うまく「悩みを聞いてもらう」方法と効果を実感した日
私は、悩みや不安を人に話すことが苦手だ。
悩みや不安を、苦しさやイライラした感情をのせて話すと雰囲気が暗くなるし、相手に励ましてもらううちに、しゅんとした気分になってしまう。
相手が「励ます側」で、自分が「苦しんでいる側」という立ち位置で話を締めると、楽しい会話の中で、自分が随分と落ち込んだ場所で話を終えてしまう気がするのだ。そしてその気分を引きずってしまう。
さらに、友人たちや家族の応援の言葉は温かく、力強く、とても嬉しい。だが、話を聴いてもらった後は、心が軽くなった気がすると同時に、相手にうまくお礼を言おうとして新たな悩みが生まれ、だんだん気持ちも冷めてしまう気さえするのだ。
なんと厄介な!
悩みや不安を、気持ちを入れ込んで話すとどっと疲れてしまうので、人にこういった話を打ち明けるのは苦手なのかもしれない。
3ヶ月ほど前の話になる。
パート帰りの挨拶の流れで、先輩方と立ち話になった。
話題は、妊婦である私の体調や赤ちゃんの性別、出産予定日のこと、先輩方の帝王切開だったか普通分娩だったかなどの出産の思い出などなど。
「ああだった、こうだった、そうだったのね、痛そう~!」
と、きゃぴきゃぴと思い出話に花が咲いた。
その中で、
「あわみさんとこは、上にお子さん2人でしょ?
出産の時はお義母さんに見てもらうの?旦那さんがお休みするの?」
という話が出た。
同居義母の存在が今の悩みのたね(注:あふれ出すグチ)
みんな私が義母と同居していることは知っている。
だが、義母の存在が私の悩みの種であるという認識はきっとなかったと思う。
義母との生活は、私にとって心身ともに大きな負担となっている。
義母は、積極的な介護は必要ないが、家族の一員として家事や育児に参加するわけでもない。私たち一家の面倒ごとは避けるが、自分の面倒ごとは何とかしてほしいし、自分を楽しませてほしいと思っているようなのである。
例えば、
孫やペットたちの世話は背負いたくないが、懐いてほしいし可愛い姿を見たり撫でたりくっついたりはしたいタイプ。
もっと具体的な思い出を話せば、
急に外国産のステーキ肉を買ってきて、私に焼かせ、自分は自分の買ってきたお肉を食べる孫を眺めてニコニコするだけのタイプ。
意地悪な言い方だが、自分の手を煩わせずにおいしいところだけ取りたいタイプに感じるのだ。
夫の母とはいえ、知り合って数年の赤の他人。
同居するならば家事の役割分担や、困ったときに助け合うことなどがあってしかるべきだと思っていたが、どうも彼女はそうではないらしい。
同居の話が持ち上がった当初、2番目の子どもが生まれたばかりだったので「きっと騒がしくなるので、無理しないでください…!」と嫁らしく遠回しに断っていたのだが伝わらず。
同居に至るまでのできごとを話せば長くなるのだが、要するに私はしぶしぶ了承したのである。
ごめんなさい、止まらないよグチが
そうこうするうちに同居が始まった。
家事や食事作りの分担をしようと何度となく話を持ち掛けるも、のらりくらりかわす義母にもやもやする日々が続いた。
さらに思い付きで食材を買ってきては、キッチンの向こう側からレシピを読み上げつづけ、赤ちゃんをおんぶした私に作らせようとするのである。
義母の言い分としては
「今までさんざんやってきたから」
とのことだったが、それはあくまで義母の送ってきた人生の苦労で。
私がこれからの義母の生活を背負う理由にはならない。
義母のこれまでの主婦としての生活の苦労と、私の主婦としての生活は何ら関係ないはずである。
目の前の子育てと自分の体調管理に精いっぱいの私にそう言ってのけた義母に失望した瞬間である。
その他もろもろ、私に面倒ごとを押し付けてくる事態が多発し、
決して「協力して一緒に暮らしている」とは言えない状態なのだ。
さらに近頃、認知症のような症状がチラ見えしているので、介護へのカウントダウンも現実味を帯びてきたため、気が滅入って仕方がない。
義母に産後の手伝いは「頼まない」の一択
そんなわけで、産後、義母に手伝ってもらうという選択肢はまったくない。
そもそも、義母は孫がケガをしても平気なのである。
自分のせいではないことを弁解することが先に来るので、信頼できないのだ。
むしろ、自分が転倒するときに孫にしがみつき、下敷きにする始末。
それで孫に謝らず「痛い、恥ずかしい」と騒ぐので申し訳ないが危険人物なのだ。
子どもが新生児のときも、手を洗うのを拒否して触るし。
立ち止まらず、前傾姿勢のまま子どものもとへ猪突猛進するさまに、新米嫁の私は恐怖におびえながら「あの、洗面所はこちらで、手を」と繰り返すしかできなかったのも懐かしい思い出。
とまぁこんな風に、
認知症かもしれないという理由以上に、これまでに子どもたちを大切にしてくれなかったひとに子育てに関わってもらうなんて怖くてとてもできない。
長々とグチってしまいました、ごめんなさい!
どす黒さをうまく吐き出せない日々
個人ブログならなんとか吐き出せるんだけども(吐き出しすぎ)
生の会話となると、途端にやり取りが難しくなるのはなんでなんだろう。
対面して限られた時間の中で、伝えたいことをスムーズに伝えられないのが原因かもしれない。感情が混ざるとなおさら。もどかしくなってしまう。
話を本題に戻さなくては。
悩みの吐き出しがうまくいったと感じた理由
今日、先輩方との会話でなぜうまく「悩みを聞いてもらえた」と感じたのか。
それはズバリ。
最新の困りごとを、事実のみ淡々と伝えることができたから
ではないかと思う。
「産後はお義母さんに手伝ってもらえるの?」
に対して、
・頼まない(頼めない)こと
・無理だと思った出来事(認知症疑惑)
を話して、先輩方も
「えー!そりゃ無理だわ!」
「ショートステイ予約だよ、予約!」
という風に、私の考えにズバッと共感してくれてスッキリしたのだ。
また、井戸端会議的に短時間の立ち話だったのもよかったかもしれない。
淡々と事実を話して、どんどん共感してもらえて、ですよね!?と笑って。
テンポよく進む会話にマイナスな感情を混ぜるタイミングはなかったと思う。
あと、マンツーマンでなく、3人で会話したのもちょうどよかった気がする。
2人が代わるがわる反応をくれるし、それぞれ関連する話題も出してくれるので、私自身が話し手から聞き手へ、聞き手から話し手へとくるくる変わりながら会話を楽しめたのも大きかったと思う。
これが人数が多すぎる場だと、自分が話した内容が埋もれてしまい、もやもやと消化不良になっていたかもしれない。
「事実のみ×井戸端会議×複数人」で話して昇華!
同居義母の話題は、私にとって結構な悩みなもんで、マンツーマンで腰を据えて話せば重くなること請け合い。
短時間に数人で分け合って話すくらいがきっとちょうど良いのだ。
昔から主婦の間で井戸端会議が開催されてきた意味がわかった気がする。
愚痴は悪いことばかりではない。
「健全な愚痴」というものが存在するのだ。
溜まったものを昇華させて、
文句なしに心が軽くなった出来事だった。
職場の先輩方、ありがとう!!
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