マクロビと世界政府
この記事の補足。
私に玄米菜食を教えてくれた友人から、桜沢氏や、友人が若い頃に周囲でいったいどういうことが起こっていたのかという話をちらちら聞いていた。ベジタリアンというと、世間的には健康オタクの一種で、社会的政治的には無害な人々(※昨今の過激ビーガンの奇行は別として)、と思われていそうなものだが、実はこの界隈、政治的にとがったエピソードをたくさん耳にする。
どうして、平和を愛する、殺すことを否定するこの人達が、マッチョな政治エピソードに絡んでくるのか?私もずっと、いまいちぴんときていなかった。
この桜沢氏、易の理論を自分で読み解き、石塚左玄の健康法をアレンジして独自の世界を構築したが、その過程でやはり、生命と対になって鏡像関係になっている、社会とは何か、政治とは何か、ということが嫌でもきれいに見えてしまったのだと思う。詳しいエピソードはあまり知らないが、アメリカにいた際に、ケネディの死を予測して忠告していたとか、いろいろあったようだ。実際、政府から目をつけられ、拷問されたりもしていたようだ。そして、一時期日本に帰国できなかったのではなかったか?(そしてそれが解除されても、もう日本には戻らなかった)。
彼の出していた機関誌では、世界政府をつくろう、といった内容が書かれていたようだ。
このことを知ったとあるyoutuberが、桜沢氏が提唱した内容についてきちんと調べもせず、今世界で起こっている方向での世界政府の手先なんじゃないのか、胡散臭いね、というような取り上げ方をしているのを見かけたことがある。
桜沢氏が提唱していた世界政府とは、おそらく、今動いているような意味での権力とは、まったく裏返しの世界だったのではないかと私は思う。これは、菜食を実践したら自然にそういう発想になってくる。力による無理矢理の一元化(共産主義的なやり方)ではなく、力に溺れず、それぞれが自立し、自然と調和して生きていく世界。菜食をする人が世界に増えれば、それはとてもたやすいことだろうと私は思っている。
別の言い方をするならば、非菜食で生きれば、最後の理想型は、いわゆるDS的な(DSという呼称が適切だとは思わないが、便宜上簡単なので使わせてもらう)統一政府になるのは無理もない。力に溺れ、欲望に歯止めが効かない同士が、残酷なやり方で締め付け合うことでしか、秩序を保つことができなくなるからだ。
この世における一番悪いことって何だろうか?
詐欺とか泥棒とか、背任とか横領?そういういわゆる「経済犯罪」のようなものは、自然の世界から見たときに、悪とは定義されないこともある。
生命世界から見たとき、一番生命を脅かす行為は、共食いである。理由は、その人がその人として生きている敬意というものの根底を否定する快楽だからだ。
そして、だからこそ、人工世界は、この共食い(メタファでもあり、リアルでもある)を積極的に利用して社会を構築し回している。
この事実から目を背けず、飲まれてしまわない生き方を提示できるのは、菜食だけなんだ。
このあたりの話は、この中の「ハロ信仰とビャクシン樹林」にも書いた。
ワクチンがなぜここまでごり押しされるのか?単なる健康維持のためのありがたい無料サービスではない。あれはれっきとした一種の儀式的な魔術のようなものだと私は思っている。
ワクチンとは何かを知ることは、平常時の社会そのものがいかに博打的であるのか、ということを知ることとも言える。ワクチンの音は博打と同じである。ワクチンは人間が持つ野生や、制御不可能になるエゴを殺し、安全に檻の中におとなしくいられるよう制御する。
そんなのまっぴらだというならば、何をしなければならないか?という問題に直面することになるわけだ。ワクチンを否定するためには、セットとして個人の生き方が変わらないといけないと思っている。それを変えないままごねるわけにはいかない。
別の言い方をするならば、ワクチンとは人工的に設定された人為的アポトーシス機能かもしれない。
自然界は、その自然の起伏によって、山も谷もきちんと包含し、不要になったものは時が満ちれば朽ちてかたちを失い、その崩れた形を栄養として次の命が芽生え、新しいかたちが生まれるというサイクルが自然になされる。
しかし、人工世界においては、死と、起伏がない。よって、どこかで人工的にその起伏が必要となる。それが、生贄だ。これはメタファでもあり、リアルでもある。
私はよくシフォンケーキの作り方を、群れの統御の仕方として例える。
群れの中では、メレンゲを作るときのように、構成員ひとりひとりが均質な泡となり、ひとりひとりの個性がいい方にも悪い方にも否定されロンダリングし、常に誰も責任を取らない空間と化する。そしてその責任は、くじ引きのようなかたちで突如意味不明に生じる生贄となって生じることで一段落する。
生贄というのは、無責任で、短期的に損をせずすべての人が同じように生きていたい、という望みを叶えるために必須の機能だとも言えるだろう。
今、そういった人工的に構築された空間が、大きく変わろうとしている。ヤアジュージュとマアジュージュの物語で予言されていたとおり、人工空間も、いくら結界をつくって頑張ったところで、制度疲労が来てしまえばもうお手上げになる。
わたしたちが新しい世界に生きていくために大切なことは、生贄がいらない生き方を、ひとりひとりが生きる、というところにしか、ないと思うのだ。
そのひとつの大きな答えが、菜食、しかも、自然と調和した発想を持つ玄米菜食の実践だ、と私は思っている。
桜沢氏の提唱したもともとの哲学は、自然が持つ陰と陽の指向性を理解して、住まう場所、自身の体質、やりたい仕事や学業などを総合的に調整しながら、無理せずバランスをとっていく、というところにその本質がある。
だから、寒すぎて作物が育ちにくいエリアに代々住むエスキモーが、肉しか食べない(それしか食べる物がない)という生き方も理にかなっているとして否定はしないのだ。そういう意味で、今の社会は、本来であれば普通に作物を育てたり、野生の果実を収穫すれば良いようになっている地で、無理矢理工業を介入させて貨幣と食物を交換し、どこにいても安く家畜を頂けるように整備がなされている故、エスキモーが肉を食べていたということと同列には語れない、、
ヴィーガン的な活動は、ここで家畜にかかわる人に奇襲攻撃をしかけるのだろうが、玄米菜食的な世界観では、外に働きかけ外を変えようとすることはあまりしない。
どちらかというと「どこにいても安く家畜を頂ける」ことで、自分が失っているものと向き合う、ということになってくる。
力を得ることで、失っているなにか、ひきかえにしているものが必ずある。
これは、いわゆるNPD(自己愛性人格障害)がいつも不服そうにしており、すいあげられる存在がいないかと目を皿のようにしている様子にも重なる。
力は、得れば得るほど渇望していく、、
力の物語から離脱していく小さくて大きな一歩は、暮らしから肉を減らすことだ。
力にあやかることを減らすと、内から力が湧いてくる。自分の中で豊かになってくる領域を楽しむ。
それこそが、ほんとうの意味の自立で、新しい世界はそこからしかはじまらない。