巡る季節と果実と病(3)
(2)の続き。
物語をもって物語を制す、という同種療法という代替療法が存在する。日本では非常に不人気で、この名前を出すと良いイメージをもたれにくいが、海外では国家資格があったりして非常に公的な療法のひとつだ。
この仕組みを知ることは、社会に自分の欲望を沿わせ、社会が許容している範囲で欲望を満たすように自分を少しずつゆがめた結果、自分の物語を失い、自分の流れというものが滞っていく、ということが同時進行しているということを知ることでもある。
同種療法は、歪んでいる状態そのもの、な物語情報が詰まっているレメディを用い、鏡に顔を映すように「あなた、自分じゃない何かに取り憑かれていますよ」とはっと気づかせるようなものだ。「嫌だ、こんなの私じゃない!」と、鏡に映った異様なかたちに驚き、叩き出そうとすることでようやく、その人が自分の内から外への循環を取り戻し、ハッピーエンドという話である。
だが、何事も加減が大事なわけで、あまりにもお手軽にこの物語情報を安易に用い始めてしまうと、人生をぞんざいに生きることが許される免罪符になってしまう、という面があるのではと思うのである。
カースト制度がひどいインドにおいて、この療法は非常に定番として古来から用いられてきているが、そのおかげで、社会において、人が人らしく扱われないことがいっこうになくならないのではないか、とすら私は思ってしまう。そういう治してくれるツールがあるなら、それでええやん、と。
これは、物事の影を一切受け付けずはねつけようとする一部のスピリチュアルが叩かれているのと同じ構造だ。
とにかく「不快感情に耐えられない」というひとたちがとても多いように思う。そして、デジタルの発達で人は、不快感情をすぐに消去できるツールを手にした故、物語を受け止める体力が落ちているのではないか?
不快をNGとするとなにひとつ深い話や本質的な話ができなくなるが、そのツケというものがかならずセットになる。それが、洗脳されやすさにもあらわれていると私は思う。不快な事を聞き入れない人は、耳障りが良いことしか言わないことの違和感に気づけないのである。
ここで、脇明子さんの「物語が生きる力を育てる」(岩波書店)より少し引用をさせてもらう。
私が興味深く思ったもうひとつの点である「不快感情の体験の必要性」ということについて説明しておきましょう。これは、人間が怒り、憎しみ、妬み、悲しみ、欲求不満、さびしさ、落胆、恨みなどといった不快な感情に振り回され、破壊的な行動に走ったり、苦しみを増幅させたりしないですむようになるためには、幼いうちからある程度そういう感情を体験し、まわりの年長者を手本にしたり、うまく手助けしてもらったりしながら、少しずつ感情処理の仕方を学んでいくしかない、ということです。
(略)
それが今の子どもたちには、とてもむずかしいことになっています。それは、ひとつの共同体のなかにいろんな年齢の子どもがいて、見守ってくれる大人もいる、といった環境が失われてしまったからでもありますが、それだけではありません。何よりの問題は、いまの子どもたちのほとんどが、不快感情の消去マシーンを持っている、ということです。
ゴールマンの本を読んで、「不快感情の体験の必要性」について考え始めたとき、私はゼミの学生たちに、「不快感情に襲われたとき、あなたたちはどうするのか」とたずねてみました。すると学生たちは異口同音に「テレビをつける」「好きなミュージシャンの音楽を聴く」と答えてくれました。たしかに、テレビ、音楽、ゲーム、マンガ、ネットなどは、とても便利な不快感情消去マシーンで、いやなことの多い世の中で暮らしていて、これらのご厄介になっていない人はめったにいないだろうと思います。じっさい、つまらないことをくよくよと気にして、どんどん深い穴に落ち込んでしまうくらいなら、消去マシーンの助けを借りてさっさと抜け出したほうが得策です。
しかし、子どものうちからそんなやり方に頼ってもいいものでしょうか。私たちが深い感情に襲われるとき、そこには必ず原因があります。それは、忘れてしまえばすむことの場合もあれば、逃げたくてもがまんして真剣に対処しないと、ますます大きな問題になってくることもあります。
(P81-82より抜粋)
このトピックは既に、今閉鎖しているブログで2019年頃に書いたのをまたリライトしているのだけれど、昨今ますます、この傾向は強まっているのではないだろうか?
「不快感情消去マシーン」によって、困ったことはすべて瞬時に機械でロジカルに解消。
これは、今新しい論点となっているメタバースみたいに、肉体を持っていることのネガティブさを消して平等に、みたいな話にも通じるものがあるように思う。
だがそれは本当にハッピーだろうか?
ある価値観からみて欠けていること、劣っていることは、別の価値観において突出した魅力や才能であったり、あるいは、いとおしく感じるポイントとなる。それをすべて消去するということは、自分が愛される客体であるということの全否定ではないのかね?という問題だ。
わたしはここに書かれているような、気分が落ちたらすぐに音楽をかけたり、気分があがるようなことをして、すぐにポジティブになるよう努力したり工夫するということができないタイプの人間だ。そのおかげで、落ちた気分をいつまでも引きずることもあるけれど、そのおかげで、物事の本質的な解決、というものが年々うまくなってきているように思う。
それに比例するかのように、世渡りは年々下手になっている気がするがしかたない。なんせ、人が精魂込めて紡いだ物語が、てっとりばやい果実として即時に消費されていく、ということに我慢ならなくなる沸点がかなりあがってしまった(笑)
物語のとどこおりをあたたかく溶かすどころか、無理やりからまったところをハサミでちょんぎって、どこかから奪ってきた物語を移植しちゃえば、あるいは入れ替えちゃえばいいやん、みたいなことの片棒は絶対に担ぎたくないといつも、思っている。
だから、この「不快感情消去マシーン」が大流行する時代に、ウケは相当に悪いだろうと自覚している。
なにかしらのプロであるということを優先させると常に、この「消去マシーン」にならねば、という義務がついてまわる。
だからわたしは、そういったプロであることよりも、内的なあたたかさというものが、あとにほのかに、余韻のように残っていけばいい、その想いだけで、今日も生きている。