肌が白い」

3について
「意識が低い」(補足:ゲームのポケモンでは、こんらんじょうたいにあるポケモンがわけも分からず自分を攻撃することがあります。)

4について
「繊細、細かいことにイライラしがち、ストレスを発散する方法に乏しい」


だいたい思いついたのはこのような感じでした。

はてさて、私は「性格が悪い」と言われることも多いのですが、その所以にこの偏見の強さがあります。

どうにも、創作というのは自由なもので、私にそのように見えたら、そのように表現していいのが描写というものです。描写力という意味では、特殊な方向に強いのかもしれません。

どうか、皆さんの偏見も私に教えてください。

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