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「真の名」と黒い魔法③

真の名を知られると、もう生きていられなくなる。

この古典的・普遍的な物語の構造について、もう少し丁寧にみていきたい。

ファンタジー的な物語及び、悪魔信仰成敗!みたいな物語のハッピーエンドでよくあるパターンは、主人公が、逃げ回ってきた自分の影と和解する、というものである。

おもしろいなあ、と思うのは、客観的な視点から物語を眺めている読者側からすれば、「お前こそダークサイド係やん!」と思う存在もまた、影を恐れ逃げている、というところだ。

というか、悪役の当人は、なにかしら自分が正義漢である、と思っているのである。

昨今、かつて聖人扱いされていたが、実体はそうではなかった、みたいな暴露ネタが、ほんとうか嘘かわからないものも含めていろいろ見つかる。
その真偽はともかく、マザーテレサが、死ぬ直前にこの逃げ回っていた影と和解して死んでいった、というエピソードがあるのだが、わたしはさもありなん、と思うのである。
公式に語られてきた部分だけで彼女をみつめたとしても、どう考えても偽善すぎるのだ。そして、その偽善っぷりに比例して、政治的に大きな力を彼女は手に入れた。

だけど、彼女はほんとうに、力が欲しかったのか?ということなのだ。

真の名、というのは、別の言葉でいいかえれば、本当の望み、自身が生きている人生の真のテーマ、といってもいいかもしれない。

人はこの、本当の望み及び、自身が生きている人生のテーマ、というものをなかなか気づくことができない。一所懸命努力して手に入れてから、「あれ?これはそんなに欲しくなかったな」と違和感を感じることもたくさんある。
力を欲しがる理由は簡単だ。力はオールマイティーなので、とりあえずあっても困らない。あったらなんにでも使えるので便利である。
しかし、ここに但し書きがついてくる。愛以外にかかわる全ての望みをかなえるのが力だ、と。

どんな存在も、ほんとうに望むものは、愛である。
それはそうなのだが、愛という漠然とした胡散臭いキーワードが、いまここで、その体現としてあてはめられたとしたら、いったいそれはどういうことなのか?という、抽象領域から具体領域への引き下ろし、をするときに、人はよく間違える。

真の名を知る過程というのは、この引き下ろしをするときにさんざん失敗を繰り返しながら、腑に落ちるまで試してみること、かもしれない。

そして、腑に落ちてしまえば、いままでこれが実体で、ほんとうに価値があって、これこそが愛だろう、と思っていた力の物語が、全部偽物だった!と自分でわかってしまう。

おなかの底からはっきりとわかって、しまう。

そうなってしまうと、力の世界があんなに輝いて見えていたのに、砂の上の城が崩れていくかのように、全部消えてしまうのである。

黒い魔法でかたちづくれるのは、砂の上の城、力に役立つことまでだ。

占いや黒い魔法界隈で儲かるといわれているカテゴリのひとつに、その気のない人を惚れさせたり、無理やり別れさせて自分に気を引かせる、みたいな内容があるらしい。
もしもそれが魔術として可能であったとして、そうやって、相手が自分のところにやってきて、果たして嬉しいだろうかということなのだ。

Photo by Khadeeja Yasser on Unsplash
https://unsplash.com/@k_yasser


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