Panda Bear = Noah Lennoxについて
わたしはPanda Bearというアーティストが好きで、彼の音楽はもちろん、ちょっとしたエピソードを耳にしたり、人となりを垣間見てはいちいち感心することしきりだ。単に好き好きバイアスがかかりまくって、やることなすことよく見えているだけのあばたもえくぼ状態なのかもしれない。その可能性(危険性)はじゅうぶんにあるのだけど、この世知辛い世の中を生きていく上で、誰かや何かにそういう風に感じることはお花のようなものだから、まずは祝福すべきことだと考えている。もちろん程度問題ではあるけれど。
彼のことを知ったきっかけは、やはりAnimal Collectiveだった。ひいきのラジオ局で彼らの曲がよくかかっていて、おおおこれは好きだと思い、「Merriweather Post Pavillion」を入口としてリリースされていたアルバムを聴き始めた。そして、どうやらこのバンドにはボーカルが2人いて、すごく口数の多いテンション高めの人と、よく伸びる声のどこかゆっくりした感じの人がいるなと気づいた。どちらもよいのだけど、特に魅力を感じたほうのよく伸びる声がPanda Bearのものだと分かった。そして、彼のソロの作品を聴くようになった。
彼の楽曲はアルバムによって傾向が多少変わる印象がある。古い曲のサンプリング、がっつりした打ち込み、アコースティックギターのみ、手法としてはいろいろあるけど、いろいろなだけに彼の音楽のぶれない軸のようなものをむしろ感じる。あれは単なるリバーブの響きや、多重録音のコーラスとかメロディラインのことだけではないように思う。楽天的だったり神秘的だったりしていても、彼のつくる曲はどこか牧歌的で一貫して民謡のように素直でのどかだ。それでいて、単に口当たりがよいだけにならず、どこかしら面白く不気味で、じゃっかん何かが過剰な音の世界が広がる。そしてなにしろ彼の歌声がなにより絶対的な存在感を持つ。彼の声には、ある種の風通しのよさ、明るい響きがあって、とても力がこもっているのにふしぎな抜け感もある。ときどき声が鼻にかかったり、ちょっと不穏な感じに揺らぐことがあるのだけど、それでも歌うことをしっかり体得している感じがするのが好きだ。彼の歌い方は音を長く伸ばすのが特徴的だと思うが、声の出し方にちゃんと訓練されたような安定感があって、自由な作風とのこういう混ざり合いは割とめずらしいのでは、と思っていたら、高校で合唱団に入っていたというのを知ってすごく納得した。
インタビューの映像を見ていると、Animal Collectiveとしてインタビューされている時にはほとんど口を開かない(口数の多い方のAvey Tareに任せているのが分かる)。マイペースで、必要以上に感じよくしなくて、余計なサービス精神がない。無愛想ではないがポーカーフェイスだ。ライブでいわゆるMCをやっているのを見たことがない。ソロのインタビューではさすがに喋る。ひねくれたりはすに構えた素振りもなければ、気の利いたことを言ってやるという感じも皆無で、誠実な感じできちんと受け応えしている。たいてい、最初から最後まで顔色ひとつ変わらない。
彼の笑顔は、YouTubeのライブ映像ではまず見たことがなかった。ネットに溢れかえるあまたの画像の中では、10年くらい前のAnimal Collectiveの写真できれいな歯を出してにっこり笑っているやつを3枚だけ見たことがある。無表情な彼の顔にあまりにも慣れているので、その屈託のなさにはっとする。へえ、笑うんだ、かわいいな、と思う。
Panda BearのWikipediaのページはすごく充実していて細かい情報も多く、かなりコアなファンの人か関係者が編集したようだ。Panda Bearは高校卒業後にボストン大学で宗教学を専攻していたと書かれてあった。すぐ中退したらしいけど。それを読んで、わたしはモントリオールの郊外にある教会に行ったときのことを思い出した。
そこはかなり有名な教会らしく、両脇に花が咲き乱れる非常に長くて白い階段を上りきったところに立派なチャペルがあって、重いドアを開けて中に入ると、おごそかにミサが行われていた。どのような宗教であれ、祈りの場に居合わせると神妙に心が鎮まり、その場に「いさせていただく」みたいな気持ちになる。当時はフランス語もまったく分からなかったが、状況がよく分からないなりに集中して事の成り行きを見守っていると、やおら神父が讃美歌を歌いだした。それが…聴いていてポカーンと口が勝手に開いてくるレベルの圧倒的なうまさだった。ミサに讃美歌がつきものなのは当然だけれど、まさかここまでハイレベルな音楽的体験をするとは思っていなかったから、フラットな状態の自分に、その歌はストレートにガツンときた。歌はありがたいお話を交えながら何曲か披露された。神父が歌うたび、待ってました!と心の中で合いの手を入れて聴き入った。そのあと何度か教会関連の行事に参加したけれど、今でもあれを超える歌声の神父には巡り合っていない。
神父は明らかに歌うことを楽しんでいたと思うし、歌がうまいのも自覚していたと思う。そしてそれを使って、神様とコネクトしようとしている感じもした。自分の才能を供物としてささげているような、「上」に行こう、近づこうとしているような。だからあの歌には自我と無我の両方がある気がしてずっと忘れられなかった。Panda Bearの歌に感じるのも同じようなもので、一般的な意味でのうまい歌い手ではないけれど、彼は歌う時にものすごく意識を集中させていて、完全にそれに没頭している。同時に、何かのチャンネルをぱかーんと全開にしているのが分かる。ライブではほぼ不動で、ひたすら目を閉じて歌っていて、観客とわかりやすい形でのコミュニケーションを取らないけれど、かなり無防備に自分を差し出しているように感じる。こんな風に歌う人を、いわゆる商業音楽の分野ではわたしは他に知らない。だから彼にとっては歌うことや音楽を作ることが、どこか宗教的な意味合いを持つかもしれないし、そこに興味を持って学びたいと思うのはとても自然なことだと思った。
これはきわめて個人的な好みや傾向の話になるのだけど、音楽の中になにかしらフィジカルなもの、もっと言うとスポーツに近い高揚感を覚えることがある。単に体育会的なものというのではないんだけど。スポーツを見ている時に、自分の内側の何かがゴオォォと強く共鳴することがある。そのスポーツをやったことがなくてもなる (ホッケーとか)。あれを音の中にも感じることがある。ステージ上で楽器を実際に演奏していると具体的にフィジカルで分かりやすいけれど、シンセのつまみをひねっているだけの人にも感じることはあるし、人の姿の見えないデジタル音源でもフィジカルだなと思うものはあるので、あくまで音そのものにある、そういうグルーヴなのかもしれない。Animal Collectiveにもそれはよく感じるし、Panda Bearも然り。「Brother Sport」や「Surfer’s Hymn」という曲に、例の高揚感と共にスポーツのある種の結果主義的な厳しさが歌われていて、単にサイケデリックで甘く夢見心地なだけではないところがすごく好きだ。
そして、最近になって妙に彼の「Benfica」という曲にとりわけ強く揺さぶられるものがあった。2011年リリースの3枚目のアルバムの最後の曲で、前から知っていたのに、いきなりあのゴオォォがくるようになった。
曲名のBenficaってそもそも何?と改めて思って調べると、ポルトガル・リスボンの強豪サッカーチームであることが分かった。おーリスボンって言ったら彼が結婚して移り住んだ土地ではないか。その地元のチームに対しての思いを歌った曲だったのか…わたしも移民の身なので、それがどういう気持ちなのか、ちょっと分かるなあ。地元のスポーツチームを応援するのって、そこに対してなんらかの帰属意識を持つことなんだよな、と思う。熱狂とカタルシスを繰り返して、そのチームと土地への感情の結びつきが強くなっていく。そして、彼らのために歌を作るということの真摯さに胸を打たれた。歌われているのは勝利することへの、現実的にまっすぐな思いだ。どこか祈りに似たひたむきさすら感じる。
そして、あのゴオォォの正体は、サッカー場を埋め尽くす観衆の叫び声だった。少しエフェクトをかけてあるけれど、まぎれもなくファンたちが作り出す歓声の渦がそこにあって、それによってわたしはあの得も言われぬ高揚感を覚えていたのだ。
Panda Bearは他のアーティストとの共作も多いのがまたよい。Daft Punkとのコラボが一番有名かも知れないけれど、Atlas Soundとの「Walkabout」のループする明るく無邪気なサウンドは、この2人だからこそという感じがしてとても好きだ。
先日のnoteに書いたBraxe + Falconとのコラボもよかった。ただ、最近の作品は声の感じがさすがに変わってきたなあとは思う。若い時のハリとツヤが少しずつ別の質感になってきた。でも、どこに行って何を歌っても、彼の声のエモーショナルな響きは心地いい。夏の終わりに、Animal Collectiveのライブも見に行けるかもしれない。年齢的にも同世代で、同じ年頃の子供もいたりして、息が長くコンスタントに常におもしろい作品を出しているアーティスト、意外とそう多くはない。ソロの新譜を作っているという話も聞いた。Panda Bearをリアルタイムで追うことができるのって、しみじみありがたいなあと最近思っていたので、こうやって作文にまとめておけてよかった。
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