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力あるいは物語

「物語の力」「力の物語」と書いた方が、おそらく馴染みのある語順で、感覚的にすっとはいってくるのではないかな、と思うのだが、今回わたしがテーマにしてみたいのは、この「力」と「物語」の、ほとんど毒と薬のようなきわっきわさ加減、の考察なのだ。

英語で表記すると、力はタロットカードでもおなじみ、ストレングス(strength)である。これは、語源を追っていくとstringに繋がり、これはまた、物語(story)とも連なり、混線していく。

このあたりのイメージのからまった感じ、というものの何が重要かというと、外から縛るものとしての糸や縄といったイメージ、それとも、樹木の中ですごい勢いで樹液が流れ、気が満ちているあの様子、のダブルミーニングになってくるわけだ。

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魔術の世界は、基本的に「かたち」重視である。
ところが問題は、同じかたちであっても、それが物理次元、あるいは霊的次元のどちらにあらわれるかで、作用が裏返しになってしまう、ということだ。

内側からわきおこる時には、その人を生き生きとさせるが、同じエネルギーが外から押し付けられた時、それは縛りと抑圧になる。
守護というものが、行き過ぎると管理監視になり、自由さは、行き過ぎると放埓と無秩序になる、というのとまあ、同じことであって、だから、薬と毒はとても近いからこそ、その機能性があるということで、、

国家の中枢に近い都心で仕事をしていて、地方にいたときと違う強迫観念を感じることがある。どうして都会の人はこんなにも、かたちにこだわり、戦々恐々としているのか、ということが謎だったのだが、この、魔法のからくり、力のからくりを知るとあっさりと解けてしまう。

かたち重視、かたちだけととのっていれば作動する、というのが黒い魔法なのだが、それは裏をかえせば、ほんの少しでもかたちにほころびがあれば、一気にその嘘が露呈してしまうわけだ。だから、1mmも露呈しないように、神経をピリピリさせてかたちを整えねばならない。

これが、外在神信仰的、偶像崇拝的、strength的なふるまいなんだ。

これに対し、物語(story)を生きるひとたちは、もっと自由でゆるやかで、でも、力強い。ちゃんとそこに生きたエネルギーが通っている故、かたちがほころぶことで、一気に体制を崩してしまう事は決してないわけだ。

わたしたちは社会から、storyを棄てろ、strengthを手に入れろと教育され、自分の内側に生きたエネルギーが循環する生き方を棄てることが、大人になることだと育てられ、疑いもせず生きてきたのかもしれない。

社会が力に満ちていれば、それでなんとかやりすごせるかもしれないが、金属疲労のように、力に限界がきたとき、このstrength側の所作を一所懸命やったところで、あやかれるものはなにもなくなってしまう、、

今の社会情勢として、貨幣の操作によって、生きていることがおびやかされるようなことが起こっているけれど、これはただ、strengthにまつわる、虚構の、ふくれあがった、余分な力、がそぎ落とされているだけなのかなあ、と思ったりしている。
それがそぎ落とされてはじめて、わたしたちは、生きたstoryを取り戻し、真の意味での力強さ、に立ち返ることができる。

その過渡期に生きている気がしてならない。

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