何者でもない者たちの物語:烈火の魔女と本読むゴブリン#8
#8.陰謀談義
岩場をぬって流れてきた一筋の水が、乾いた土を湿らせ、やがてそこに水たまりを作るかのように、チーグ王子が帰還の旅路についたという噂はゴブリン王国の地下王都・リフェティに瞬く間に広まった。
王子の帰還を喜ぶ者、喜ばぬ者、それぞれが噂話をし、利害のある者は陰謀を巡らそうとする。何の利害もない一般のゴブリンたちも、チーグが無事に帰るか帰らないか、帰るとして東西南北どこから帰るか、といったことの賭けを始めていた。
父王ボランは、チーグが無事に帰還したあかつきには王位を譲るつもりであったが、チーグの帰還を“喜ばぬ者”が身の回りにあまりに多いため、この件については口をつぐんでいた。もっとも、チーグの帰還が喜ばれぬ理由も良く理解できる。チーグが人間の文化を持ち込むことによって、古き良きゴブリンの伝統が崩れ去ってしまうのではないかという、王国の長老たちの懸念ももっともだ。
だから、ボランは成り行きに任せる覚悟をしていた。
そんな王の思いを知ってか知らずしてか、次代の王位をかけての駆け引きが、至る所で行われつつあった。
約束の一年以内にチーグが帰国せぬ場合、自らが王位につくと言ってはばからない野心家の第三王子ヨーは、表では王国への唯一の公式な入り口である西門、通称<岩門>に私兵を配置してチーグの帰国を阻む姿勢を隠さず、裏ではチーグの首に懸賞金をかけて賞金稼ぎたちに追わせていた。
王国の西を塞げば、王国への帰還はかなり困難となるというのが、ゴブリン王国の常識であった。
リフェティの北は、アリグナン山脈の険しい山々が切り立っている。山中深くに住むノーム族との古い交易路があるが、その道はうち捨てられ、荒れ果てている。ノーム族も友好的とは言いがたく、ここを通るのは現実的には難しい。
リフェティの南には、ゴブリンたちが恐れて近づかぬダネガリスの野が広がっている。ゴブリン族唯一の大魔法使いヤザヴィがかつて住まいとした場所で、立ち入る者に死をもたらす危険な呪いが大地全体にかけられている。いまとなってはむしろ、南から敵を近づけぬための役割を果たしているとも言えた。
そいてリフェティの東には、ゴブリン族よりも遙かに強力で邪悪な魔物たちが暮らす荒れ地が広がる。南西からリフェティを目指すチーグたちがこの地を通るのは、かなり無駄な遠回りをすることとなり、物理的には不可能だ。
よって、<岩門>を塞がれた時点で、チーグの王国への帰還は難しいものと思われていた。
「兄上は南のダネガリスの野を通る」
空気を求めあえぐような弱々しさを含んだ声が、ランタンの灯りに照らされた石造りの部屋に響く。ここは、地下に作られた宮殿の、第二王子バレの部屋だ。
「そのために、魔法使いの道連れを探すと言っていた」
そのささやきの語尾は、咳に飲み込まれた。ランタンの灯りが石壁に映し出すバレの影が、苦しそうに歪む。
その影と相対する影がもう一つ。
バレの咳が収まるのを待ってから、口を開く。
「・・・チーグの性格を考えれば、俺もそう思うぜ」
そう言って、影が揺れる。それは、笑いのためだった。
「しかし、まさかあんたが俺たちに情報をくれるとは、チーグもびっくりだろうな。バレ殿下」
「うん、そうだろうね」
弱々しい声が答える。
その声の主は、第二王子のバレであった。病気がちで寝込むことも多いバレは、自身が王位につく野心など持たず、第一王子のチーグを慕っていると評判であった。
ゴブリンにしては色白で、気弱そうなその顔立ちは、妖精のようだとよくからかわれたものだ。
もう一方のゴブリンは、やぶにらみの目に左側の口元をゆがめるように上げるくせがあるダンという者だった。左側の牙が常に唇の隙間から覗いており、人間たちが想像する“典型的なゴブリン”の印象そのままの性悪さを放っていた。
ダンは保守的な有力氏族の次期族長で、チーグの帰還を嫌う長老たちの支持も得ているともっぱらの評判である。
彼自身も、怠惰で、ずる賢く、労働よりも略奪を好む“古き良きゴブリン”を理想としていた。
「チーグを始末しても・・・今さら文句は言うなよ、殿下?」
歪んだ左側の唇がさらに大きくつり上がる。
「うん・・・だけど、放っておいても勝手に死ぬんじゃないかな?ダネガリスの野で」
そう言って再び咳き込む。
「いや、奴はそんなに甘くはない」
咳がやむのを待たずに、ダンは力を込めて言った。
「ダネガリスの野に入られたら、逆に手を出しにくい。その前に、始末する」
「・・・でも、どうやって?」
「古い友人がいるんだ」
ダンは自らに話しかけるようにそっと言った。
「ふうん、それはいったい、誰?」
「あんたは知らない方がいいだろう」
そういって、邪悪な笑いを浮かべる。しばらく悦に入ったのち、くるりと背を向けた。
「じゃあな、チーグの奴が南から来ると教えてくれて、ありがとうよ」
「・・・僕を王にするという約束、忘れないでくれよ」
バレは弱々しいながらも鋭い声をダンの背に投げかけた。ダンは、それを振り払うかのように軽く手を上げて見せた。
「もちろんだぜ・・・もちろんだとも」
そう言ったダンの表情を、バレは見ることができなかった。
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