結ぶと解かれる。解くと結ばれる(2)
この結び目を解く聖母マリアは、今のローマ教皇であるホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(教皇フランシスコ)がとても気に入っており、手紙を出す際に必ず、この絵の複製カードを同封する、ということで有名だそうだ。
絵をよく見ると、天使に囲まれたマリアは、聖霊の光と、12の星に照らされ、蛇を踏みつけている。そして、天使から手渡される絡まってしまったリボンを次々に解いて、また天使に手渡している。下の方に描かれているのは、天使に導かれて神父のもとへ向かう聖ウォルフガングと、トビアスとも言われているらしい。
この絵の解釈はいろいろできるだろう。
左側にある結び目を解き、右側へわたしている、というところからも、左脳でつくりあげた人工的なバインド(結び目)を解き、本来の物語へ戻す、という象徴的な風景にも見える。
一方、足で踏みつけている蛇も、しっかりと絡まっている。この蛇のからまりは、解かれずにそのままにされている。見方によっては、蛇的な、肉体的物質的領域におけるバインドを重視し、リボンが象徴している霊的領域における結び目を解き、肉に隷従しろ、と言っている絵、とも思えるわけだ。
ベルゴリオがこの絵に入れ込んでいたのは、果たしてどちらの意味だったのだろう、と思ってしまう。
カトリックにまつわる宗教弾圧のエピソードで何度も目にするのは、隠れてミサをやっていてみつかって捕まった、というものがかなり多い。信仰の中核には間違いなくこの「ミサ」があり、これは英語表記の音に戻せばマスゲームの「マス」であり、集団、を意味する。
要は、集団に属する安心感への陶酔、と考えても大体あっているのではないか?
よく宗教が出している啓蒙冊子で(キリスト教に限らず、立誠佼成会みたいなのも)、「子どもや夫がゲームに夢中になって困っています、どうやってやめさせましょうか?」みたいなものをみかけるが、この「ミサ」的構造を一方で礼賛し、ゲームというやり方でミサをそのまま理解して体現している様子は否定する、というのは矛盾している、とわたしは思うのだ。
そう、同じことを違う角度から光をあてて体現しているのに、別だ、と思い込んでしまうことこそが、理解と信仰の浅さだとわたしは思う。
集団の物語へ自身を結び付けるならば、その際に必ず、よくもわるくも自分の物語は切断されねばならない。それが良い意味で出るとすれば、わがままさが抑えられ、利他的な様子と言われるだろうが、悪い意味で出るとすれば、それは自立の欠如、自己の喪失に連動した無責任さだろう。
なにかを結ぶとき、それはなにかを解いている。
なにかを解くと、自然になにかが結ばれていくことを尊重する場が生じる。
ミルドレッドの魔女学校のどのエピソードだったか、賢くなる魔法を使ったら老いてしまった、というのがあったが、まさにこの「結び目=バインド」のシンボルも同じ話で、どちらの領域に働きかけるのか、という顕在意識における思い込みが、その思うとおりに作動するかどうかは別問題なのだ。
世の魔法というのは、強く、物事を片面へ偏らせようとすることを望みかけられるわけだが、かけた側がどちらへ偏らせようと思ったところで、受け手側が、どんな物語を紡いでいるか次第で、どちらにでもひっくりかえってしまう。
そういう危うさであり、希望であるシンボルが、「バインド」なのだな、としみじみ思った。
日本では結びの神、といって、結ぶ方をありがたがっており、西洋では、解く方をありがたがっているが、どっちも同じこと。。。