何者でもない者たちの物語:烈火の魔女と本読むゴブリン#4
#4.風を感じたら、すぐ帆をあげろ
チーグは、ゴブリン王国の第一王子であったが、“人間好き”という希代の変わり者であった。
幼少期、捕虜になった人間と仲良くなり、人間の言葉や知識を学んだ。略奪品の中に混じる数少ない人間の書物を読みあさり、人間への興味は増していった。
ゴブリン族はしばしば人間を襲い、人間もゴブリンを討伐すべき魔物と認識していることがほとんどだが、チーグは人間から学べばもっとゴブリン王国は栄えるに違いないと確信するようになった。
かくして、彼は王に即位するまえに、人間の知識をもっと学びたいと父王に申し出た。
父は絶句し、頭を抱えた。
父王は、他のゴブリンたちよりも開明的なほうであったが、ゴブリンの単純な生活に、人間の知識が必要であるということが理解できなかった。王に理解できないことが一般のゴブリンたちに理解できると思えない。まして、ゴブリンを敵視する人間たちの世界を、王子に旅させることは危険極まりなく、場合によってはゴブリン王国を窮地に陥れるような事態も招きかねない。
父王は強く反対したが、チーグの人間に対する興味は尽きず、その熱意も並々ならぬものであった。
そしてついに、父王はいくつかの条件をつけて、チーグの出奔を許可した。
曰く、一年以内に王国に有益な知識を得て帰国すること、敵対的な勢力の捕虜になったり、一年以内に帰国しない場合には縁を切り、王国とは関係なき者とするということ。
そうしてチーグは、世話係のノトと、親衛隊長のデュラモとともに、人間世界へ旅に出たのであった。
人間の世界での経験と、知識と、そしてゴブリン王国では決して手に入らない貴重な書物を得て、チーグは帰国の準備を整えているのであった。
「・・・というわけで、あと一月以内にゴブリン王国へ帰らなければならない。ラザラ・ポーリン、あんたの任務は、俺をゴブリン王国まで送り届けること。俺の帰国を阻もうと企む連中たちが、襲ってくるだろう。その護衛だ」
そう言ってから、チーグは木製のカップに入った緑色の液体の香りをかぎ、喉を潤した。
椅子に座らされたポーリンの前にも、同じものが置かれている。ノトが準備してくれたものだが、ポーリンは一切手をつけていなかった。
「・・・飲まないのか?」
「私は、ちょっと・・・」
ポーリンはせいぜい丁重に聞こえるように言葉を発したが、端正な顔が嫌悪感に歪むのは隠しきれなかった。ノトがナメクジをカップに入れているのを目にしていたからである。
チーグはにやりと笑った。
「ナメクジのスープ、美味しいんだけどなぁ・・・人間は、みんな嫌がる」
「ええ、その、ありがとう。気持ちだけ」
ポーリンはカップを遠くに押しやり、少し落ち着いた表情を浮かべた。
そして、仕事の話を切り出した。
「・・・あなたの帰国を阻もうとするのは、だれ?」
「うむ」
チーグは難しい表情を浮かべた。
「いくつも考え得るが、大きな勢力は二つ、だな。俺を追い落とし自ら王になる野心を持つ第三王子のヨー、そしてゴブリンの伝統的な生活を守りたい保守的な氏族長たち・・・ダンという者がその最右翼だ」
「なるほど・・・」
ポーリンはうなずいた。
「第三王子と、氏族長たちが敵・・・簡単な仕事ではなさそう」
「ああ、それに加えて、もう一つ問題がある」
チーグはテーブルの上で手を組み、少し身を乗り出した。
「王国への入り口となる西の砦、通称<岩門>は、ヨーの部下たちが守りを固めているらしい。従って、そこ以外から、密やかに王国へ帰還しなければならない」
「・・・正面から入れないから、裏手からこっそり入るというわけね?」
「そうだ。俺たちは、ダネガリスの荒野を通らなければならない」
そう言ってチーグは、ちらりとノトを見た。ノトは恐ろしそうに身を震わせていた。
「ダネガリスの荒野とは?」
ポーリンは繰り返した。
「強力な魔法がかけられた、と伝説に言う地だ。知恵と勇気なき者は、命を落とすと伝承にあり、我々もほとんど足を踏み入れない」
「魔法・・・」
ポーリンの声には、強い興味が込められていた。
「そうだ」
チーグが熱っぽく言う。
「だから、あんたの力が必要なんだ」
「ふうん・・・」
ポーリンは椅子の背にゆっくりともたれながら、小さく何度かうなずいた。
「それは、面白そう」
その言葉を聞いて、チーグはうれしそうに笑った。
「そう言ってくれると信じていた。前金で金貨100枚払おう」
「・・・上等ね」
「ああ、そして王国へ無事帰還したあかつきには、同じくらい価値がある王国の財宝を分け与えよう」
「乗った」
ポーリンは即座に答えた。
彼女が冒険者組合で仕事を請け負うのは、次の目標へ向けてお金が必要であることもあるが、同時に魔法使いとしての腕を磨ける場を求めてのことでもある。その目的のためには格好の仕事であるように思えた。
「『風を感じたら、すぐ帆をあげろ』」
チーグは緑色の瞳を希望に輝かせながら言った。
「イザヴェル教国の思想家マコライの言葉だ。さっそく明日、出発しよう、日の出とともに」
ポーリンは、新しい冒険の始まりに血が騒ぐのを感じていた。身体は熱いが、どういうわけかわずかながらに身震いする。
「望むところよ、よろしく・・・チーグ。まだ“何者”でもない王子」
チーグは口元を緩めた。わずかながらに牙がのぞくが、少年の八重歯のように見えた。
「よろしく、ラザラ・ポーリン・・・“何者”でもなきただの魔法使いよ」
そう言ってから、思い出したように付け加えた。
「そうそう、あんた以外にあとひとり、雇っている護衛がいる。その者も、明朝には街の東門に現れるだろう。仲良く頼むぞ」
同じころ、雑多な街の外れにある占い師の館に、不穏な者たちが集っていた。
そこは秘密の冒険者組合<黒色の鷹>―――誘拐や殺人などの、大きな声では言えぬ仕事を請け負いたい者たちが集う場所。
幾重にもかけられた黒いヴェールの向こうから、老婆の声がした。
「例の者の出立が近い」
集うものたちのざわめきが室内の空気を揺らし、ヴェールの奥にあるろうそくの炎を揺らした。老婆の影が不気味にゆらめく。
「首を取るのは早い者勝ちぞ、報酬ははずむ」
その言葉で十分であった。
日の当たる任務ではなく、邪悪だが手軽に報酬を得ようとする闇の賞金稼ぎたちは、意気揚々と冒険者組合から出て行った。
老婆はろうそくの炎を消そうとしたが、まだひとりの人物が残っていることに気づいた。
「・・・おや、あんたは?」
壁際に背をもたれかけ、腕組みをしながら黙ってその場にたたずんでいた人物がヴェールの前に歩を進めた。
赤いマントに身をくるみ、右目は眼帯に覆われている。
「この仕事の報酬は、どこから出る?」
「<四ツ目>かい・・・ゴブリン王国の第三王子だと聞いているが?」
「そうか」
<四ツ目>は興味を失ったかのように、小さく息をついた。
「ならば、かまわない」
老婆がヴェールの奥から眼帯の男を見上げようと身をかがめた。ねずみ色のフードに包まれたしわくちゃの顔がわずかにのぞく。
「あんたも狙っているのかい、そのわりにはずいぶんとのんびりしているねえ」
<四ツ目>は口元をゆるめた。
「腐ってもゴブリン王の長子、頭も良いと聞く。あんなクズどもには討ち取れまい」
「ふうん・・・」
老婆は興味深そうに<四ツ目>を見つめた。<四ツ目>は少し、楽しそうだ。
「それに、腕のいい魔法使いも雇ったようだ」
「そうかい」
老婆は伸びた爪をはやした指で、顎をさわりながら考え込んだ。
「・・・首を取ってきてもらわねば、困る。仲介している私も報酬がなくなるからな。あんたが請け負ってくれればうれしいのだが・・・<四ツ目>よ」
<四ツ目>はくるりと振り返ると、興味なさそうに右手を挙げた。
「・・・俺のやり方はもっと洗練されている」
(つづき)
(はじめから読む)