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日記

9/29(火)
朝、自転車に空気を入れて会社へ。自転車はGIANTで買った青いクロスバイクに乗っている。初回無料メンテナンスがあったはずなのだがいってないまま一年ほど経とうとしていてやばい。漕ぐ時に異音とまではいかないものの軋む音がたまにする。今度の休みに行こう。日記に書くことで自分へのプレッシャーになる気がする。
仕事では図面を描きまくった。そして部品のコストを調べまくった。部品にはさまざまな歴史やトレンドがあって面白い。
休み時間に、種苗法改正についてのコラムを読んだ。5月ごろのインターネットでは反対派の主張を多く見たから、賛成の内容っぽいものを読んだ。曰く、登録品種はF1種(雑種第1代)のものが多く、F1種を自家採種することはまずないのだそうだ。たしかに、中学校の理科でならった遺伝の記憶をぼんやり頼るとなんとやく想像がつく。従来、そのような品種を育てるときは農家は毎年種子を購入する必要があるのだそう。なるほど。割りを食うのはF1を自家採種する物好きや、品種登録されている固定種を自家採種する農家(こちらはかなり限定的なケースなのか?よくわからん)なのだろう。それよりは、海外への流出防止の施作の一つを進めるメリットの方が大きいという判断なのだろう。
なんかぐるぐると調べてたらそんなに悪法と断じることはできない気がしてきた。気づいていない落とし穴があるのかもしれないけど。もう少し調べてみたい。
帰宅して、親子丼をつくる。YouTubeで「料理のお兄さん」のリュウジさんの動画を見ておいしそうだったので。最初に鳥もも肉の皮に焼き目をつけることで香ばしくなるらしいんですが、あまりわからんかった。でもうまかった。

注文していた『現代短歌』11月号が届く。BR賞はボリューミー。3200字という分量が風呂敷をどこまで広げるかのストッパーになってるように思う。広げなさすぎても広げすぎてもなかなか刺さらない。僕も先日短い書評を書いたので見直してみたら、5行ほど書き直したくなった。こういう企画があると、似たようなフォーマットで自分ならどう書くか試したくなる。多分やらないけど。
同号の「第一歌集ノオト」で生沼義朗さんがビギナーズラックを取り上げてくださっていた。ありがとうございます。僕の歌集はおそらく、新しい文体を開拓するものというよりは、既存の文体をどう使ったのか、という目線で見られうるものなのかなと思う。
思い出話をする。僕が短歌をはじめた2012年は永井祐『日本の中でたのしく暮らす』が出版された年で、翌年の2013年には堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』、五島諭『緑の祠』が出版され、口語で短歌をやる以上必然的に影響を受けてしまう3冊だったとおもう。一方で京大短歌の先輩たちも、2013年に大森静佳『てのひらを燃やす』、2014年に吉岡太朗『ひだりききの機械』、2015年に土岐友浩『Bootleg』などを出していて、こちらもよく読んだし影響を受けた。そしてもちろん歌会をともにしたひとたちも。いろいろなものに影響されながら自分の短歌は作られたようにおもう。一時期は吉野裕之さんの影響が色濃くあったり、佐久間慧さんに憧れて気が狂いそうになったときもあった。
自分が好んで使う文体が、自分独自の文体でないことは苦しいが、それでも苦しみながら書くしかないんだろうなとおもう。いったい文体ってなんなんだろう。悩む。

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