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巡る季節と果実と病(2)

(1)の冒頭で、木の写真を入れたけれど、ホロスコープもまさに、ASCから社会的にいちばん輝かしいMCを通り、DECまでが地上=枝葉を広げる樹木の上半分であり、DECから一番心の奥底であるIC、それからまたASCまでの地下部分が根っこ、と例えられる。

生まれた時刻がわかる方のチャートであれば、開いて1秒で、その偏りによってその人が社会的にエネルギーを使いがちなのか、プライベートに使いがちなのか、あるいは個人軸が強いのか、他者軸が強いのか、はわかりやすい。

浅いやり方で占いをするならば、社会ウケがしやすく、果実を手に入れやすい配置を持つ人を吉と呼んでもてはやし、そうでない人にはあら残念なチャートね、社会に認められるように自分を抑えてがんばりなさい、みたいないい方になるであろう。

だが、話はそこで終われない。

なぜかというと、そこで楽々と社会で活躍しやすい人の次段階として、病という裏テーマがくっついてくるからである。

本題はここからなのだ。

病とは、力の副作用である。このことはまたいろんな角度から丁寧に考察したいが、今日は社会で果実を得やすいときに、なぜ病が裏面にぴったりとよりそってくるのか、という話をしたい。

それは、なぜ果実が実るのかを紐解くことになる。

果実が実り、熟れて美味しい瞬間というのは、大きな循環の中の、ある瞬間だけである。それ以外の時期は、その瞬間をもりたてるための飾り、としか思っていない人もいるかもしれない。

ビジネスの世界における効率性とはただただ愚かしく「自分がその果実を収穫する係に当たれば楽じゃん」でしかないことがほとんどだ。

だが、自分がその、収穫の瞬間以外の流れをぞんざいに扱えば、自分の体内も、それと相似形にととのってしまう。外から不相応に、物語をほとんど壊しながら果実だけを手に入れてしまうと、自分の中の流れも同じように断ち切られて滞ってしまうわけだ。
また別のいい方をすれば、何がいるもので何がいらないものか、その区別がつかなくなる。なぜなら、流れを、物語を大事にせず、果実だけに拘るからである。

社会で活躍するためにホロスコープを読むのであれば、それは果実主義に加担する。対して、病んだ人が癒えていくために読むのであれば、滞りや塊を溶かして解放するやり方になるが、これは往々にして世間が求める「吉」「幸運」というものと逆の世界、影の世界へ光を当てる行為となる。

生贄の「贄」という文字を見ればわかるだろう。影を一切認めない社会の必須機能としての生贄(これはもちろん、メタファとしての広義の意味を含める。組織につきもののハラスメントやいじめも、生贄機能として決してなくならない)は、「幸せ」「丸い」「お金(貝殻)」でできている。組織は、普通だったらそこまで増殖が不可能なはずなのに、群れることの効用として、増殖を可能にする。だが、その増殖によって、質が落ち、生命エネルギーが薄まっている。そのツケが、贄のほふりとして象徴されるだけのことなのだけれども、もし、贄の存在を許容したくないのであれば、異様な増殖が不可能になるよう、アポトーシス機能がしっかりはたらく状態が必要になってくる。

それが、物語への敬意、それも、集団ではなく個人としての物語の、
ということだとわたしは思っている。
(3)へ続く。

Photo by Milo Bauman on Unsplash

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