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結ぶと解かれる。解くと結ばれる(1)

最近かなり、カトリックやユダヤ教色の強い記事内容が続いている。実生活においてこれらの直接的な影響を自覚していない人にとっては、わたしがなるべく「ニュートラル」な視点で書き記そうとする試みが、かえって胡散臭く見えてしまったりするのだろうな、と思いつつ、一定のコアな人には頷いてもらえるだろうな、ということで、物凄く少数派をターゲットに書き続けている。

ってなわけで、今日はこの、結び目を解く聖母マリア、にまつわるお話をしたい。なぜ今この絵やねん、というお話。

私自身が、いろいろな宗教がある中、キリスト教関連の内容についてわりと多めに関心を持っている理由の半分は、個人的なところにある。幼い頃両親がエホバの証人の信者であった。その後、クラシックのピアノをずっとやっており、アシュケナージユダヤ系がっつり、な先生(ショパンのひ孫弟子)に師事し、その文化を徹底的に叩き込まれた。そして、中高はイエズス会系のカトリックで、私はずっと週末の礼拝、折に触れてのミサでのパイプオルガン演奏や校歌の伴奏をずっとやっていた。

普通だったらそのまま、その延長のカルチャーに安住していただろう。だが私は、これらの世界でがっつり、ある意味可愛がられていたにも関わらず、超絶息苦しく、大人になって一切合切をかなぐり捨てたわけだ。

その後、あの異様な世界でいったい何が起こっていたのか?わたしは何に息苦しく感じていたのか?ということを解明したい一心で、無我夢中で生きてきた。

わたしの中で、ひととおり、これらのからくりが腑に落ちた今、あらためて、キリスト教とはなんだったのか、ということをニュートラルな目で問い直している。

本当の意味で洗脳から脱し、目覚めていきたいならば、自分なりのやり方で神を見出さねばならない、というのは真実だとわたしは思う派だ。それがないのに、押し付けられた信仰だけを否定するなら、その次にまっているのは経済への隷従、ただの虚無信仰=唯物論者 になるからである。

そういう意味で、あらゆる宗教は悪気なくただ雑なだけ、というのが正しい見方ではないかと最近では思っている。深い信仰があれば、その雑さからもっと精妙なところにフォーカスし、必ず真実へつながっていくはずで、その入り口は、雑なところから入るしかないのかもしれない、とすら思っている。

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