りんごを解けば
迷い込んだ先は・・・
「とりあえず、ここに来て」
とメモを渡されてから、もう3ヶ月はたっている。書かれている店の名前で検索をしてもまったく情報がない。ほんとうに存在するのだろうか。信用できないな、と思いながらも、なぜか足は迷いなく、そちらへ向かおうとしている。メモだけを手掛かりに、書いてある駅で降りた。埃っぽさと、生臭くすえたような臭いが満ちているのはよくあるにぎやかな街の風景。のびきったゴムのような、暑くてすべてのやる気を失うような日差しに照らされながら、とりあえず僕は店を目指して歩き始めた。やる気がないのは日差しのせいだけじゃない。
どこにでもある忙しさに追い立てられて、自分を見失ってよれよれになっていただけのことだ。だけど、こんなに参ってしまうなんて、自分に呆れるしかなかった。みんな平気なのに、なんで自分は持ちこたえられなかったのか。平気なつもりだったのに、ある日ぽっきりと、まるでブレーカーが落ちたみたいに、どのスイッチを入れてもうんともすんとも言わず、自分で自分に呆れて途方にくれたのが春のことだった。いつもあたりまえのようにやれていたことが何もできない。起きられない。毎日毎日理由がわからないが涙が止まらなかった。そして繰り返し同じ夢を見た。夢になぜかでてきていたのは、小学生の頃、夏休みの自由研究でつくった、紙粘土細工だ。
僕はあの頃、ティーカップでできた家の中に、くまと一緒に住みたかった。なのでその風景を紙粘土でつくった。家にあって気に入っていたティーカップの中に、うずまき模様のクッションとソファがあって、くまと一緒にコーヒーを飲んでいる、そんな世界をテーマにしていたっけ。そんなことはもうすっかり忘れていたのになぜか繰り返し、このくまの世界が夢にでてくるようになった。くまの出してくれたコーヒーは、とても美味しそうなのだ。とっても、香ばしく深みがある。場所代のためにだけ存在するような、ただ苦いだけでちっとも美味しくないコーヒーとは全く違う、ちゃんと淹れたものだけの、香り。さあ飲もう、と思ったところでいつも目が覚めるのだ。そこでとっても絶望感に襲われた感じで、僕はのろのろと起きて支度をする。身支度をして、駅のホームまで行く。だけど、電車に、乗れない。体が固まって、頭が真っ白になって、乗れないのだ。それで数時間駅のベンチに座って、あきらめて帰宅する。彼女が僕に声をかけてくれたのは、そんなことを繰り返していた頃だ。
いつ買ったのか覚えてないくらい前の、無難な色の綿パンに、なんの変哲もない白いシャツ。かばんはナイロンの大きめのリュック。満員電車で前に抱えても安定しやすいサイズなのが気に入っている。休みの日なのに、平日と変わらない、景色にきれいにとけこんでしまうこの格好がお気に入りで、同じものをいくつも揃えてずっと着続けている。自分の気配を消すのが、いつからか得意になった。気配を消したまま、夕方の光の中でくっきりと主張をはじめた、ファストファッションや大型電器店の冷たく明るいLEDの照明に照らされながら歩く。いろんな色があってカラフルで美しいはずの光が、すべてのっぺりとして全部同じにしか感じられない。そしてそこにきれいに溶け込めているいつもの自分。
踏切の音が遠くに聞こえるのを感じながら、角を曲がると突然、神社でもないのに、樹齢を重ねすぎた木々がすました顔をしてみっちりと生えているエリアに迷い込んだ。あれ、こんなところ、あったっけ?もう何年もこの駅を通勤に使っているはずなのに、知らなかった。みっちりと木々が生い茂る一角は、その深さを裏付けるように、ひぐらしが鳴いているのには驚いた。かと思えば、その脇の道には、都会にしかないような、外資系チェーンのコーヒーショップがあったり、する。
さらに歩き続けると、石垣とタイルが織り交ぜられた、中近東の街にありそうな、少し乾いた印象の壁が続く一角にさしかかった。相変わらず背後からは、冷たく無機質なLEDの光がぼんやりと後光のように差しつつ、薬屋だか電気屋のテーマソングのようなものが遠くで繰り返し響いている中、乾いた石とタイルの壁がずらっと続いていく風景は、いつの時代なのかわからなくなって軽くめまいを覚えた。歴史の浅い、否、歴史がない街では、プラスチックやコンクリートで模造した石風味の偽物によって、かたちだけ同じように演出されるのが常だけれど、ここにあるのはどうやら本物のなにかのようだ。けれど、どこぞの城壁のような大きな石ではなく、もう少し小さくて軽やかさがあり、まるっこい形を生かして整然と、隙間がないようにきれいに積まれている。その石積みの中に、積んだ人の丁寧な仕事ぶりが伝わってくるのだ。この、どこか軽やかな石の間に、尾道のタイル小路を思わせるような、ひとつひとつ手で描かれたタイルやシーグラスのようなものが、丁寧に壁に埋め込まれている。一見無秩序なのに、どこか整然としてなにかが貫かれているような空間。美術館というより、誰かが想いを込めてつくった手製本のような。そういえば、とある寺院には、珪藻土の仲間が使われているものがあるらしい。聖なる空間が水晶と同じ、ケイ素で作られているなら、それはとても気持ちが良いだろうな、と思ったけれど、もしかしてこの石たちもその仲間かもしれない。だってよくある石をたくさん使った空間にありがちな、死にそうなくらい鬱々として重く、磁力と重力が強い空間とここは、かなり違うのだ。見た目には、普通の街かもしれない。けれど、空間がどこかなにか反転してしまっている。
壁沿いに歩きながら、一見地味だけれどもひとつひとつかなり個性豊かなタイルやガラスなどを丁寧にみていくうちに、見覚えがある模様をみつけた。独特の深みのある青で描かれた、素朴だけど特徴的なブルーオニオン柄。家で使っていたコーヒーカップやお皿がこの柄だったから、くまの家の柄にしたのを覚えている。懐かしくなって思わず僕はタイルに手を触れた。するとそこには、予想していた冷たいタイルの感触ではなく、やわらかくしっとりした生きた植物の感触があって、ぎょっとして手を離してしまった。しかしもう遅かった。どうやら触れたとたん、植物に戻ってしまったようだ。触れたことが引き金になったようで、さっき歩いてきた壁沿いにあったタイルに描かれていた花や実や蔦などの模様が全部、模様から植物にすごい勢いで戻り始めている。藍のタイル花は、まるで蛇のようにうねりながら広がっていき、生命力をほとばしらせながら、まるで卵の殻が破れるように、中から藍色のしっとりした、模様そのままの花と葉と茎が外にめりめりっと突き出して広がり、四方八方にまきつくなにかをもとめてどんどん伸びている。ガラスだと思っていたものは、雫や露となって花や葉を潤している。「!?」と思うまもなく、さっきまで乾いた印象だった道が、あっというまに息が詰まりそうな濃い空間に変わってしまった。
道の両側に生い茂るように触手を伸ばしてくる葉っぱや花をかきわけながら進むと、その先に人の気配がする空間にたどり着いた。植物で建物のかたちはよくわからないが、窓はみえる。だが、入り口が見当たらない。まわりをぐるりと一周してみたのに、ない。途方にくれた僕は、窓から中を覗き込んでみると、驚いて息がとまりそうになった。なんとそこには、僕が幼い頃つくった、あの紙粘土細工の世界がそのまま繰り広げられていた。粘土のくまは、あの作品の通り女の子と一緒にコーヒーを入れているではないか!悪い夢でも見ているのだろうか。
ふとあのとき、どんな気持ちでコーヒーカップをつくっていたのかという感覚が、ありありと蘇ってきた。ほっこりした空間をフィクションで作りたくなるような子どもは往々にして、日常にそんな空間がないから生み出すわけだ。あの頃の、まわりにたくさん人がいて、にこやかな空間なのに、息が詰まりそうなくらい居場所がない感覚を思い出した。くまの世界だけは、僕がそこに入っても、さっぱりとしていて、でもあたたかく迎え入れてくれた。僕はいつも、マスターのくまに悩みを打ち明け、解決してきた気がする。くまが、いつものように、砂時計のようにひょうたんのようなかたちのフラスコを用意して、お水とアルコールランプと、コーヒーの粉を慣れた手付きでセットして、ぽこぽこ沸き立つ間、忙しそうに洗い物をしたり、サラダのレタスをちぎったり、ドレッシングを手でシャカシャカふって作っていたりしていた。サイフォンは沸き立つのにとても時間がかかる。不思議なことに、湧いたお湯は、重力に逆らって上に吸い上げられていく。そして、火を止めると、ゆっくりと下に降りてくる。何度見ても飽きないし、とっても不思議だ。くまはいつも、はじめてサイフォンでコーヒーができたときのように、嬉しそうに目をキラキラさせながら、フラスコからコーヒーカップに、丁寧に注いでくれる。そこには別に、甘い言葉もなければ、僕の機嫌をとってくるようなにこやかな笑顔があるわけでもない。そもそもくまは熊なので、表情は少しわかりにくいのだ。けれど無言の、なんともいえない心地よい空間が、あった。
いつからだろう、あのくまの場所を僕は訪れなくなった。そして、コーヒーカップの作品は埃をかぶったまま、棚にしまわれている。
くまとの温かい日々の記憶を思い出し、くまがいつもしていた、サイフォンからコーヒーを注ぐ仕草が懐かしくて、ふと、同じ動きを真似してみた。真似してみると、くまがいかに優しい気持ちで動いていたかがよくわかった。何も考えなければ、もっと乱雑でカクカクした動きになっていただろう。やってみるとよくわかった。くまの気持ちのまま、動きが再現できたなあ、と思った瞬間、突然、まわりの風景がぐにゃりと歪んで、気づくと僕はミニチュアのあの部屋の中に入れていた。目の前には、動くほんもののくまと、あのメモを渡してくれた黄色いワンピースの女性が、びっくりしたようにこちらを見ている。マンガだったらこういうとき、もっと派手派手しく光り輝くまばゆいなにかが起こって、みたいに描かれるのかもしれないが、僕の場合はいたって地味に空間を切り替えてしまったようだ。地続き感覚のまま淡々と、いつもと違う世界線にひっぱられていっている感覚。いったいどうなっているんだ?
「あなた、どうやってここに入れたのよ?」
僕にメモを渡してくれたあのひとが言った。忘れもしない、あのときと同じ黄色いワンピース。アメリカナイズされる前の頃のインド人のような、センター分けで編んである三つ編みはびっくりするくらい黒々と長い。そしてやっぱり、年齢がよくわからない。年齢だけでなく、いろいろと謎すぎる。
「いやその、メモをみて…」
「ここへの入り方なんて教えてないわよ。あなた何者なの?」
まいったな、僕はただ偶然くまのことを考えていたらここにいたんだけど、どう説明したらいいのか。言葉を探して戸惑っていると、彼女は唐突に僕の両手をとった。どこか懐かしく、強烈に何かを思い出させるような感触。
「あなたも目をつぶって」
言われるまま目をつぶると、何もみえないはずなのに、世界の色彩が一気に調整されるのがわかった。彼女の手を通して、まるで画像編集ソフトで彩度や明度をスライドさせるみたいに、グラデーションでなにかが調整されている。いや、半分は僕が調整しているのかもしれない。このなんともいえない感覚、そうだ。大好きな曲に耳をそばだてて、聴き取って再現しようとしているとき、聴こえているのに、なんのコードなのかわからず、手探りで音を探しているうちに、ぴったり探し当てる感覚にそっくりだ。うまくいえないけど、僕はパズルのピースがはまったように、忘れていた感覚を取り戻した。
「おかえりなさい、私はライラ。覚えていないでしょう」
「覚えてますよ、こないだ駅のホームで座り込んでいたら、メモをくれたでしょう?」
「…どうやら、覚えていないようね…まあいいわ」
ライラは、ほとんど聴こえないような高い周波数で笑い転げた。やっと落ち着いて部屋の中を見回してみると、思っていたよりもとても広い空間になっている。しかも奇妙なのは、部屋が、まあるい。どうやら土でできていて、壁と、ソファと、暖炉と、机の境目がなくて、すべてがつながっている。
「アズマ君、駅であなたをみかけたとき、あんなに色がなくなってしまって、放っておけなかったから声をかけてしまったけれど、どうやら橋がかかってしまったようね…」
ライラはまた、何かを見通しているような物言いをする。そんなにもったいぶらないで、全てを教えてくれたらいいのに。困惑した気持ちでみつめかえすと、ライラは続けた。
「あなたにわたしたメモには、こっちの入り口は教えていなかったはずなのに、どうして?ここにこれてしまったことに自覚がないなら、このまま戻ると大変よ。せめて自分で理解して調整できるようになってから帰らないとだめね」
「何が言いたいのかよくわからないな。とりあえず、ここに来て、なんだかとても世界が生き生きと感じられるようになったのはわかった。だけどそれがどうしたって言うんだ?僕は忙しいんだよ、会社をこれ以上休めない、戻らないといけないんだから!」
少し強い剣幕で、ライラにというより、ほとんど自分に対しての憤りを吐き出すように声を荒げたことに少し後悔をした次の瞬間、なんと、今言葉にした音たちがそのまま、光る文字になって空中を舞い、次々と数字に変換され、キラキラ光りながらめまぐるしく計算が始まり、それは永遠に続くように思えた。
「…これ、何?」
「呼び出してしまったようね」
ライラはそういうと、蜘蛛の糸で編まれたような透明で精巧なレース編みのようななにかをさっとひろげた。すると、光りながら飛び回っている数字たちがみんな、すっと引き寄せられてバラバラと積み重なってしまった。目を閉じたライラが何かを念じると、デジタル数字の折れ目のひとつひとつが順番にほどけて、折れる前のまっすぐな竹ひごみたいな棒にみんな戻っていった。9も、3も、4も、全部。かと思うと、竹ひごたちは手を取り合うとゆるやかにしなって、ひとつの円になり、「0」をあらわすような大きな円になったかと思うと、ぱっと燃え上がり、灰になった。
数と力
「今の…何?」
「数の世界から天然の世界に還ってもらったのよ。ここではそれが可能なの。ここに入れてしまったということは、数の世界を可逆的に扱えてしまえるということ。だけど、そのことを最後まで理解しないまま、もとの世界に戻ると、身の危険があるわ…」
「大げさですね」
僕は笑い飛ばそうとした。けれど、笑顔をつくる筋肉のどこかが固まってしまって、笑顔のひとつ手前のところで固まってしまってすすまない。よく「明るい前向きな気もちになるために、まずは先に笑顔をつくりましょう。そうすればかたちに影響された心が、ほんとうに楽しくなってきて前向きになりますよ」と言われるけれど、もはや僕は笑顔を、かたちから先に作れなくなってしまったのかもしれない。
「ほらね。もう、アズマ君は表面的に生きることができない体になってる。そうなってしまった人の歩む道は、厳しいけれど、すべてを理解することを目指すしかないのよ」
そういうと、ライラは、どこからかたくさんの木の枝と、マッチ棒を持ってテーブルの上にじゃらじゃらと広げ、並べてたくさんのアラビア数字のようなものを作り始めた。
「ああそれ、僕も子どものときつくったことあるな。電卓の画面みたいだよね。マッチ棒を8のかたちに並べれば、減らすだけで1から9までの数字が描けるよね。」
「そうね。だけど、わたしが今並べているのは少しかたちが違うのよ、よく見て。」
ライラが並べているものは、たしかに見慣れた電卓の画面のものとも、手書きで曲線を伴って描くときのものとも、ちょっと違っている。
「これ、カクカクしているでしょう?よく見ると、折れ目の数が、その数字の数をあらわしているの。だから見慣れているものと少し違うのよ」
「なるほど。3,6,8,9を見るとカクカクしていて不自然に感じるけれど、ほんとうはこういうことだったのか。」
「そうよ。それに対して、ゼロだけは、カクカクで描かず、楕円のかたちなの。これが何を意味するかわかる?」
「さっき、両手をつないだときに感じた感覚を覚えている?」
ライラに言われて、少しどきりとした。どこか無防備な、感じたことのない不安定な感覚と、どこか信頼ができるあたたかい大きなエネルギーが入り混じった、今まで味わったことのないような感覚だったからだ。
「あれが、ゼロの世界の感覚。アズマ君からわたしに、わたしからアズマ君に、どちらからも流れていた瞬間なんだ。だけど、力の世界はこれとは違って、一方通行なのよ。わたしからアズマ君にエネルギーを勝手に押し付ける状態。その感覚のほうがたぶん、いつもの慣れた感覚で、不安はないかもしれない。でも、それは力の世界のエネルギーで、人を癒やすことはできない。社会には力が蔓延していて、力は必ず、一方通行。その象徴が、あの折れた数字。この折り曲げる力は、物質のある世界でとても重要なものなんだ。だけど、これは、愛ではない。人は力に助けられすぎると、病んでしまう。」
「ふーん。力がたくさんあったら、その力で弱い人を守ってあげたり、助けてあげたりできるじゃない。それも愛じゃないの?」
ライラは優しいけれど、少し悲しそうな瞳で、僕をみつめた。
「とにかく、今のままで元気になったからって、もとの世界に戻るとどうなるか目に見えているわ。」
ライラはそういうと、さっき机に数字のかたちにならべていたマッチ棒を1つ手にとって、慣れた手付きでシュッと擦った。すると、ゆらめく炎の中に、ゆっくりと景色が幻灯機のように浮かび上がり始めた。
オーバル
「マッチ売りの少女かよ」
マッチの炎がきっかけで浮かび上がった、球体状の幻灯機の光は、マッチだったらとっくに消えるくらい時間がたっても、全く消える様子がなかった。
「あのお話は、幸せの片側しか知ろうとしないことの愚かさ、でもあるとわたしは思うのよ」
また、ライラはよくわからないことを言い始めた。
「とにかく、ここではすべて元に戻ってしまうの。あなたはその源を理解して戻っていかなきゃいけない。さあ、順番に見せていくわ」
マッチの炎のような光る丸い空間の中には、立体的に風景がたちあがって、まるでそこに小さな世界があるように見える。最近流行りのデジタルな立体世界をみつめたときに感じる冷たさはまったくなく、そこにいるはずがないのに、ほんとうにそこにいるようなあたたかで有機的な感覚が呼び覚まされてくる。そう、香りや風までも伝わってくる。いつまでもこの風景をみていたくなるような。これはいったいどうなっているんだろう?
「アズマ君、自由って英語でなんていうんだっけ?」
「フリーだよね、さすがにそれは僕でもわかる」
「このオーバルに向かってもう一度言ってみて」
ライラは、球体状の風景のことを、どうやらオーバルと呼んでいるらしい。
「フリー」
思いっきりカタカナ英語で発声した瞬間、オーバルが反応し、なにやら騒がしくゆらめきはじめた。僕は目を凝らして、揺らめきながら変化していくオーバルを見つめていた。もやのようにうねっていた映像が落ち着き、浮かび上がってきたのはなんと、自由の女神でも、ロックコンサートで盛り上がる観衆でもなく、たくさんの跳ね回る蚤だった。
「アズマ君、うまく現実化させたわね」
ライラはまたあの超音波に近いような声で楽しそうに笑った。
「フリーマーケットは自由市場(free market)じゃなくて蚤の市(flea market)ってことね」
「僕がLとRの区別ができないまま、カタカナ英語で発音しちゃったからか」
「そういうことでもないのよ、まあ、しばらくオーバルをみつめてみて」
ライラがそういうと、オーバルの中の蚤たちは元気いっぱいに飛び回りながら、近くにいたネコたちに飛び移りはじめた。よく見ていると、少し薄汚れている子の方にたくさん飛び移っている。
「どうしてあんなにたくさんネコがいるのに、蚤が寄っていくネコとそうでないネコがいるんだろう?」
「いい質問ね。蚤もシラミも、人間の都合で害虫と決めつけている虫たちは、滞って淀んでいるところを分解して、お掃除してくれているのよ。澱んでいないところには寄ってこない。みんながだいきらいなゴキブリだって、汚れがたくさんあるところしか基本的に這い回らないでしょう?」
ライラの言う通り、蚤がよってこないでぴんぴんしているネコもいるようだ。そういえば、人間の世界でシラミが流行ったときも、精神的に参っていたり、体調が悪く老廃物の分泌が多くなってしまっている人のところにやってきやすい感じがあったかもしれない。
「確かにそうだよね。それにしても、蚤を見ると、やっぱりぞわぞわしちゃう。どうしてこの、あんまり好きになれない虫と、希望に満ち溢れた自由という言葉が、ほとんど同じ発音で紛らわしいんだろう、嫌になる」
僕がため息をつきながらそう言うと、ライラはまた楽しそうに笑った。
「あのさ、そうやって蚤が分解してくれたら、汚れてたまっていたところがきれいになるでしょ。部屋が片付くと、今度は何をしようかなって気持ちが明るくなって動き出したくなるじゃない?だから、freeもfleaも、どっちも、自由や解放のイメージというところで、なんの違いもないのよ」
「LとRの発音を間違えることで、よく笑われるんだよね。」
「そうよ。だけどそれはね、言葉とイメージの本質的な意味を知らないかわいそうな人達なのよ。」
「かわいそう?そんなふうに考えたことなんかなかったな」
「このLとRの発音の違いがない言語の代表が、日本語。日本語はシンプルで、もとをたどるととても古い言語だと言われていて、一説によるとレムリアの言葉ではないかと言われてる。レムリアの言葉の特徴はまさに、LとRの区別がないのよ」
ライラがオーバルに手をかざして目を閉じ、何かを念じると、たくさんの英単語がすごい勢いでキラキラと揺らめき始めた。よく見ると、同じ綴りだけどLとRが入れ替わっている同士、の例がたくさん並んでいる。
「うわー、こんなにたくさん、そっくりだけど違う言葉があるのか」
僕が驚いているとライラは言った。
「そうよ。蚤がいらないものを片付けて下準備してくれるからこそ、自由になって生き生き動き回れるようになる。どちらも同じ物語。オーバルにはそれが映ってしまって、現実世界のように区別ができないのよ。さて、ひとつひとつ、解いていくとしますか!」
ライラは嬉しそうに、立ち上がってコーヒーを淹れはじめた。
メリー・秋祭り
部屋の中は、僕がつくったくまのお部屋と雰囲気はそっくりなのだけど、もっといろいろな営みがされていて、僕のほうが驚かされてしまう。あの世界は僕の思いつきではなくて、僕が実際に存在するくまとライラの世界に、後から触れただけだったのだろうか。くまは、僕が紙粘土細工と毎日お話をしていた頃と同様、やはり寡黙で、だけど目は笑っていて、テキパキととても楽しそうに、手を動かして洗ったり、刻んだり、時折オーブンの様子を見に行ったりしている。お客は今の所僕しかいないようなのに、とても忙しそうだ。
アーチ型になった三方枠の向こう側に入り、ライラが何かを抱えて戻ってきた。長い間かいだことのない、甘くてとてもいいにおいがする。
「アズマ君、桃のパイ、食べられるかな。焼けたのよ」
ライラがそういって、熱々の美味しそうなひとかけらを、切り分けてお皿に載せてくれる。
「うわー、いいにおいで美味しそう。久しぶりにこのにおいを嗅いだよ。甘いものを食べたくなってもせいぜい、コンビニで売っているスイーツくらいしか買わないから、こんなできたての香りなんてどれくらいぶりだろう?」
僕は懐かしくてとてもうれしくなった。でも、ある事実を思い出してしまった。
「ライラ、ごめん。だけど僕、果物アレルギーなんだ。こどものときは大丈夫だったんだけど、ここ数年、食べると湿疹がでたりして、医者にはアナフィラキシー起こすかもしれないから避けておけって言われてるんだ」
僕はこんなに美味しそうなパイが食べられないことが悲しかった。そして、いろいろ異世界に来ているのに、どうしてこういうところだけ現実の自分なのだろう、とおかしくて笑ってしまうのを抑えられなかった。
「アズマ君、いたみ止めとか、気分をよくするくすり、たくさん飲んでいたんでしょう?」
ライラは、近くの席に座ると、くやしいくらい美味しそうに、僕が食べられないパイを代わりに食べ始めた。
「なんで知ってるの。」
「痛いという感覚が、何を伝えてくれているのか、をアズマ君は無視してしまったのよ。だけど、永遠に無視し続けることはできない。果物が食べられなくなることと、痛みを止めることが関係していると思う?」
「僕、果物だけじゃなくてアボカドとかラテックスの仲間もだめなんだ。ゴム手袋をはめたら、手が腫れ上がってしまう。」
「あのさ、火災報知器が鳴ったら、アズマ君、どうする?」
「どうするって、そりゃなにか燃えてないか確認して、もしも燃えてたら消火器で消すよね、無理そうだったら消防署に連絡」
「でしょ?痛みを薬で止めるということは、火が燃えて火災報知器のベルが鳴り響いているときに、火を消さずに火災報知器のスイッチだけ止めて、ああ、これで大丈夫だ、って安心することと同じなのよ。」
ライラは僕の瞳をしばらくじっとみつめて、言った。
「……じゃあ、僕の中でまだ火は消えていないってことなのか」
ライラにそう言われて、また鈍い偏頭痛が蘇ってきた。この痛みが来ると、何も考えたくなくなって、頭が灰色で塗りつぶされてしまう。くそっ、よくわからん異次元に迷い込んでいるなら、痛みの感覚もなくなってくれればいいのに、どうしてやたらリアルなままなんだろう?
痛みで顔をしかめて黙り込んでしまった僕をちらっとみていたくまは、冷蔵庫から生姜を取り出してさっとすりおろし、梅干しと醤油を入れてお箸で潰すように練り始めた。しばらく練ったあと、暖炉にずっとかけてあった鉄瓶に入っていた番茶を注ぎ、持ってきてくれた。
「いきなり和風やけどな、これええねん。飲んでみ」
くまがはじめて喋ったので僕はびっくりした。しかも、関西弁…
「ありがとう」
僕はそう言って、くまお手製のお茶をひとくち飲んでみた。しょっぱくて、少しすっぱい。普段は絶対口にしない味。飲み慣れている甘いコーヒーとまったく反対の味わい。飲んだ瞬間の、気持ちが華やぐような高揚感はない代わりに、じわっと、体全体があたたまってくる。その感覚がとても懐かしく、心地よかった。気づいたときには、しっかりとマグカップ1杯、お茶を飲み干していた。そして、頭の痛みが嘘のように消えていた。
「で、まだ消えてない火、は何なんやろな」
くまにそう言われて、僕は思い出したくないような、もやもやした感覚がうずまき始めた。
「君みたいになってしもた人、表の店にぎょうさん来てたで。そやけどな、ほんまの意味で今消さなあかん火を消して、ちゃんと灯した人はたぶんまだいない。まあでも、君はここに入れてんから、やれるってことやろ。がんばれ」
そういうとくまは、どこかから、くまとおそろいのエプロンを持ってきた。そう、僕が紙粘土細工を作ったときに、昭和の電気ポットにあるようなオレンジの花柄模様のエプロンを作ったのだけど、あまりうまく描けなくて、ちょっと歪んで酔っ払ったようなサイケ柄になったのが、ほんとうにそのまんまなのでおかしくてたまらない。僕のイメージ力のあいまいさがそのまま再現されている世界。引き寄せの法則とか、そういった自己啓発みたいな話は耳にしたことがあったけれども、ここまではっきりと、僕のイメージ力の結果、のようなものを現実に見せつけられると何も言えなくなってしまう。
「君が火を消して灯せるかどうかは、やってみんとわからんから。ほれ、エプロン付けて」
そういうとくまは、小麦粉や卵など材料が乗ったトレイと、ボウルや泡立て器、それからみたことがないドーナツ型の金属の入れ物を抱えて持ってきた。
「小麦はいけるんやろ、ほんならまずは、基本のシフォンケーキつくるで」
基本って…なんの基本なんだ?僕がそう思ったのを読み取ったかのように、くまは言った。
「力の世界の基本を知ることは、魔法と呪縛を知ることと一緒みたいなもんや。昔、割烹着着て研究して人気が出た人いたやろ。台所をなめたらあかんねん」
そういうと、くまは慣れた手付きで卵を割り、その殻を上手に傾けながら、黄身と白身に分けて、ボールに次々と入れ始めた。
「なんで黄身と白身を分けるの?ホットケーキとかまるごと入ってるのに」
「メレンゲつくるねん。メレンゲが一体何やねん、ってのはな、痛みのメカニズムもそのものやねん」
そういってくまは、白身だけが入ったボウルに、グラニュー糖を入れて、泡立て器で泡立て始めた。
「電気でグイーンってやるハンドミキサーみたいなやつ、使わないの?」
「あれな、使ったら速いねんけど。今日はな、ちゃんとメカニズムを知らなあかんから、自分でやるねん、ほれ」
そういって、くまに泡立て器とボウルを手渡された。
「これ、一度ゆすいでおくね」
そういって僕は流しで軽くボウルを洗って、水しぶきがついたままのものに、卵を割り入れようとした。
「あっ、それはあかんねん。水は1滴も残らへんくらいちゃんと拭いてからしないと、メレンゲが膨らまなくなる」
くまはそういって、乾いてさらっとした手触りの蚊帳ふきんを持ってきた。
「ええやろこれ、ずっと使ってるから水をよく吸うし、気持ちがいいねん」
僕は面倒だなと思いながらも、くまの言う通り、水分をきっちり拭き取ってから、卵を割り、黄身を上手に選り分けて、別の入れ物に入れた。
卵をじっくり観察することなんて、どれくらいぶりだろう。卵白は、びっくりするくらい弾力があって、ひとまとまりなまま離れない。まるで、そのひとまとまりさを引きちぎるように、泡立て器はその弾力のあるなにか、へ果敢に切り込んでいく。何度も何度も混ぜるうちに、はじめはもっちりと透明だった卵白が、空気をはらんでだんだん白くなってきた。だけど、いっこうにふわふわする様子は見られない。もう僕は腕と手首がだるくなってきて音をあげそうになってしまった。
「なかなかうまいやん。そうそう、グラニュー糖をちょっと足してみ。残りはもうちょっと後で」
くまはそういうと、別のボウルで、さっき分けた卵黄と、小麦粉と、油、水、薄力粉を入れて混ぜ始めた。
「どうせ卵黄も使うのに、なんでわざわざ卵白は別で泡立てるのかわからないな。」
「力の基本は、分けることからはじまるねん。さっき宙を舞う数字を見たやろ。引き裂いたり折るとな、そのたびに、もともと完全に調和しているものの片側が殺される。そのことが、力の源やねん。貸してみ」
くまは手際よく、リズミカルに泡立て器を回転させる。あっというまにふわふわふくらんできたメレンゲは、はじめのころのぬるぬるとしたこしのある感覚がいつのまにか消え、生クリームと区別がつかないくらい、白くてなめらかで軽く、ふわふわななにかに変わってしまった。もう、卵の白身とは思えない。完全に質が違ってしまったというのがはっきりとわかった。
「今、たぶん卵が死んだんやね」
「みてみこれ」
そういってくまは、白いクリームのような泡を少しすくって息を吹きかけ、宙にオーバルを作り出した。
オーバルはかなり薄暗い感じで、なにかがゆらめいているのに、何が映っているのかよくわからない。目を凝らしていると、トン、トン、トン、トンとなにかを刻むような音が聴こえてきた。トン、の音の感覚が少しゆっくりなので、ちょっと硬いものを刻んでいるのだろうか。しばらくすると、醤油とみりんの香りがふわっと漂ってきて、なにかが炒められている映像が次第に浮かび上がってきた。どうやら、きんぴらごぼうのようだ。さっき刻んでいたのは、ごぼうか人参だったらしい。だんだんと明るくなって、あたりの様子が見えてきた。きれいな同じ大きさの短冊のかたちに刻まれたたくさんのごぼうと人参。台所の様子から、かなり古そうな建物なことがわかる。台所というより、土間の一角のようだ。料理をしている女性の近くに、小さな女の子がまとわりついている。折り紙をしている途中のようで、いくつもの折られたカラフルな鶴と、まだ折っている途中の鶴が畳に散らばっている。女の子は、切り終わったごぼうと人参をひとつかみわけてもらうと、大事そうに並べ、すみに腰掛けて数え始めた。
「いちにいさんまのしっぽ、ゴリラの息子、菜っ葉、葉っぱ、腐った豆腐」「じゅういちじゅうに、じゅうさんじゅうし、じゅうごじゅうろくじゅうしちじゅうはちじゅうく、にーじゅっ。ねえお母さん、どうして、二十のことを、ハタチっていうんやろ。こないだいとこのまりちゃんがお祝いしてたよね、どうしてめでたいの?」
「数えるのがとても上手になったわね。きんぴらごぼうのきんぴらは、長―い階段があるこんぴら神社の金毘羅、とも音が似ているでしょう。こんぴらの音は、クンビーラというワニの神様とも言われているけど、ワニの歯のギザギザも、階段に似ているね。これは、カバラという数の魔法の秘密なのじゃないかな、とお母さんは思っているのよ」
「ギザギザ模様がどうして数と関係があるの?」
女の子がたずねると、母親らしき人は、冷蔵庫から巻き寿司を取り出してきて、食べやすいように切り分け始めた。
「ライラ、巻き寿司って、切らなかったら1本、数えると1よね。だけど、こうやって小さく輪切りにしたら、全部でいくつになった?」
「いーち、にー、さーん、しー、ごー、ろーく、しーち、はーち、きゅう。わあ、9個ある。数が増えたね!」
ちいさなライラは目をキラキラさせ、そしてそのうちの1つをさっとつまみとってポイッと口に入れ、満面の笑みでほおばりはじめた。
「こら、つまみ食いはだめっていつも言ってるでしょう。それ、みんなで分けて食べる分なんだから」
「切ったらみんなで分けることができるけど、あたしはまるごと1本食べてみたいなあ!だってたくさん食べられるもの」
ちいさなライラはそういって少しふくれた様子を見せた。
母親は忙しそうに、今度は何やら小さな手回しがついている機械と、ひとかたまりにまとまった小麦粉生地のようなものを持ってきた
。
「あなたの大好きなパスタ、つくるわよ」
そういって、母親は、機械に生地を入れ、蓋を閉めて、ぐるぐると取っ手を回し始めた。格子状になった出口のところから、きれいに揃った太さの麺がにゅるにゅると、次々押し出されてくる。ちいさなライラはそれをとても興味深そうに、じっと見つめていた。
母親は、できたばかりの生パスタを、お鍋でゆでている間、ライラは縁側に座って、気持ちが良い風を感じながら、また折り紙をはじめた。ライラが折ったものはとてもぴったりと端っこが揃っていて、羽をひらいたときにほんとうに美しい。だけど、時々少しずれているものもある。折っているうちにだんだん上達してきたのかもしれない。
ちいさなライラは、たくさんのできあがった折り鶴の中から、目が覚めるような青色をした1羽を選んで手のひらに乗せ、ふっと息を吹きかけると、なんとほんとうの鳥に変化した。鳥の方も驚いた様子で、ここは一体どこかしら、と目をぱちくりさせながら、おっかなびっくり羽を動かして、だけどちゃんと動くことに安心したのか、向かいの大きな木のところまで、あっというまに飛び去っていってしまった。だけど、さっきの少し折り方が甘かった子は、息を吹きかけても折り鶴のまま、変化しなかった。
「ライラ、折るときにちゃんと集中しなかったのね。それは結果をみたらすぐにわかる。次からは気をつけてね」
「はーい」
そういってライラはまた、折り紙を折り始めた。その日はほんとうに日差しが明るく、縁側は心地よく照らされていた。ふと、遠くから、お囃子の笛の音が聴こえてくる。掛け声と、リズミカルな金属音が、交互に鳴らされ、その音がだんだん近づいてきた。お神輿に乗っていたのは、飾りのついた箱ではなく、金色に光った牛だ。神輿はかなり重い様子で、たくさんのはっぴをきた男性が、汗だくになりながら担いでいた。
ライラの母親が巻き寿司や飲み物の入った包みを手渡すと、お囃子のひとたちは不思議なメロディーの、けれどどこかで聞いたことがあるような一節を演奏し、お辞儀をして去っていった。
お神輿が去ってしばらく、あたりは静まり返り、お料理を作り続ける母親のたてる、洗い物の音や、何かをぐつぐつ煮込む音しか聴こえない。ライラの折り鶴はどんどん増えていく。
どのくらいそうしていただろう、突然、かなりあせったような軽い足音が響いてきた。
「ライラ、この子、僕のところに来てた」
半ズボンをはいた小さな男の子は、ずっと両手をつぼんでいたのをそっとゆるめると、手のひらの中にはなんと、さっきライラが生み出した青い小鳥がいた。
「ごめんなさい、迷い込んだのね」
ちいさなライラはそういって小鳥になにか話しかけると、小鳥は男の子が来たのと反対の方向に、空高く舞っていった。
「それから、これ、お母さんが持っていけって」
男の子は、折り箱にぎっしり詰まったソーセージを渡した。
「こんにちは、ここまで遠かったでしょう。アズマ君、ありがとうね。これをおうちの方にお渡しして」
そういってライラの母親は、巻き寿司と金平牛蒡を、お土産にもたせた。
「ありがとうございました!」
「いいえ、こちらこそ」
「アズマ君、またね。」
ちいさなライラは、ちいさなアズマ君に手を振った。
オーバルに映し出されていた景色は、いったんぼんやりと暗くなって、何も見えなくなってしまった。
「そういうことやったんやな。アズマ君はこのときのこともう覚えてへんの?」
「小さかったから…でも、あの青い小鳥は見覚えがある。」
そうつぶやいて、ふと外をみると、窓の外に、さっき手のひらの中にいたのと同じ、真っ青な鳥が、枝にとまってこちらをみつめている。
「あれ、インコとか南国の鳥と色は近いかもしれないけど、かたちはスズメみたい。やっぱりライラが生み出した子だ」
そういったとたん、オーバルにまたなにかが映りはじめた。今度は、少し昭和っぽい洋風の一戸建てが見える。庭にはかたちがばらばらな、たくさんのプランターや鉢が所狭しと置かれていて、ちょうど季節なのか、色とりどりのコスモスや、放置されて勝手に生えてきたのか、セイタカアワダチソウが大量に揺れている。
「ただいま!」
ちいさなアズマ君が小走りで駆け込んだのが、この家だった。
オーバルをみつめていた僕は、また鈍い痛みにおそわれた。気づくと、僕はちいさなアズマ君自身になって、コスモスが満開の玄関に立っていた。
「おかえり、遅かったね、一体何を持って帰ってきたのか見せなさい。」
玄関に入るやいなや、母親は袋をひったくり、中を確認し始めた。ライラのお母さんがつくった巻き寿司はとても美味しそうで、金平牛蒡もつやつやと光り、ご飯が何杯でも食べられそうだった。そして、巻き寿司の下には、ライラが折っていたのと色違いの折り紙が数枚入っていた。
「なんやこれだけか。お祭りなのに辛気臭い。」
母親はそういって、袋ごと全部、ゴミ箱にそれを棄ててしまった。
「何するんだよ!ライラのお母さんと、ライラにもらったのに!」
僕は泣き叫んだ。ライラの家の、ほっこりと包み込んでくれる環境と、あの2人のことを思い出して、ぐつぐつとなにかが煮えてしまうくらい、頭に来た。僕はゴミ箱から袋を拾おうとした。
「そこをどきなさい」
母親は僕を突き飛ばし、ザルに入っていた血がしたたる骨や皮のようなものを、ゴミ箱にざっとぶちまけた。どうやらついさっきまで、台所でさばいていた豚の骨のようだ。母親がぶちまけたおかげで、巻き寿司にも、ライラにもらった折り紙にも、赤い血がたくさんしたたりおち、もう僕はそれを拾う気にはなれなくなった。
あまりのショックで呆然としている僕を、いつものように何事もなかったかのように無視した母親は、自家製のソーセージを大量にゆで始めた。
「お母さん、早くしてよ。お腹すいた」
上の階からよれよれのジャージで降りてきた姉は、つながった状態のソーセージを掴んで、首の周りにぐるぐるとまきつけてふざけ始めた。どうやら本格的に、豚一頭まるごとをさばいた後だったようで、母親がゆでている方はよくあるミンチ状のものが詰められているが、姉が首にかけているものは、日本ではなかなかみかけない、腸にみっちりと血がつめられたブラックプディングと呼ばれる、血のソーセージだ。
「これ、かわいいでしょう」
姉はそういってにやりとほほえむと、ソーセージは大きく膨らんでひとつの赤黒い塊になってぐるぐる回り始めた。そして、映像の早戻しが起こったかのように、あっという間に豚の姿に戻り、姉の頭上を走り回りはじめた。姉がまるでハエを叩くようなそぶりをすると次の瞬間、豚の体は薄くひらひらに切り裂かれた。薄切り肉たちは血をほとばしらせながら、焼肉屋で盛り付けてあるみたいな薔薇の形になったかと思うと、無数のひだひだのレースになって姉の首まわりを何重にも飾りはじめた。
「うわー!」
僕が叫ぶと、姉はきょとんとした顔で僕を見つめた。姉の首まわりからは、さっきまでの血みどろの薄切り肉は消えていて、白いレースとリボンが何段も縫い付けられたゴシックロリータ調の上品なお洋服になっていた。
「可愛いでしょう、シフォンレースをオーダーメイドでつけてもらったのよ」
「お姉ちゃんは何を着ても似合うわね。ほら、ソーセージが茹で上がったわよ。召し上がれ」
母親は僕たちの前に大きな皿に入ったソーセージを置いた。僕はほんとうは巻き寿司ときんぴらごぼうが食べてみたかったのに、もうそれは叶わない。お腹が空いて仕方がなかったから、ソーセージを食べることにした。肉汁が口の中いっぱいに広がり、美味しいとおかわりしていたいつもの味だ。だが今日は、なぜかむかむかして、ひとくち食べるともう、食べられなかった。
「メリー・秋祭り!」
姉はそういって、次々に料理を食べ始めた。神輿を担いでいた父親も帰宅して、次々に料理をたいらげはじめた。晩酌をはじめた父親は、いつものように意味のわからないことを口走りながら、声を荒げ始めた。
「お前、もっと食べろ」
そういって父親は、僕の皿の上に勝手にソーセージをいくつも乗せてきた。要らないといって、大皿に戻すと、いきなり立ち上がって、僕を拳で殴った。僕は鼻血を出して倒れた。
「父ちゃんが一所懸命働いてご馳走を用意したのに食べられないのか」
「マコトの分まで姉ちゃんが食べておくから今日のところは許してあげてよ」
レースとリボンがたっぷりつけられた服を着たままの姉が、珍しく僕をかばった。その隙に、僕は部屋へ戻ってばたんと扉を閉めた。
机の横にある本棚の左側には、このあいだできたばかりの、ティーカップの中で暮らすくまの世界があった。僕は使いかけの紙粘土を取り出して、女の子をつくって、くまのとなりに置いた。
「ねえ、これで喫茶店は忙しくなるかな。ぼくは今日、ライラに大切なものをいろいろもらったのに、全部棄てられちゃった。」
紙粘土のライラもくまも、いつものように何も言わず、澄んだ目で僕を見つめている。ライラを追加したティーカップを僕がそっと棚に戻すと、ドンドン、と壁が揺れるくらい大きな、ドアを叩く音が聴こえた。
「マコト、お前も大きくなったな。学校の勉強頑張れ」
そういって父親は、5000円札を僕の胸ポケットにねじ込み、階段を降りていった。
お札の端には、赤黒くなった血がこびりついていた。どうして、折り紙は棄てられて、お札は大事にされるんだろう。確かにお金があったらいろいろ買える。そして、お肉は栄養があって精がつく。だけど、どこかもやもやする。こんなふうにお小遣いをもらいたくない。
気づいたら僕は、ハサミを取り出して、まるできんぴらごぼうのようなきれいな短冊状にお札を切り裂いていた。5000円は、僕にとって決してちいさな金額ではない。だけど、だからこそ、僕は心の底からほっとした。
サクの世界
どれくらいたったのだろう。気づいたら体じゅうに汗をかいていた。僕はうなされて大声で叫んで、自分の声で目が覚めた。起きた瞬間、ここがいったいどこなのかわからなくなっていた。自分の家の布団とは違う、明るいグリーンのパッチワーク模様のカバーがかけられた、シンプルな木のベッドに僕は寝ていた。
「やっと起きた?」
ちいさくないライラが、僕の顔を心配そうにのぞきこんでいた。
「ここは…なんでここにいるんだろう」
「シフォンケーキを食べて、オーバルの映像をみて、疲れてしまったのね。話は聞いたわよ。私のこと思い出したみたいで、良かったのかどうか。今は辛いかもしれないけど、いい傾向ね」
「人間、あまりにも思い出したくないことは、ほんとうに忘れてしまうんだね。だけど、思い出したくないことには、思い出したくてしょうがなかったこともぴったりとくっついているらしい。」
ライラは部屋をでていくと、青い模様のついたティーカップを2つと、ティーポットを持って戻ってきた。
「ブルーオニオン、アズマ君覚えているかな」
「覚えているよ。ここに来るまでの道沿いの壁にもあった。そう、不思議だったんだよ、僕が触ると全部ほんとうの植物になっちゃったんだから」
「なんだ、もうそんなことできたんだ。じゃあ、ここにはきっと、ただ確認するために来たのね。心配はいらなさそう」
ライラは、ティーポットから、とても香りが良いお茶を注ぎ始めた。
「これ、カモミールよ。私も久しぶりに飲むの。アズマ君は、メレンゲの真実を知ってしまったというより、思い出してしまったのね。ショックだったでしょう、そういうときに、このお茶はちょうどいい。普段飲むにはちょっと強すぎる」
「カモミールって、菊のお花に似ているけど、キク科で仲間なのだっけ。キクのかたちは太陽が放射状にふりそそぐ様子とよく似ている。だから、このお茶も太陽光みたいな色なのかな」
「そう、キク科よ。キク科のお花は人を癒やすものがたくさんある。人が傷ついたり病む原因は、力の副作用。力の行使のたびに、必ず誰かが奪い、誰かが傷つき奪われる。半分は必ず被害者。キクは、引き裂かれる前の本来の自分のエネルギーを思い出させてくれる。」
「言われてみれば、たしかに半分は常に被害者…よく考えると凄まじい話だな」
「お酒のおつまみに美味しくいただける、スルメの干物ってあるよね。あれって、生きたイカを、切り開いて干したもの。保存食の魚の開きとか、ビーフジャーキーなんかも似たような感じで作られるね。あれも、放射状に広がったかたちという意味でキクと似ている。同じ「サク」の音だけど、花がほころぶ方の『咲く』と、動物や魚を「裂く」というのは、かたちは似ていても流れが逆になるよね」
「どういうこと?」
「外から割られると卵は死ぬけれど、内から割れるときは生まれる時。アズマ君、ちょっとお庭をみよう」
そういうとライラは、勝手口の扉を開けて、外に連れ出してくれた。外からは気づかなかったけれど、起伏のある地形のおかげで、決して広くはないけれど、見晴らしがよく風が通る空間が開けていた。もうほとんど太陽が沈みかけていて、あたりはすべて不思議な青い光に包まれている。ライラたちが日々手入れしているのか、ターシャ・テューダーのお庭とまではいかないものの、季節のお花や野菜やハーブたちが、土地のでこぼこした形状を生かして自然に植えてあった。どこが日当たりがよくて、どこが影になりやすいかを熟知しているようで、植えてある植物たちはみんな居心地良さそうに、自分の生命を生き生きと謳歌していた。
「アズマ君、今はコスモスが満開よ」
そういって、ライラはオレンジとピンクのコスモスを数本摘んで、僕のところへ走ってきた。
「それ、まだ花が開いてないよ、どうして咲いているものを摘んでこなかったの?」
ライラは、いたずらっぽい表情でこちらをみつめ、手をつぼめてお花を覆い、そっと開いた。
「これ、みていてよ」
ライラの手の中のコスモスのつぼみは、まだ緑色で固くつぼまっていた。と思っていたのに、あっというまに緑色の球がゆるみながらふくらみ、内側からエネルギーがほとばしるように、オレンジやピンクの花びらが外に向かって触手をのばしてきた。はじめは不揃いだった花びらは、ちゃんと開ききった頃には、完全な円に近い、きれいなロゼッタ状に広がった。
「うわあ、花が咲くときって、こんなにつややかなんだ!いつも、知らない間に花が咲いてしまっているもの。ジョージア・オキーフの絵みたいな、生命エネルギーに満ち溢れた不思議な感覚がわきおこるね。ちょっと、いやかなりセクシーですらある」
「花が咲く時、エネルギーは内から外へ流れている。生命が充実していく方向だよね。対して、裂かれるときに起こっていることは、外から内への、引き裂くエネルギーの暴力的な介入。肉体部分が切り開かれた結果、ロゼッタ(放射状)になる。方向がまったく反対なの」
「そうか、この対比と、メレンゲの話はつながっているのか」
僕は自分の中で火花が散ったような感覚をおぼえた。
「赤毛のアンのおはなしで、先生が難しい綴りができるか試そうとするシーンがあってね。菊のスペルを言えますか?ってのがあるのだけど、菊は英語でchrysanthemumと綴る。これ、名前の中にキリストが入っているわ。どういうことだと思う?」
「お花とジャーキーってことか。」
「そういうこと。キリストは生贄の磔の象徴だけれど、彼自身は、『咲く』とはどういうことか、ということをぶれずに体現する人だったようだ。けれど群れをまとめるための宗教は、彼の死を『裂く』物語の象徴アイコンとして利用したよね。裂くエネルギーを利用する神は、力の神であって、ほんとうの宇宙の根源を司る神とは違う」
「アダムとイブが蛇にそそのかされて食べた果実ってなんだったと思う?英語のappleは、りんごだけでなく、貨幣やお肉の切り身のこともあらわす言葉。そういった、物語のクライマックスで、豊かに実った物語の結晶があらわすすべて、がappleってことなんだよね。働いた物語の果実は貨幣。動物が成長し、それを屠殺して精肉にしたものも、果実。果実を食べる前までは、みんな『咲く』世界に生きていたのではないかな。知恵の果実を食べた結果、僕たちは『裂く』という便利な力の世界を知り、それが地獄の始まりとなった…」
「アズマ君があんなに苦しんでいたのは、2つの理由が考えられると思ったんだ。うつ病、というのは別に、心がきれいな人だけが陥るものでもなくて、ただわがままな人が、自分の思い通りに行かないときに落ち込んでいる、ということも同じ精神状態になるわけ。駅でみかけたとき、そこまで何もわからないけど、そして、アズマ君だ、って気づいたのはだいぶ後になってからなんだけど、とにかく、ここにあなたが来たらわかることだ、って思ってた。あなたがただ、果実が手に入らないから落ち込んでいただけなのか、どうか。」
「ひどい言い草だな…僕が自業自得で落ち込んでいたら、見捨てるつもりだったの?」
「ふふ、そういうことでもないけれど、私の方も、いろいろと覚悟をもたないといけないから、ね」
「僕はあの悪夢のような世界の出口がみつからなくて途方にくれていたんだ。ただ確かなことは、僕は他の人のように、力の果実をもらってもあまりうれしくない。『裂く』のひとたちは、自分発で、何かを咲かせようとしたり、そのために整えることを否定する。問うても教えてくれない。それは彼らが意地悪をしていると思っていたこともあったけれど、どうやら彼らもわかっていない。ただ、毎日どこかから奪ってきた獲物を裂くことを手伝えという。手伝うとご褒美に、こってりと果実がもらえる…だけど僕は、あの世界に正直あまり魅了されないんだ。」
「あなたの家族はほんとうに、『裂く』世界を真面目に実践する人々だったものね。確かに世の中は、それが主流よ。よくあなたはそこに染まらなかったわね。」
「お金持ちのお屋敷育ちの人が、ひとり暮らしている子のワンルームの部屋に遊びに行って、その暮らしぶりが心の底からうらやましかった、という話があるんだ。いったい、何がうらやましかったと思う?」
「なんだろう?」
「君が言う『裂く』のひとたちは、高価だったり、豊かなものに囲まれて暮らしているかもしれないけれど、それらは全部、自分のものじゃない。それらは全部、自分でない存在の物語の結晶で豪華かもしれないけど、いつもよそよそしい空間に生きている。日常にはなにひとつ、自分の想いと、日々のあたたかな営みがしみこんだものが、無いんだ。普通のひとたちは、高価なものは家にあまりないかもしれないけれど、日々の営みには、ひとつひとつ思いが込められていて、そのあたたかいエネルギーに包まれた空間に暮らしているし、そういう空間に整えよう、という努力を大切にしている。」
「ちょっとまってて」
といって、ライラは明かりが消えたカフェに戻り、ラップがかけてあるシフォンケーキを、型ごともって戻ってきた。
「あなたが焼いたものがまだ残っていたから持ってきたわ。この型、まんなかに穴があいているよね。これって、生きている存在の基本のかたちである、中空構造とそっくりなの。生命体は、ひとりひとり自分の中心に、エネルギーが流れる道を持っている。これを模しているのがシフォンケーキの型。卵白をきんぴらごぼうみたいにばらばらに切り裂いて、その短冊をひとつひとつ数えたら、何千、何万にもなるわ。そしてそれを、型でひとつに固める。群れがちょうど、みんなでひとつの大きな身体のように機能するのと同じね。」
僕は一口分のシフォンケーキを分けてもらって、フォークでつついてみると、ほんとうにふわふわしている。シフォンケーキは食べた気がしないから嫌、って言っていた人の気持ちが少しわかる気がした。
「僕、パウンドケーキつくったことがあるけど、明らかに、あのときに使った材料より少ないのに、できあがった大きさは2倍か3倍くらいある。膨らんでるよね」
「そう。かさが増えるでしょ。だから、みんな自立しないで群れたほうがお得だって教わることになる。」
「ライラの家が、うまく説明できないけど、僕の家のあたりまえと完全に違うということだけは、あの小さかった僕でもはっきりとわかったよ。だからこそ、そのことが辛くて、すべて忘れていたんだ…」
僕は、ライラから差し出された、『咲く』世界の招待状を、徹底的に引き裂いて息の根を止められた、あのときのことを思い返していた。彼らはもう、決して花が咲かないことを見届けた後、いきなり満面の笑みになって、これでもか、と『裂く』世界の豊かさと優しさを押し付けてくる。あの家のいつもの風景…。
「自分が咲こうとすると徹底的に否定される。『裂く』の世界では、疑問を持つと、そんなことはどうでもいい、と否定される。その代わりに、引き裂き方と、引き裂いたものの数え方を学ぶ方が重要だからまずこれを覚えろ、と言われる。それができるようになると褒められるし、たくさんのappleがもらえる。そういう繰り返しに、僕はうまくいえないけど、どこかずっと違和感を感じていたんだ。そんなときにあの秋祭りがあって、鳥が迷い込んできたから、届けに行ったんだ。」
「そうだったのね。」
『咲く』ように生きることを、生まれ落ちてすぐに、周囲の大人たちから徹底的に叩き壊されるという体験を、ほとんどの人が通っているわけだよね。みんな通っているからって、大したことない、としては絶対にいけない、と私は思うのよ。私の母はそのことをわかっていて、とても注意深く、そのことから私を守ってくれた。だから私も、このことを少しずつ伝えていきたいと思っているのよ」
「ねえライラ、不思議なのはさ、『裂く』のひとたちは、いろいろなappleをたくさん持っているじゃない?なのになぜ、足りない足りない、もっともっとって言ってるのはどうしてなんだろう。」
「いい質問ね。それにしても、今日はあわただしくてあまりちゃんとした夕飯を食べていないわね。あなたもケーキばかり食べていてはおなかがふくれないわ。今からなにか煮込んでいただきましょうか」
そういってライラは、部屋の片隅にある薪ストーブの火を起こしはじめた。
「アズマ君、赤いお鍋もってきてくれる?」
ライラは、カフェの厨房においてある、分厚い鉄製の鍋を指差した。僕は薄暗い厨房に足を踏み入れた。雑多にいろんなものがおいてあるようだけれども、空気がしんとしていて、澱んだ感覚や、変な消毒のにおいがまったくしない。棚にはびっしりと、いろいろなスパイスや、なにかが漬けられている瓶や、色んな種類の油、が並んでいる。食器棚には、サイフォン用のフラスコがたくさん並んでいる。食器やフラスコの下には、定期的に洗って入れ替えているのがわかる、清潔なリネンクロスがちゃんとひいてある。やはり、幼い頃訪れたライラの家の土間と、とてもよく似ている。整然としているけれど、すべてが優しく語りかけてくる。
「このお鍋、重いよ。何が入ってるの?」
「いろんなお豆さんよ。スープにしましょうか。豆料理はね、こうやって料理するのがいちばんおいしい」
ライラに言われた通り、薪ストーブの上の平たくなっているところに、鍋を載せた。
「こんな風に料理するのははじめてだ。」
「そうだったのね。いろいろなことがあって、ここでお店をやることになったのだけれど、こんな都会で、あの家みたいな空間にするのは結構たいへんだったのよ。こんな都会なのに、薪ストーブが使えるなんて、ここはやっぱりちょっと特別なの」
「ちゃんと火が燃えているだけで、正気に戻る気がする。僕はずっと、昼なのか夜なのか、生きているのか死んでいるのかわからない気持ちでぼんやりと、忙しさに追われて、自分をどこかに落っことしていた。」
ライラは優しくうなづきながら、薪を少し足した。お豆の鍋は、まだ沸騰しそうにない。
「薪ストーブの火は、ガスコンロみたいに強くないから、そんなに短時間で沸騰しないわよ。だけど、ずっととろ火が続く。ガスで同じことをしたらガス代がとてもかかるけど、暖房を兼ねていると、こういうことができるのよね。もちろん、このために夏の間の薪割りはとっても大変なのよ。だけど、冬のこの、ほんとうの火のあたたかさが好きだから、毎年くまと一緒に頑張っているの。時々、カフェの常連さんたちが、お茶を飲むついでに、いくつか割って帰っていったりしてね。みんなちょっとしたレクリエーションと思うみたいで結構楽しそうなのよ」
ライラはお鍋の蓋を少し開けて中を確認し、塩を少し足して、また蓋をした。
「よくある、自然が多いところに行ったら癒やされて自分を取り戻してハッピーエンド、みたいなやつ、信じてないんだけどな。けれどくやしいな、ここにくると、普段の会社勤めではすっかり抜け落ちているなにか、があるのは確かだ。いったい、あの日々と何が違うんだろう。そして、僕はどうして、みんなやれているのに、やれなくなって、電車に乗れなくなって、ライラに会って、ここに来てしまったんだろう…」
いつのまにか日はとっぷりと暮れてしまって、薪ストーブの火のあたたかい赤やオレンジ色が、より強く感じられるようになった。ライラは、どこかから、油に火をつけるタイプのランタンを持ってきて、火を灯してくれた。
「ライラ、いつもこんな感じで夜を過ごしているの?ターシャ・テューダーが非電化生活をしていてさ、ろうそくも自分たちで作っていた映像をみたことがあるけど、ライラたちもそんな感じなの?」
「さすがに私もそこまで徹底はしてないし、ここはまだまだ建物がいっぱいあるから、普段はランタンは外でしか使わないのよ。だけど、今日みたいなお話をするときには、ほんとうの火が必要だと思ったから」
徹底はしていない、といいながらも、ライラはとても慣れた手付きで火を灯し、安定した場所にランタンを置いた。
「あ、お鍋がやっとぐつぐつ言い始めた。」
部屋には、ランタンのほんとうの炎によるあたたかい光と、なんともいえないうまみたっぷり、なスープの香りがいっぱいに広がった。
「古い暮らし方って、とにかく時間がかかるのよね。手間もかかる。だけど、いつも、いいにおいだし、どこか守られている感覚がある。わたしはこれが好きなのよ」
ライラはそういって、ストーブの蓋を開けて中の様子を確認し、また薪を少し足した。
「そうだアズマ君、せっかくここに来たんだから、サイフォンコーヒーの淹れ方を覚えて帰ったらいいんじゃない。まだお豆も煮えないし、コーヒーでも飲もう」
そういってライラは、厨房からアルコールランプと、フラスコと、コーヒーの粉が入った缶を持ってきた。
「コーヒーは、くまちゃんが週に1回まとめて焙煎して、毎朝少しずつ挽いているのよ。だからこんなに香りがいいの」
そういってライラは、ろ過器のちいさな丸いパーツを、ネル生地のフィルターできゅっと包み、手渡してくれた。
「これ、ロートの部分に入れるんだよね」
「そうよ、チェーンはフラスコの方に垂らして使うの」
そういってライラは、フラスコ半分くらいにまでお水を入れ、支える台に乗せ、マッチをしゅっと擦ってアルコールランプに火をつけた。
「ロートは、いつ載せたらいいの?」
「載せてみて。わぁ、早いわね、もうチェーンのところを沸騰した泡が伝うようにぶくぶくしているわ。コーヒーの粉を入れて、ゆっくり差し込みましょう」
ライラに言われたとおりに、粉を入れたロートをゆっくり差し込むと、不思議なことに、少しずつ下から上に、まるで床下浸水がおこっているかのように、粉が持ち上げられてお湯が上がってくる。くまがやっているのをいつも見ていたつもりだったのに、自分でやってみるまで、細かい順序がはっきりとわからなかった。自分がいつも、いろんなことを、浅いところでしかみつめていないのかも、ということを、ちょっと反省した。
「いい感じにお湯があがってきたわね。そろそろ、そのヘラで、軽く粉とお湯を混ぜてあげて。そう、いい感じ」
ロートの中では、ぶくぶくした泡と、コーヒー色になったお湯と、粉の部分がきれいに3つの層に整然と分かれた状態になった。
「もう火を少し弱めて…もう消して大丈夫よ。あまり長く加熱していると、えぐみがでてしまうから。そして、もう一度ヘラで混ぜてね」
床上浸水だと、もう1階部分は全部水没しているようだ、と僕は思った。ぼんやりみつめていると、あっというまに、水分がまた下のフラスコへ落ちていき、ロートのコーヒー粉の上には泡だけがうっすらと残った。
「上手だったわね。理想的よ。カップ、あたためておいたから淹れてくださいな」
自分ではじめてサイフォンで淹れたコーヒーは、どこか特別な味わいがした。ライラも、香りを確かめながら美味しそうに飲み始めた。
「ねえライラ、僕、小さいころは本が友達で、たくさんたくさん読んだんだ。もうほとんどどの内容も覚えていないけど、本の中の世界と、普段の暮らしが地続きだった感覚があるんだ。それはもしかしたら今も変わっていないのかもしれない。その頃に読んだおはなしにさ、おうさまがでてくるやつがあって。ある国のおうさまが、いちばんおいしいご馳走をつくった者に褒美を与える、みたいなおふれをだしたものだから、国中から人がおしよせてさ。いろんなご馳走をおうさまに差し出すんだけど、首を縦にふらない。だけど、あるひとりの若者が、おうさまと一緒に、薪割りをしてお湯を沸かして、お料理をつくるんだ。そうやってつくった料理を食べたおうさまは、ほんとうに大喜びして、その若者に褒美とお姫様がわたされたというのがあったんだ。あの話を思い出したよ」
「まあ、たいていのことは、神話とか、おとぎばなしとかに同じかたちがあるよね。というのが真実かもね。それを、自分で体験して納得するということが、どれほどまでに大事かって話。今はなんでも検索したり、AIに訪ねたらきれいにととのった答えはいくらでもでてくるけれど、どれが自分にぴったりで、自分にとっての真実なのかは、自分でその物語を生きてみないとわからないのよ」
「それにしても、サイフォンコーヒーはほんとうに不思議で美しい淹れ方だよね。味だけだったら他にもいろんなやり方があると思うけど、僕はあの流れを全部みることも含めて楽しみにしているから、いちばん好きな淹れ方だな。さすがに会社に道具を持っていくことはできないけど、家で淹れられるようになったから、やってみたいと思う」
「サイフォンって、そういえば、さっき食べたシフォンケーキのシフォンと響きが似ていて、無関係じゃなさそうだね。サイフォンの原理は、重力だけを考えたらありえない、下から上へ水が上がる様子と、冷えたときにまた上から下にさがっていく、というU字に折れ曲がった動きを気圧の変化によって味わうことができる。僕、さっきコーヒーができあがるまでじっとみつめていて、まるでちょっとした瞑想をしているような気分になったよ。」
「あら、気分じゃなくって、それはほんとうの瞑想よ。」
「そうなの?瞑想って、あの茶道の庵みたいな静まり返った空間でひとり座った武士が、頭を空っぽにして過ごしてさ、そんでししおどしがカコーンってなったら我にかえる、ってやつじゃないの?」
「それはね、『裂く』の方の瞑想よ。武士って、人を殺すのがお仕事でしょう。毎日毎日、辛い体験をしているわけじゃない。だけど、それをひきずっていたら次に行けないよね。だから、頭を空っぽにしてリセットして、全部忘れてなかったことにして、ポジティブな自分を取り戻す時間が必要なのよ。ビジネスにおける瞑想は、たいていこの意味でのものが推奨されてるわね。」
「それの何がいけないんだ?」
「あのね、『咲く』の方の瞑想は、物事の成り立ちを、忘れるどころか、思い出す時間として過ごすものなのよ。さっきアズマ君が、コーヒーができあがっていく様子を丁寧に、あとで自分でひとりで再現できるくらいくいいるように、しっかりとみつめて、自分でもやってみたよね。だから今、もう一度、頭の中でサイフォンでコーヒーを淹れてみること、できるよね?」
ライラにそう言われて僕は、オーバルに頼ることもなく、自分の頭の中で、もう一度どうやって淹れていたか、のプロセスをありありと描いてみた。細かいところまではっきり思い出すことができた。
「ライラ、あんまりはっきり脳内で再生することができたから、コーヒーをおかわりしたくなったよ」
「さすがね。アズマ君は、前よりももっと、コーヒーのことや、サイフォンでいれることについて詳しくなったし、大好きになったよね。それが瞑想。物語のはじめからおわりまで全部を知り、その全部を愛すること。果実の部分だけじゃなくて、種を植えて、芽が出ない間もじっと見守って、うまく花が咲かなかったり、雨が降りすぎたり日照りすぎたりして枯れそうになっても、手入れしてあげて見守って、そうやって、実ったり、ときにかたちとして実らなかったとしても、確実に、物語は熟す。それをすべて、目をつぶらずにみつめることが、瞑想であり、愛。」
「なるほど、たしかに『裂く』の世界とまるっきり反対だね。『裂く』の世界に生きる時、プロセスについて考えないようにするほうがうまくいくことが覆いし、考えていたらやってられないことが多すぎる。だけど、考えないで居続けることは、ほんとうは、誰にとっても辛いことだ…」
「そうなのよ。考えないようにすればするほど、果実は増えるかもしれないし、そうすることへの罪悪感は薄まるかもしれない。だけど、空っぽで虚しい。ありとあらゆるものが手に入ったはずなのに、愛だけが手に入らない、自分はどんどん愛から遠ざかっているという潜在的な自覚があるから、どんどん焦ってくる…」
ライラはそういって、ストーブの上に載せていたスープの入ったお鍋の様子を見に行き、お玉ですくって少し味見をしてみた。はじめは硬かった豆はいい感じにやわらかく炊きあがり、豆と一緒に入れてあったごぼうや人参といった固い根菜たちも、とろとろにやわらかくなって食べごろになっていた。
「アズマ君も食べてみて」
そういって、ライラは中くらいのおおきさのお椀に、熱々のスープをたっぷりと入れてくれた。スープには、豆だけでなく、ごぼうや人参、大麦や生姜などが入っていて、ほんの少し辛くない程度にスパイスが効いていて、少しとろっとしていた。僕は猫舌なので、ふうふう冷まして、ひとくち頂いてみた。
「ライラ、これ、ほんとうに、美味しい。こんなにやわらかく炊けた豆、はじめて食べたよ。炊き方でこんなに違うんだ!」
「そうでしょう。時間はかかるけど、こうやって炊いたものが一番美味しいのよ」
そういってライラも、嬉しそうにスプーンですくい、美味しそうに食べ始めた。
「これ、味付けは何なの?和風なような、ちょっとカレーっぽいような。」
「なんだろう、昆布と、塩と、あとはガラムマサラをちょこっとだけ入れたのだけど。」
「昆布のうまみも、ゆっくり煮ると滲み出ていいね。これ、ほんとうに贅沢なスープだなあ」
僕は、ほんとうに心身がふわっと開いていくような、まるで花が咲いていくような喜びにあふれながら、スープをひとくちずつ、じっくりじっくり味わいながら頂いた。
「昆布といえば、北海道の羅臼が有名ね。そう、瞑想の話のついでに、羅臼のお話もしておこう。羅臼って、タイムラプスのlapseにも音が近いでしょう、関係があるのよ」
「そういえば、病が再発することも、relapseといって、もう一度ラプスする、って綴るよね。何が似ているのか教えて」
「アズマ君、神様って信じてる?日本人ってさ、無節操に、クリスマスも祝えば、神社にお参りもするし、死んだときはお坊さんにお世話になるから、海外の人からは理解不能だってよく言われるよね。だけど、それって、無神論者というより、ある意味信心深いってことじゃないの、って時々思うのよ」
「そうだよね。おてんとうさまがみているから、っていって、人がずるしたりするような場面でもマジメにやるような国民性がまだまだあるもの。僕も、特に何か宗教の集まりに通ったりはしていないけど、人間の力を超えたなにか、はあると思ってる」
「ラプスって、出来事と出来事の間の時間の間隔とか、時間経過、あとは集中力の欠如、といった意味があるのだけど、キリスト教的にはなんと、神の恩寵を失うとか、神の教えに背くって意味があるのよ。」
「えっ?それはびっくりだね」
「『裂く』方の神様だったら、無駄な時間ははぶくと褒めてくれそうなものだよね。効率が良いって。タイムラプス動画なんか、四季のうつりかわりを10分くらいで見ることができて効率的だよ。あと、映画なんかも話を合わせるためだけに見るんだったら、2倍速でいいよね。」
「そうなのよ。教えに背く、って怒っているのはあきらかに、『裂く』世界の神じゃなさそうなんだよね。そう、『咲く』方の神様。ラプスしてしまうと、昆布の旨味もちゃんと出ないし、お豆もとろとろにやわらかくはならない…」
「ラプスって、いったいなんなのか、って話をもう少し丁寧にやってみようか。」ライラはそういうと、オーバルにたくさんの単語がならんだ表を映し出してくれた。
「これ、僕がライラの世界に迷い込んでから起こった出来事のキーワードたちばかりだ!」
「そうよ。LとRでみてみると、とってもよくわかるよね」
「最近、ハラスメントについて会社で厳しくなったから、昭和みたいなちゃぶ台ひっくりかえしそうなタイプは影をひそめたけれど、それでも、権力を持った人が弱い人に、力を振りかざして暴力をふるう、というのはなくならないね。僕の育った家も、今思えばとてもモラハラとパワハラに満ちた家だったし、職場でもハラッサーはたくさんいる。今思えば、あのひとたちがやっていることって、Lの方の意味と、Rの方の意味を勝手に切り替えて、話を混乱させて、自分に都合よくしているのかもね」
「そう。そもそも、愛の世界にはルールやモラルはないの。ルールやモラルによって保たれることが、愛によってなされる、それが『咲く』の世界。『裂く』の世界では、自分から決してそれがなされない故、外から無理やり強いられて、ルールを守れ、ってされて、嫌々守る。かたちとしては似ているかもしれないけれど、そこに流れているエネルギーがほんとうに違うんだよね」
「それはよくわかるな。同じように一見団らんをしているようにみえても、不気味に張り詰めた空気があるのがハラッサーのいる家族。ライラのいるところはいつも、花が咲く優しい世界だね。」
「ルールとモラル、英語の綴りで書くと、ruleとmoralで、LとR両方が入っている単語ね。」
「そういえばライラ、あなたの名前も英語で書くとlyraで、LとRどちらも入っている」
「そうよ。私がもし『裂く』人だったら、くびきでしばりつけて隷従させる怖い人、『咲く』人だったら、竪琴を奏でて愛の歌を歌う人なの。私このあいだ誕生日だったのよ、てんびん座だから。てんびん座はlibraで、その複数形がライラというわけ。母が星が好きだったから」
「素敵だね。僕も、二度とあの『裂く』世界に戻りたくないな。だけど、僕の生きる世界と、君の生きる世界は違いすぎる…」
「そんなことないわ、あなたはもうはっきりと自覚したはず。必ず世界が変化していく。」
ライラはそういって少しさみしそうに微笑んだ。
僕は、最後に残っていたコーヒーを飲み干そうと、カップを持ち上げようとした。すると、カップが持ち上がらない。ふとライラの方をみると、なんと紙粘土に戻ってしまっている。薪ストーブの火も消えている。そうだ、くまはまだ大丈夫かな?厨房に走っていくと、くまはお皿を拭くかたちのままで、やはり紙粘土に戻って動かなくなっていた。
「嘘だ!ライラ!くまちゃん!どこにいるんだ!」
気がつくと、僕はライラの部屋ではなく、澄んでいる部屋のグレーのスチールベッドの上で目が覚めた。本棚には、埃をかぶった、くまとライラのティーカップが飾ってあった。もう、ふたりともぴくりとも動かない。
Why not become the lotuseater?
あの不思議な出来事から、どのくらい時間がたっただろう。もう忘れてしまった。あれから僕の日常は、なにか大きく変わったかというと、そういうわけでもない。ああでも、僕は電車に乗れるようになり、頭痛も二度と起きなくなり、また職場に復帰した。
相変わらず忙しさに振り回される。だけど、僕は、自分が今どちらの『サク』の物語にいるのかを、考えるようになった。
「アズマ君、君が戻ってきてくれて助かるよ。今週中にこのプランをひととおりまとめておいてくれないかな。急いでいるんだ。細かいところはいいから、とりあえず、見栄え良く頼むね」
パソコンを開くと、データの入ったフォルダの場所を指定したメッセージが上司から届いていた。
「部長、まとめるのはいいですけど、もう少しちゃんと詰めないと、後でもめることになります。こことここが矛盾していますね。どちらを選んでも良いと思いますけど、それぞれメリットとデメリットがあるので、ちゃんと稟議にまわしてください」
僕はそういって、メッセージを返信し、資料をまとめはじめた。昔の僕だったら、自分の意見をいうことなんて、できなかった。
久しぶりに、まだ日が落ちきる前に、会社を出ることができた。普段は枚なわなくてあまり訪れない商店街にあるスーパーで買い物をすると、レジの人から福引券を3枚ももらった。
「兄ちゃん、今日が最終日だから。せっかくだから回していって」
そう言われたまま、手回しの抽選箱を、ガラガラと3回回した。白い玉が2つころがり、3つ目にはなんと、金色の玉が転がり出てきた。
「おめでとうございます!特等のペアでいく、温泉旅行が当たりました!」
抽選のおじさんが、ガランガランと鐘を鳴らして、一斉に拍手が起こった。まいったな、僕そんなつもりじゃなかったんだけど。
スーパーの袋と、紅白ののしがかけられた温泉旅行の券を持ち、僕は途方に暮れながら帰宅した。部屋の入っている建物の1階には大家さん夫婦が澄んでいて、お花に水をあげているところだった。
「いつもお世話になっています。僕、さっきスーパーの抽選で温泉旅行があたったんですよ。よかったら行きませんか?」
大家のおばさんは驚いた顔をして、エプロンで手を拭いて、のしがかけられた券を受け取った。
「いいんですか?こんな高価なものを。嬉しいわ。ありがたくいただくわね」
「とんでもない、僕は忙しくて行けそうにないので。楽しんできてくださいね!」
そういってお辞儀をして、僕は部屋に帰った。
ライラ、どうしてるかな。
ライラのことを考えながら、あの日食べたのと同じ、スープをつくりはじめた。ガスコンロしかないけれど、洗濯をしたり掃除をしたり、お風呂に入ったりしている間に、じっくりコトコト煮込むことにした。
ひととおり家のことが終わり、大好きないつも見ている動画の新着分を再生しながら、出来上がったスープをいただいた。ライラの味に近い感じで、美味しくできて、僕はとても、内側からあたたかくなるような喜びに包まれた。
その晩僕は、そこらじゅうが蓮が咲き乱れている夢を見た。印象派の世界かよ、と思うくらい、澄んだ水が満ちた池に、ピンクや青の蓮が咲いている。きれいだなと思ってじっとみつめていると、会社の人も、商店街の人も、大家さんのおばさんも、みんな嬉しそうに、走ってきて次々に水に飛び込んでいく。しばらくすると、底から茎が伸びてきて、次々と花が咲き始めた。
僕も飛び込んだ方がいいのか迷っていると、どこかから「アズマ君は入ったらあかん」と、くまの声が聴こえた。しばらく呆然としていると、水の中から、頭が蓮で、身体が人間のひとたちが次々にあがってきて、みんなでぐるりと円陣を組み、歌いながら椅子取りゲームをはじめた。
博打が大好きロータスイーター
まいにちたのしいロータスイーター
まいにちおんなじロータスイーター
だけど いつか おちてくる
大きな大きな石臼が
頭が蓮の人間たちが、歌い始めると、どこかから羽の生えた石臼が飛んできて、椅子の上をぐるぐると飛び回りはじめた。3回歌い終わると、ぐるぐるとしばらくまわった後、1人の椅子の上で静止し、いきなりどすん、と石臼が落下した。落ちた人はその瞬間、きれいなロゼッタ状に切り裂かれたかと思うと、他の蓮人間たちが歓喜の声をあげ、手づかみでその肉をむさぼりはじめた。きれいに食べ終わると、蓮人間たちはひとりひとりまた水に飛び込んで行き、池は何事もなかったかのように静かになった。
目が覚めて、ほっとした。今のは夢…また今日も変な夢をみたな、と思って目覚まし時計を見た。もう10時!遅刻だ!僕は飛び起きた。遅刻の連絡をしなくちゃと焦ってスマホの画面を見ると、今日は日曜日…
そのとき、ピンポン、とインターホンの音がした。
「どなたですか?」
「あの、1階の大家です。こないだはありがとうございました」
ドアを開けると、大家のおばさんが、四角い包みを持って立っている。
「アズマさん、コーヒーがお好きだって聞いたもんで。これ、サイフォンコーヒーのセット。よかったら使って」
「ええ、いいんですか?」
「温泉、とても楽しかったのよ、ありがとう。」
そういって、大家のおばさんは帰っていった。僕は箱を開けてお湯を沸かし始ると、どこかから、ライラの声が聴こえた。
「ようこそ、自分の花を咲かせる世界に!」
あとがき
いつからか、気になった単語をみつけると、すぐにウィクショナリーで調べるようになりました。そのことでとてもおもしろい発見がたくさんあったのですが、それを普通に説明してみるととても伝わりづらい。私自身が読み返しても何がかいてあるのかわからない。そのことにずっと悶々としながら、なんとかまとめていけないものだろうか、という試みとして、この話を書くことになりました。この後、星や植物にまつわるオカルトベースのホリスティックな世界を展開させていきたいのですが、どうなるのかまだわかりません。
おつきあいいただきありがとうございました。
素敵な熊の絵と、りんごの絵を描いて下さったのは大門知子さんです。ありがとうございました!
それから、サクの世界にでてきたエピソードは、あのこは貴族、という映画のワンシーンです。上流階級のひとたちの本音、のようなものを丁寧に描いていてとても良い作品なのでおすすめしておきます。原作は小説ですが(まだ読めていない)、映画版は、小説にはないシーンがたくさん追加されているようで、それがいい意味で作品を深めているようです。
わたしなりに稚拙ながら、愛の世界とはどういう世界なのかな、ということを試みで描いてみました。かなり冗長なところもあったりするのですが、等身大のわたしの試み、ということでご笑覧いただけたら幸いです。