サントエルマの森の魔法使い #1影を追うひと
第1話 影を追うひと
沈む日を背に、長く地平まで伸びる影を見つめていた。
オレンジ色に包まれた黒い影は、ゆらゆらとしてどこか儚く、こみ上げるさみしさに震えているかのようだった。
彼女はため息をつきながら良く夢想した。影が笑いながら手を振っているさまを。
母は彼女を愛していたが、その愛は彼女に息苦しさも与えていた。
家に息をつける場所はなく、彼女はよく夕暮れに野へ出かけていた。影と遊ぶために。
父は彼女が幼き日に出て行ったまま、帰ってくることはなかった。
父の記憶は、夢の中でゆらめく陽炎のように淡く、もはやそれが真実であったかどうか知る術もない。
父がなぜ家を出て行ったのかは分からない。けれども、行った先は分かっていた――――――偉大なる魔法使いのみが足を踏み入れることが許される聖なる地、サントエルマの森。
古い石と木の匂いがする湿った空気を鼻腔に感じて、彼女は目を覚ました。
窓から差す陽光を眩しく感じ、彼女は端正な顔を歪めた。恐らく既に昼前・・・また寝過ごしてしまった。
ここはサントエルマの森の学びの塔にあるラザラ・ポーリンの部屋。
古い石造りのその部屋には、魔法を極めんとする者にとってはありがちであるが、無数の難解な呪文書や魔法の触媒、実験道具、メモのための羊皮紙、羽ペンなどが散乱していた。
今日は上級魔法のための触媒となる植物学の試験の日だった・・・が、既に試験には間に合わない。ポーリンは乱れたセピア色の髪をかき上げると、投げやりにため息をついた。
「試験を受けようが、受けまいが、どうせ落第だわ」
ラザラ・ポーリン、23歳にしてサントエルマの森での学究に選ばれし魔法使いの一人・・・のはずであったが、ここへ来て、彼女は伸び悩んでいた。
彼女は魔法の才に恵まれていたが、この森ではそんなことは当たり前である。
真に優れた魔法使いのみが集うサントエルマの森では、かつて異才と呼ばれた彼女も平凡以下の存在だった。
サントエルマの森の魔法使いの証であるローブを身にまとうことを、未だに許されていない「学生」である。
傑出した才を示せ、さもなくば去れ。
それはサントエルマの森の魔法使いたちに課せられた不文律である。
才に恵まれた魔法使いたちが集うなかで、さらに異彩を放つのは容易なことではない。
―――――ここを去る・・・母親の待つ故郷へ帰るか?
彼女は呪文書が散乱した古びた木机を見つめながら自問した。
否。
もともと、母の息苦しさから逃れるために魔法の道を歩み、ようやくその最高峰であるサントエルマまでたどり着いた。ここで引き返すわけにはいかない。
彼女がサントエルマの森にやってきたとき、父はもういなかった。
とうの昔に、失われた魔法の探索の旅に出たらしい。消息不明のまま長い年月が経ち、サントエルマの森では「死亡」とされていた。
今、彼女が使っている部屋は、かつて父が使っていたものだ。
奇妙な縁は感じるものの、特に感慨はない。どうせ、母と彼女を捨てた、知らない男だ。
・・・とはいえ、父の遺産に頼らざるを得ないときかも知れない。癪ではあるが。
彼女は、山積みされた書物の中ほどにある藍色の背のノートを見つめた。なるべく、見ないようにしていたものだ。
このままでは、彼女がサントエルマの森の魔法使いとして認められる見込みは低く、良くてせいぜい実験助手になれるかどうか、悪ければ森を追い出されるだろう。
師たちをあっと驚かせるような実績を上げるしか、もはや道はない。
しばし逡巡する。
彼女は小さくため息をつくと、意を決して藍色のノートに手を伸ばした。それは、父が残した失われた魔法への手がかりの記録だった。
父もなし得なかった業績を成し遂げれば、サントエルマの森にとって大きな革新となるだろう。
それは危険な道のりかもしれない。けれども、伸るか反るか、勝負に出るときだ。
ポーリンは苦笑した。母は窒息しそうになるほどに慎重な人だった。いざとなると大胆な勝負に打って出たくなるこの性格は、一体誰に似たのだろうと。
父のあとを追い、失われた“影の魔法”を復活させるのだ。